みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

維新後、ドイツをモデルにした日本(´△`)

 

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明治維新後、日本は新たな国家を築くために模索していました。

 

西洋の近代化に追いつくため、使節団を欧米に派遣しました。岩倉具視を正使とした岩倉使節団(明治4年~明治6年、1871年~1873年)です。

 

アメリカやイギリス、フランスなど視察しましたが、あまりにも日本との文明の差が大きいことに、愕然としました。

 

当時の日本は、燃料は薪、明かりはロウソク、通信は飛脚、陸の交通は馬か人力、船は帆船でした。

 

ところが西洋は、燃料は石油・石炭、明かりは電気・ガス、通信は電気通信、陸の交通は鉄道、船は蒸気船です。

 

圧倒的な差がありました。

 

その産業の担い手は、国営だけでなく民間企業も多数占めていました。民間企業が自由に競争して、産業・経済を活性化させていたのです。

 

日本の使節団の誰もが、いきなり西洋をマネするのは不可能だ、と考えました。

 

いったい、西洋のどの国をモデルとしたらいいのか、悩みました。

 

 

日本と似ていたドイツ

 

ところがドイツを訪れたとき、希望の光がみえました。ドイツは、日本と共通する部分があったからです。

 

1871年、約300の領邦(半自立の国)から成るドイツが統一されました。国内のゴタゴタで忙しかったドイツは、他の西洋の国より産業が遅れていました。

 

遅れを取り戻すため、主に国営で産業を発展させようよとしてたのです。産業を管理するのは、国の官僚です。

 

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産業革命を成功させたイギリスは、民間企業による市場経済に力を入れていました。しかし、まがい物商品や詐欺が横行していました。

 

ドイツは、混乱を防ぐため、国の官僚に産業や市場を管理させたのです。

 

日本の使節団の中でも、大久保利通がドイツから学ぶことに熱心でした。

 

 

国営企業をつくった

 

使節団の帰国後、民営の企業もできましたが、徐々に政府所有の国有企業を発足させていきました。

 

電電公社(現NTTグループ)や国鉄(現JR東日本・西日本)、日本郵政公社(現日本本郵政グループ)などが有名ですね。

 

産業以外にも、医学や軍事について、日本はドイツから学びました。

 

いくつもの国有企業ができましたが、現在では、その多くが民営化されました。国有化企業の欠点を無くすためと、市場を活性化するために行なわれた、といわれています。

 

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ある国有企業はコスト意識に欠け、赤字を膨らませました。ライバルがいないため、サービスや料金面で顧客満足が得られない国有企業もありました。民営化によって、それが改善されるようになつたのです。

 

いずれにしろ、武士階級の封建制度から脱却して、近代化を目指す岩倉使節団の決断は正しかった、といえましょう(^_^)

 

 

ひとこと

 

使節団が帰国後、国営企業をつくり、役人を採用するとの考えを公にしたら、元武士階級の不満が高まりました。

 

萩の乱や佐賀の乱、西南戦争が起こった一因にもなったようです(o゜ー゜o)??

 

 

なぜ、江戸幕府は鎖国をしたのか(・・?)

 

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江戸時代、江戸幕府は、オランダを除いて西洋の国々と鎖国をしました。長崎に出島を設置して、そこでオランダだけと貿易を行ったのです。

 

東アジアでは、琉球(沖縄)と対馬藩をとおして、明(中国)、李氏朝鮮(朝鮮半島)と貿易を続けていました。

 

でも、戦国時代には、スペインポルトガルとも、盛んに交流があったのです。

 

なぜ、西洋は、スペインやポルトガルを排除して、オランダ一国だけの鎖国体制になったのでしょうか?

 

鎖国など行わないで、西洋と積極的に貿易を続けていれば、日本でも優れた産業が発展したはずですが・・・・?

 

 

豊臣秀吉がバテレン追放例を出した

 

織田信長は、ポルトガルのバテレン(神父)と良好な関係にありました。豊臣秀吉も信長の政策を継承して、キリスト教の布教を容認していました。

 

しかし、天正15年(天正15年)に、豊臣秀吉はバテレン追放令を発します。

 

秀吉が九州を平定した後、長崎がイエスズ会の領地になっていることを知ったのです。

 

また、ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として、ポルトガルに連れて帰っていた事実も知りました。

 

その他、様々な理由で、バテレン追放令が出されたのです。

 

1.キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。

2.キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため。

3.ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。

4.秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。

  参照元:バテレン追放令-ウィキペディア

  

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また、秀吉は、ポルトガルやスペインが東アジアの国々を植民地化するために、キリスト教の布教を足掛かりにしていたことを知ります。

 

キリスト教の布教を容認していれば、やがて本願寺一向一揆のような巨大な武力集団ができることを、恐れました。

 

江戸時代になっても「島原の乱」など、キリスト教徒による大規模な反乱が起きます。反乱後、江戸幕府では、キリスト教の禁止令を強化しました。

 

そして、キリスト教の布教に力を入れるスペインやポルトガルの来航を禁じます。キリスト教圏である西洋の国々の中で、貿易に力を入れるオランダのみ来航を許可したのでした。

 

もちろん、キリスト教の布教禁止を条件に、オランダと貿易を行いました。

 

 

織田信長なら鎖国したか?

 

戦国時代、織田信長は西洋の学問や技術に、たいへん興味をもっていました。キリスト教を保護して、教会もつくらせました。信長の領内で、布教も許可しています。

 

宣教師が献上した地球儀や時計、世界地図、黒人などに、信長は夢中になります。

 

信長は「西洋かぶれ」になった、といっていいかもしれません。南蛮の帽子やマントを好んで着用します。

 

常に新しいものを求めてやまない信長は、日本国内平定後、西洋と積極的に貿易を行う考えを持っていた、という見方がされています。

 

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それは、豊臣秀吉と徳川家康の支配体制と比較すると、推測ができます。

 

信長は、天下の大半を支配したころから、敵対勢力に対する方針を変えたのです。以前は、戦で負けた敵を、信長の傘下に入れることがありましたが、それをやめて、取り潰すようになりました。

 

敵から奪った領土は、家来に支配させ、直轄地を増やそうとしたのです。

 

これは、各地域にいる権力者が支配する封建制度とは違う、中央集権制を目指していたため、ともいわれています。

 

中央の政権が日本全国を治められる、強固な国家体制を目指していたものと考えられます。

 

たとえキリスト教を足掛かりに西洋が、日本を植民地にしようとしても、つけ入る隙を与えない体制です。

 

豊臣秀吉と徳川家康の天下では、各大名や各藩が半独立国として存在していました。

 

これでは、西洋がその半独立国を足掛かりにして、豊臣政権や江戸幕府を切り崩する恐れがあります。

 

江戸幕府は、やもえず鎖国した、といえましょう(・∀・。)

 

 

ひとこと

 

鎖国のおかげで、日本人は江戸文化を開花させた、といわれています。

 

日本独自に、算術や工芸技術、文化が発達しました。

 

幕末の開国後、これが西洋文明を吸収するための下地になった、と考えられています。

(●´▽`●)

 

 

幕末、薩摩藩は、なぜイギリス軍に負けなかったのか(ー_ー?)

 

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19世紀、イギリスは大英帝国(だいえいていこく)と呼ばれ、植民地・海外領土を合わせると、世界最大領土をもつ超大国でした。

 

東アジアの大帝国・清は、そのイギリスに対抗できる軍事力がなく、あっさりと「アヘン戦争」で負けてしまいます。

 

負けた清は、多額の賠償金を払い、香港島を割譲しました。香港島はイギリスの植民地になったのです。

 

その世界最強の軍事力を持つイギリスに、日本の小さな地方政権でしかない薩摩藩が、「薩英戦争」で、負けるどころかイギリス軍を追い払ってしまったのです。

 

薩摩藩はイギリスの艦砲射撃により、鹿児島城下の約一割を焼かれ、軍事施設にも損害を受けました。

 

しかし、「ちっぽけな薩摩なんか、すぐ降伏してくるだろう」と油断していたイギリスは、予想外の損害を被ります。

 

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薩摩藩の放った砲弾がイギリス軍の旗艦ユーライアラスに命中したのです。艦長・司令や次官司令などの士官が戦死しました。

 

その後、イギリス軍は劣勢に立たされ、薩摩への攻撃を諦め、講和して横浜に逃げ帰ります。

 

この薩摩の戦勝に、世界中が驚きました。

 

当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」

 

参照元:薩英戦争-ウィキペディア

 

 

 

薩摩藩は海外と貿易して力をつけた

 

江戸時代、日本は鎖国をしていました。しかし薩摩は琉球(沖縄)を通じて、密貿易を行っていたのです。

 

薩摩藩の第11代藩主・島津 斉彬(しまづ なりあきら)のときには、西洋の工業技術を積極的に取り入れていました。

 

富国強兵のため、地雷・水雷、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設をしました。

 

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その他、ガラス・ガス灯の製造、水力発電や電信通信(モールス信号)が、薩摩藩内で実施されていたのです。

 

いずれも日本初ともいえる技術が実用化されていたのです。

 

薩摩藩以外の他藩や幕府は、ここまで熱心に西洋文明を取り入れてはいないようでした。

 

鎖国状態で戦のない平和な日本は、「井の中の蛙」になっていたようです。

 

 

 

競争の原理が働いた薩摩藩

 

密貿易で海外と交流していた薩摩藩は、日本国内では「鎖国」に近い状態でした。

 

幕府の隠密が薩摩の内情を探りに侵入すると、絶対に生きて戻れない、とまで言われていました。

 

密貿易や富国強兵のことも外部に知られないよう、徹底していたのです。

 

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これは幕府を「仮想敵国」と考えていたからです。

 

薩摩藩内では、武術鍛錬も他藩と比較にならないほど盛んでした。「薬丸自顕流」という超実践的な剣術流派を学ぶ人が多く、農民まで習っていました。

 

幕末、幕府との戦で、この薬丸自顕流が大活躍します。

 

薩摩藩は幕府を「敵」とすることで、競争の原理が働き、世界最強のイギリス軍にも負けない軍事力を持つことができたのかもしれません。

 

 

ひとこと

 

成長の糧として、敵(ライバル)の存在は、とても重要ですね(●´∀`○)

 

 

転職の苦い経験を生かした豊臣秀吉(*´д`)??

 

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もし、日本一の転職成功者を選ぶとしたら、誰でしょうか?とくに基準があるわけではないので、とても難しいです。

 

でも、戦国時代は、豊臣秀吉が日本一の転職成功者、と言っても過言ではないでしょう。

 

なにしろ農民から天下人になったのですから、まぎれもない日本一です。

 

それでも秀吉は、すんなりと転職を成功させたわけではありません。

 

何回か奉公先(就職先)を点々としました。

 

しかし、転職先で味わった苦い体験を生かし、織田信長の家臣として秀吉は、最大限に力を発揮して、やがて天下人になったのです。

 

 

織田ではなく、今川を選んだ

 

秀吉は、尾張・中村の百姓の子として生まれました。

 

ところが秀吉は、農作業が大嫌いでした。また、義父の竹阿弥と仲が悪く、ある日、突然、家を飛び出してしまったのです。

 

「俺も、いつか出世してやる!」という野心を抱きながら、武家へ仕えることを考えました。

 

高い年貢を武士から搾り取られる百姓は、まっぴらだったのです。

 

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最初、地元・尾張の武家へ奉公しようと考えましたが、やめました。

 

尾張は、守護代の織田家や家老の織田家などが互いに争い、とても不安定な状態だったからです。

 

また、織田の苗字が多く、いったい、どの織田同士が味方で、どの織田同士が敵なのか、とてもわかりにくかったのです。

 

これでは、せっかく奉公しても争いに巻き込まれて、命を失うおそれがあります。

 

そこで秀吉は、尾張の織田氏より、比較的、国内が安定してみえる隣国の今川家で働くことにしました。

 

 

古参の同僚に、イジメられた秀吉

 

今川氏の家臣・松下加部兵衛に、秀吉は仕えました。

 

野心家の秀吉は、猛烈に仕事に打ち込みます。その甲斐あって、主人の松下加部兵衛に気に入られ、重要な役を任されるまでになりました。

 

ところが、まわりの古参の同僚達は、面白くありません。秀吉の出世を妬んだ同僚達は、秀吉をイジメまくります。

 

秀吉は反発しますが、同僚達のイジメイヤがらせはエスカレートするばかりです。

 

家中が揉めるので、松下加部兵衛は悩みました。家中の争いを抑えるため、仕方なく加部兵衛は、秀吉を解雇します。

 

失業した秀吉は、針売りなどをして、生活費を得ながら、新しい奉公先を探しました。

 

 

織田信長に仕えた秀吉は、”気配り人間”になった

 

その後、織田信長に秀吉は仕えることができました。

 

尾張の織田家の中でも、織田信長は「うつけ」と呼ばれ、評判は最悪でした。普通なら、そんなところに奉公するはずがありません。

 

しかし、秀吉は信長の英邁さを見抜き、周囲の反対を押し切って、家臣となりました。

 

そして、松下加部兵衛に仕えたときの失敗を繰り返さないために、秀吉は同僚や先輩に、たいへん気を配ります。

 

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同僚や先輩だけではありません。主君の信長はもちろんのこと、周囲のどんな人にも気を配る「気配り人間」になりました。

 

言葉を変えるならば、人の嫌がることはやらないようにして、人の喜ぶことを行うようにしたのです。

 

しかし、戦になると、敵に対しては逆になります。

 

敵の喜ぶことはやらないようにして、敵の嫌がることを行うようにしたのです。

 

運にも恵まれましたが、徹底した気配りや機転が功を奏し、秀吉は、やがて天下を掴むことができました。

 

つまり、日本一の転職成功者となったのです。

 

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ひとこと

 

人の心を理解して、行動することが大事、ということですね(´‐秀吉‐`)

 

 

桐生の日本人初9秒台とアフリカの人類!?

 

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昨日、まさか日本人から10秒の壁を破る選手が現われるとは思いませんでした。

 

あまり陸上には興味のない私ですが、同じ日本人が黒人選手並みに9秒台の記録をだしてくれ、とても嬉しかったです。

 

しかも桐生祥秀選手は、両親が日本人なので、なおさら嬉しかったです。

 

なぜならば、父がガーナ人のサニブラウン・ハキームか、あるいは、父がジャマイカ人のケンブリッジ飛鳥のどちらかが、日本人初の9秒台を出す、と思っていたからです。

 

身体能力が優れている外国人の血を受けている両者と桐生では、圧倒的に桐生が不利と思っていました。

 

それをくつがえしての日本人初の9秒98は、本当に素晴らしいです!

 

 

なぜ黒人選手は走るのが速いのか

 

ほとんどの黒人選手の先祖は、アフリカに住んでいました。

 

そして、あの広大な草原を狩のために、走りまわっていたのです。自然、走る身体能力が発達します。

 

そのDNA(遺伝子)を受け継いだ黒人選手が速いのは当然です。

 

 

欧米人や東洋人は、走る能力が退化した

 

人類の起源はアフリカといわれています。なので、欧米人や東洋人の祖先もアフリカということになります。

 

アフリカから出た人類は、地球上のあらゆる大陸に向かって移動。住みやすい地域を見つけると、そこに定着しました。

 

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その過程で馬やラクダに乗って移動したり、農耕や遊牧を行うようになりました。

 

狩猟の場合でも、馬に乗って行うことが多くなります。

 

そんな環境の中で、走る身体能力が、アフリカの人類よりも退化した、と考えられます。

 

 

人類の体毛が少ないのは、長く歩行するため

 

普段は気にも留めないのですが、人間の体は体毛が少ないです。人間以外の陸上哺乳類は、ほとんどが体中、体毛で覆われています。

 

これは、人間が長距離を歩行できるようになるために、進化したからです。

 

体毛がないため、汗がかけます。によって効率よく体を冷やすことができ、長距離を歩行することが可能になったのです。

 

それによって、野生動物を狩ることが、より効率よくできるようになりました。

 

 

持久力で野生動物よりも優れていた人類

 

アフリカの人類は、狩猟で主な食料を得ていました。

 

しかし、アフリカは広大な草原が多いです。人類がまともに野生動物を追いかけても、追いつくはずがありません。

 

人類最速の男・ウサイン・ボルトが、時速37~38kmで走るといわれています。

 

アフリカに住む、バッファローが50km、トムソンガゼルが65km、キリンが51km、ダチョウが70kmの速度で走ります。

 

いくら頑張って走っても、人類はとても野生動物に追いつけないのです。

 

しかし、体毛でおおわれている野生動物は汗がかけません。それにアフリカは気温がとても高いです。

 

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野生動物は、口でゼィゼィ息を吐いても、体温はなかなか下がりません。

 

だから、人類に長時間、追いかけられると、野生動物はやがて体力を消耗して、早く走れなくなります。

 

また、アフリカの草原では、身を隠すところも少ないです。

 

ところが、人類は汗がかけるので、長距離を歩いたり、走ったりしても元気です。

 

ノロノロしている野生動物を仕留めて、食料にすることができたのです。

 

体毛の少ない人間の体は、ある意味、狩猟のために進化した結果、ともいえそうです。

 

でも、私は狩りなどしたことはありません。釣りはありますが(^―^)

 

 

ひとこと

 

9秒台の記録は、ほとんど黒人選手で占められています。

 

アフリカから最も離れた国の日本人が、9秒台を記録したことは、繰り返しますが、実に素晴らしいです\(^ ^)/

 

 

日本の漢字は、なぜ海外で人気があるのか(*´д`)??

 

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古代中国から発祥した「漢字」は、中国の周辺国にも広まり、いわゆる漢字文化圏を形成しました。

 

唐(とう、618年 - 907年)王朝の時代になると、周辺国は漢字から発展させた独自の文字を創ります。

 

そんな中で、朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)王朝は、漢字だけを使い続けました。

 

新羅語と唐語では、語順が違うので、かなり不便だったはずです(・・?)

 

唐語は、主語→動詞→目的語ですが、新羅語は、主語→目的語→動詞の順に話したり書いたりします。

 

つまり、

唐語は、私→愛する→あなた・・・・となります。

新羅語は、私→あなた→愛する・・・・となるわけです。

 

日本も漢字は使い続けました。日本語の語順は、新羅と同じで、唐とは異なります。

 

しかし新羅と違い、日本は、新たな文字を付け加え、語順を変えることなく、より便利に漢字を使用することに成功したのです。

 

 

平仮名と片仮名をつくった日本

 

唐の周辺国が漢字を変化させたり、あるいは漢字文化圏以外のアラビア文字などを取り入れたりしました。

 

ところが日本は、平仮名(ひらがな)片仮名(かたかな)をつくり、漢字はそのまま使いました。

 

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平仮名と片仮名を漢字と漢字の間に入れて、日本語の語順を変えることなく使えるようにしたのです。

 

現在、漢字を発明した中国では、漢字を簡略化した簡体字が使われています。お隣の韓国や北朝鮮では、記号のようなハングル文字が使用されています。

 

中国の簡体字は、日本の漢字とはかなり見た目が違っています。韓国のハングル文字は、まったく似ても似つきません。

 

簡体字やハングル文字は、漢字(文字)を使いやすくする機能面を追及したため、日本の漢字よりも美しさで負けている気がします(・・?)

 

 

平仮名と片仮名のおかげで漢字の美を残せた

 

ところが日本では、平仮名と片仮名が、漢字を使いやすくする機能面を補ってくれました。中国や韓国のように、漢字を極端に変形させる必要がなかったのです。

 

そして、古来からの漢字の持つ美しさを保つことができました。

 

その日本の漢字が外国人からは、クールでカッコイイ絵や記号に見えるとのことです。

  

アート感覚で漢字をファッションに取り入れたり、漢字をタトゥーにして、体に入れたりして楽しんでいるようです。

 

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ひとこと

 

日本は島国のため、母音が5個しかありません。韓国語は母音が21個もあります。

 

古代は、多少、母音の数は異なっていたのでしょうが、日本より朝鮮半島で使われる母音の方が多かったことは、ほぼ間違いありません。

 

日本が平仮名と片仮名という便利な文字を使えたのも、母音が少なかったおかげですね。

(●´∀`)

 

 

なぜ日本人は、頻繁に丁寧にお辞儀をするのか(*´д`)??

 

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日本人は、よくお辞儀をしますね。

 

海外から「日本のお辞儀文化は素晴らしい」と賞賛されています。日本人は礼儀正しくて、親切だ、という声もよく聞きます。

 

でも、日本にいると実感がわきません。礼儀正しくない人も少なからず存在するからです(私もかも?)。

 

ところが、旅行で香港に行って、日本に戻ったときは、日本人の礼儀正しさにホッとさせられました。

 

香港のコンビニで買い物をしても、店員さんはブスッとしている人が多かったです。

 

もちろん、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございます」みたいなことを、広東語でも英語でも言いません。黙ったままです。

 

香港の空港も愛想が悪かったです。案内窓口で何か問い合わせると、ふてくされ顔で応えられました。

 

おまけに英語で話すので、私はチンプンカンプンでした(´Д`;) 

 

銀行で両替したり店で買い物をしても、行員や店員がお辞儀をしているところを見ませんでした。

 

日本に戻ってコンビニで買い物をしたとき、店員さんから「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」と言われて、すごく嬉しかったです。

 

銀行や店では、時々、お辞儀をしてくれます。

 

日本は、いい国だな、と思いました。

 

でも、なんで日本人は礼儀正しく、お辞儀を熱心にするようになったのでしょうか?

 

 

中国や韓国の歴史ドラマでヒラメク?

 

「中国歴史ドラマ」や「韓国歴史ドラマ」を見ていたら、ヒラメキました。なぜ、同じ東アジア人なのに、日本人が最も頻繁に頭を下げて、お辞儀をするのかが少しわかりました。

 

両国の歴史ドラマにでてくる女性は、大きなカツラやカンムリを被っている人が多いのです。

 

とくに偉い人になるほどその傾向が強くなります。

 

あんなドでかいものを頭にのせていたら、日本人のような、深く頭を下げるお辞儀ができるわけがありません。落っこちてしまいます。

 

だから中国も韓国も、カツラやカンムリが落ちないように工夫されたお辞儀になったのです!・・・・といっても、これはあくまで私の勝手な想像です(*^~^*)

 

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それにしても、なぜ、中国や韓国ではあんなに大きなカツラやカンムリになったのでしょうか?

 

おそらく、身分を表すためではないでしょうか。皇后や王妃、皇族、王族、貴族など身分が高いほど被り物が大きくなっているようです。

 

偉くなると、さぞ、首も疲れそうです(。´-д-)

 

 

日本は湿度が高いから、頭を涼しくしたかったのか?

 

ご存知のとおり、日本は湿度が高いです。だから日本人は、昔から風呂が好きです。

 

また、江戸時代の日本の男性は、ほとんどが月代を剃っています。もともとは戦国時代、武士が鎧兜をかぶり続けると頭が蒸すので、それを防ぐために行われた習慣です。

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ところが戦の無い江戸時代になっても、この習慣は続きました。武士ではない町人や商人なども、このヘアースタイルをマネしたのです。

 

女性は月代を剃りませんが、中国や韓国に比べるとシンプルな髪型です。

 

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湿度の高い日本では、涼しげな髪型が好まれたようです。

 

 

お辞儀のしやすい髪型?

 

島国の日本では、土地に定着して、同じ人と長く仕事や行事をすることが多いため、丁寧な応対を心がけるようになりました。

 

中国や朝鮮は、人の流動が激しく他国人との接触も多いため、日本ほどには丁寧な応対には、ならなかったようです。

 

お辞儀のしやすい髪型と丁寧な応対を心がけるため、日本人は自然と頻繁にお辞儀をするようになったのかもしれません。

 

 

ひとこと

 

この夏、忙しかったので、お風呂に入らないでシャワーだけで済ましていました。冷房の部屋で過ごすことも多かったです。

 

そのため体が冷え、腰が痛くなりました。腰が痛いとお辞儀するのはつらいですね。

 

そんなときは「ホカロン」です。ホカロンで腰を暖めれば、たちまち痛みが消えます。

 

仕事中、暑い日でも腰にホカロンを当て、お客さんにお辞儀をしていました。

( ●`▽´● )

 

 

「フーテンの寅さん」は、不思議な映画だ?

 

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昨日、ブログ記事で「特上うな重」のことを書いたら、映画の男はつらいよ「フーテンの寅さん」を思い出しました。

 

主人公の寅さんの故郷である葛飾区柴又、帝釈天の門前商店街は、うなぎ料理でも有名だからです。

 

私も子供のころから両親につれられて、何度も柴又でうなぎを食べました。すごく美味しかったことを覚えています。

 

草団子もメチャクチャ好きでした。

 

 

奈良時代にも、「寅さん」と「さくら」が柴又に住んでいた?

 

奈良時代、柴又のあたりに「刀良(とら)」「佐久良賣(さくらめ)」が住んでいた戸籍簿が、奈良の正倉院で発見されたことは、有名な話です。

 

また、寅さんに似た埴輪も葛飾区の柴又八幡神社境内の古墳から発見されています。

 

映画「男はつらいよ」山田洋次監督は、そのことを知らずに「寅さん」と「さくら」というキャラクターをつくったとのことです。

 

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まったくの偶然であり、山田監督自身も不思議な思いを抱いたそうです。

 

「・・・・略・・・・はるか昔、万葉の時代に生きていたトラさんという強烈な個性の持ち主が寅さんを主人公にした映画を作らせたのかも知れませんね。もしかして!」(寅さん記念館展示)

 引用元:古代武蔵学事始め・「寅さん」と「さくら」 - 奈良時代にもいた? 

 

 上記の山田監督のコメントは、今年の春、私が「寅さん記念館」に行ったときも、その記念館で見ました。

  

男はつらいよ「フーテンの寅さん」がつくられた経緯は、偶然と偶然がやたらと重ねあってできた映画という感じです。

 

一見、偶然に見えることでも、なんか不思議な因縁があるみたいですね?

 

 

フーテンの寅さんみたいに旅をしていた奈良時代の男性?

 

奈良時代、柴又に住んでいた「刀良(とら)」と「佐久良賣(さくらめ)」は、行基や鑑真和上とほぼ同時代の人のようです。

 

奈良時代の律令制度は、庶民にとっては最悪の法律であり、過重な税負担を押しつけていました。

 

租・調・庸という税がありました。

 

租は米ですが、奈良の都まで農民が自分で届けなければなりません。柴又から奈良までは、たいへんな距離です。

 

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フーテンの寅さんのように電車やバスに乗っていけるわけではありません。

 

また、男子は都で労役に就いたり、防人という兵士として働く義務もありました。命を落とす者も少なくありませんでした。

 

防人は、柴又も含まれる東国の関東あたりからの徴兵が多かったのです。

 

そして、庶民の生活はたいへん苦しく、逃亡者や勝手にになって税を逃れる人も大勢いたのです。

 

行基は、それらの民衆を助けるために働きました。鑑真和上は、税逃れの私度僧を防ぐために仏教の戒律を定めました。

 

 

映画「寅さん」と同じような別れのシーンが古代にもあったかも

 

そんな厳しい状況の日本で、世界に誇るべき古典「万葉集」という天皇、貴族、庶民、防人まで至る和歌集が詠まれていました。

 

万葉集の防人の歌の中に、妹のことを詠んでいるものがあります。この時代の妹とは、「いも」と読み、妹だけでなく妻や姉、恋人のことでもあります。

 

私にとって、映画「フーテンの寅さん」の中で印象深く、好きなシーンが、

「お兄ちゃん、行っちゃうの、行かないで・・・・」

の「さくら」が「寅さん」を見送るところです。

 

古代の柴又あたりでも、同じように妹(女性)が兄(男性)を見送るシーンがあったのではないかと、想像を巡らしてしまいました。

 

 

ひとこと

 

今年の春、休日に柴又に遊びに行ったとき、すごい人だかりで驚きました。

 

バスガイドが旗を持って大勢の人を案内していました。観光地としても有名なようです。

 

また、今年3月、柴又駅前に「さくら像」が建てられました。以前がらある「寅さん像」を見送る位置にあります。

 

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「さくら像」よりも「寅さん像」と一緒に記念写真を撮る人が多かったです。

 

でも、私は「さくら」が好きなので、

「見送り、ごくろうさん」

と、やさしく「さくら像」の肩をなぜてやりました●^U^●)

 

高杉晋作は、信長と逆のことをやって成功した?

 

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幕末の高杉晋作は、戦国時代の織田信長とのことを行い、成功させました。

 

織田信長は、当時、農民でもあった武士の農作業をやめさせ、専業武士にしました。「兵農分離政策」です。

 

これによって、本格的な訓練ができ、自在に操れる最強の軍ができたのです。

 

高杉晋作は逆に、農民や庶民、武士などが混成した部隊「奇兵隊」を創設しました。

 

もちろん、本業も兼ねた兵士の軍です。「兵農・庶・武結合政策」ともいえそうです。

 

信長とは正反対のことを晋作は行い、成功させたのです。

 

 

信長の専業武士は強かった

 

戦国時代、兵農分離による本格的な専業武士を備えていたのは、信長がだけです。専業武士の利点を活用して、信長は他の戦国大名を圧倒したのです。

 

敵国が農作業に忙しい時期でも、専業武士には農作業はありません。農作業中の敵を攻撃することができます。

 

戦が本職ですから、緊急の場合でも集結して軍を編成するのも容易です。敵からの奇襲、あるいは奇襲攻めを行う場合でも迅速に動けます。

 

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また、長槍鉄砲で編成した集団戦法を、普段から訓練することができ、戦場で効果的な攻撃が可能になります。

 

農民兵にはない機動力や組織力を最大限に発揮して、圧倒的な強さを発揮したのです。

 

農民と武士を分離することで、大きな攻撃力が確保できました。

 

 

幕末、武士は貴族化していた?

 

戦国時代が終わり江戸時代になると、戦のない平和な時代が続きました。

 

戦国時代と違い、武士の身分が確立され、農作業を兼業する武士はいなくなりました(郷士を除く)。そして、武士は貴族化して、戦う能力も徐々に失われていきました。

 

幕末、外国からの驚異が強まってきます。戦を経験していない武士階級は、旧態依然の制度に固守して改革に熱心でありません。

 

そんな状況を危惧していた人物がおりました。長州藩の吉田松陰です。

 

藩内で松下村塾という私塾を開いていた松陰は、『西洋歩兵論』など外国からの侵略を防ぐ方法について講義していたのです。

 

旧態依然とした戦国時代からの戦い方では、西洋の進んだ武器や戦法に敵いません。西洋と同じ水準まで日本も高めなければならない、ということを熱っぽく講義していました。

 

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その影響を受けた塾生の高杉晋作は、後に「奇兵隊」を創設したのです。農民や庶民を中心とした戦闘部隊です。奇兵隊では、鉄砲や大砲を使用した集団戦法を重視しました。

 

高貴な身分に安住していた武士階級と違い、庶民からなる奇兵隊の士気は高まります。農民や町民でも手柄をたてれば出世できるため、訓練も一所懸命にやり抜きました。

 

西洋式の訓練を受けた奇兵隊は、当時、最新の武器であるミニエー銃やスナイドル銃を扱って、大いに戦果を上げました。

 

そして、他の官軍とともに幕府軍を打ち破り、明治維新で大活躍したのです。

 

 

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ひとこと

 

明治政府が開かれると「徴兵制度」ができました。国民が兵役を担う義務を負うという制度です。

 

「奇兵隊」は志願制でしたが、一般人から兵を募る点で、近代的軍隊の先駆けといえるかもしれませんね(●^U^●)

 

島津斉彬は、西郷隆盛と大久保利通の師だった!?

 

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西郷隆盛と大久保利通は、明治維新の元勲であり、長州の木戸孝允とともに「維新の三傑」と称される英傑です。

 

薩摩藩の第11代藩主である島津斉彬は、その二人の主君であり師でもあります。

 

島津斉彬は、あまり有名ではありませんが、頭が二つある、といわれたほど聡明な人物です。

 

幕末、斉彬は、日本で初めての蒸気船・雲行丸(うんこうまる)を建造しました。

 

その他、溶鉱炉・反射炉の建設、水雷・地雷・ガス灯・ガラスなどを製造しました。西洋の工業技術を積極的に取り入れていたのです。

 

後にイギリスの海軍が薩摩を攻めたとき、これを薩摩藩は見事に撃退しています。

 

当時、世界最強といわれたイギリス海軍を敗退させるほど、薩摩藩の工業技術とともに兵器の水準も高かったのです。

 

富国強兵に尽力した島津斉彬の功績ともいえるでしょう。

 

そして、西郷隆盛と大久保利通という維新で活躍した弟子も育てたのです。

 

 

西郷隆盛はカリスマ性と統率力があった

   

西郷隆盛は、たいへん人間的な魅力にあふれて人物で、カリスマ性がありました。

 

薩長連合や江戸無血開城など、西郷の統率力がなけれ成し得なかったといわれています。

 

江戸へ進軍中、官軍の駐留する駿府を訪れた山岡鉄舟と会談して、江戸無血開城を受け入れました。

 

降伏の条件で、山岡鉄舟から強い要求があり、官軍内でも激しく意見が分かれました。しかし、最後には西郷が官軍の意見をまとめ、鉄舟の要求を受け入れたのです。

 

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また、軍事の天才と称される大村益次郎を、官軍全体の司令官に任命したのは西郷でした。

 

大村益次郎は、誰に対しても遠慮がなく、たいへん無礼な言葉を吐く癖がありました。気性の激しい薩摩の将校に対しても、その態度は変わらず、恨みを買っていました。

 

「大村を司令官にするな!」との意見も多かったのです。

 

しかし、西郷が大村の軍事的才能の必要性を説き、官軍司令官として大村を認めさせました。

 

官軍内で意見が割れても、西郷の統率力によって一致団結することができたのです。

 

西郷のカリスマ性は偉大でした。

 

 

大久保利通は近代国家の基礎を築いた

 

幕末のころ、イギリスでは産業革命によって経済が発展していました。しかし、経済を市場原理に任せていたため、製品の粗悪品や偽物が出回ったり、詐欺などが横行していました。

 

それを反面教師にしたドイツは、経済を市場原理に任せるのではなく、国家が任命した官僚が管理する体制を整えていたのです。

 

近代国家を目指す日本にとって、ドイツの官僚主導体制を取り入れるべきだと大久保利通は考え、実行しました。

 

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また、武士の身分制度があっては、近代国家の構築は不可能と考え、武士身分を剥奪させ、徴兵制を導入しました。

 

この新制度に不満を持つ武士の反乱が相次ぎました。西南戦争では西郷が反乱軍の大将となり、大久保は盟友の命を奪うことになりました。

 

後に紀尾井坂で大久保は、不平士族6名によって暗殺されます。

 

西郷隆盛と大久保利通は、ともに日本の近代化のために戦ったのですが、いまでも西郷は人気があり、大久保は人気がありません。

 

でも、いつの時代も嫌われ役いないと、組織や国は良い方向にすすみませんね。

 

 

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ひとこと

 

西郷隆盛と大久保利通の陽と陰のキャラクターによって、薩摩藩は維新で大きな力を発揮したといえるでしょう。

 

また、その二人の弟子を育てた島津斉彬の功績も偉大ですね(●´I`●)

 

朝鮮半島では、古代から国を守るのに苦労していた?

 

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島国である日本は、古代から他国の侵略を受けず、独立を保つことができました。四方が海なので攻められにくかったのです。

 

ところが隣の朝鮮半島は、大陸と陸続きです。中国にも近いです。それでも中国の王朝から、ほとんど征服されることもなく、独立を保ってきました。

 

もちろん、日本のような完全な独立ではなく、中国王朝の属国の時代が多くを占めています。

 

大陸と陸続の朝鮮半島は、中国王朝を中心とした周辺国の影響を強く受けてきました。

 

 

中国が弱くなると朝鮮半島は強くなる

 

中国が朝鮮半島に領土を広げたのは、前漢王朝の武帝のころです。おそらく武帝の時代に朝鮮半島の西北部を領土にしたのが、最初で最後のようです。

 

武帝の時代以外は、朝鮮半島の国を属国として扱い、間接統治が主でした。

 

後漢王朝の時代になり国力が衰えると、周辺の国が勝手気儘になり、領土を広げるようになりました。

 

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中国東北部方面の高句麗が、半島にある後漢王朝の領土を削りとるようになります。後に半島に百済が興り、後漢王朝の勢力は半島から駆逐されました。

 

つまり、中国が内紛や分裂で力が弱くなると、半島にある国は強くなり、中国が統一王朝になると、半島にある国は弱くなるということです。

 

中国の統一王朝で力の強いときは、属国という立場で半島国は独立を保ちました。

 

 

朝鮮半島に進出した目的とは?

 

別の見方をすると、朝鮮半島は、領土にしたくなるほどの魅力がなかったともいえます。鉱物資源や農産物など他国が欲しがるほどではなかったのかもしれません。

 

豊臣秀吉が朝鮮を攻めたときの目的は、明へ攻め込むための道を借りるためでした。朝鮮の国そのものに魅力を感じたわけではありません。

 

明治から昭和にかけて日本が朝鮮を併合したのも、列強と呼ばれる国々からの驚異から守るためだとか。

 

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もし、朝鮮半島が列強の領土になってしまったら、次に隣国の日本が狙われます。列強に侵略される前に、日本の防衛のために併合したといわれています。

 

その後、第二次世界大戦で日本は降伏して、朝鮮の統治権を失いました。朝鮮半島は、韓国(大韓民国)と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の二国に分かれました。

 

近代から現代にかけて、朝鮮半島をとりまく環境は大きく変化したようです。

 

 

ひとこと

 

モンゴルが高麗を攻めたときは、高麗は約40年間にわたり抵抗しました。江華島に高麗の首都を移し、反抗しました。

 

遊牧騎馬民族のモンゴル軍は、海が苦手でした。それに対して、半島の国である高麗は、海戦が得意でした。

 

モンゴルと交戦中の高麗は、国王や文臣ではなく、武臣が権力を掌握していた武臣政権の時代でした。そのため主戦論が強く約40年間も戦い続けたのです。

 

その時代を描いたドラマ「武神」が見ごたえあります。普段は大人しくて真面目な主人公のキム・ジュンが怒ったときの迫力がすごいです。

 

モンゴル軍にも怯まない、勇猛な高麗の武人が描かれています(●^U^●)

 

 

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奴婢から最高権力に地位まで昇りつめたキム・ジュンをとおして、モンゴルと高麗の攻防が見ものです!

 

 

毛利輝元は、関が原の戦いで「無能」だったのか?

 

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関が原の戦で毛利輝元は戦わず敗れました。大阪城に3万ほどの兵を温存したまま、関が原には侵攻せず、むざむざ負けたのです。

 

毛利輝元が3万の兵を率いて関が原へ出陣すれば、西軍が勝っていたといわれています。

 

そのため輝元は「無能」のレッテルが貼られたことで有名です。

 

しかし、本当に「無能」だったのでしょうか。見方を変えれば、当時の難しい状況の中で、最善の選択をしたともいえます。

 

その証拠に毛利家は幕末まで存続して、多くの倒幕の志士を生みます。明治維新後には、日本初の総理大臣である伊藤博文まで輩出したのです。

 

関が原の戦いで、輝元の的確な決断がなければ、後の明治維新の成功もなかったかもしれません。

 

 

祖父の家訓を守った毛利輝元

 

関が原の戦の当時、毛利家は約120万石の広大な領地がありました。もともとは安芸(広島県西部)の小さな国人領主で、大内氏と尼子氏に圧迫されていました。

 

しかし、輝元の祖父である毛利元就の代で、大内氏と尼子氏を滅ぼし、中国の覇者となりました。支配する領地も200万石(150万石の説もあり)ちかくになります。

 

元就が中国を制覇したときは、すでに日本各地に大勢力が天下とりに向かってしのぎを削っていました。

 

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広大な領地を持つ毛利家ですが、元就は天下を望みませんでした。

 

それまでの苦難に満ちた経験から、天下争奪戦に毛利家が参加したら、滅亡する可能性が極めて高い、と判断したのです。

 

だから、元就は、自分の息子や孫にも天下を望んではならない、と強く戒めました。

 

天下を制覇しそうな大勢力と手を組み、毛利家を存続させることを何よりも優先させたのです。

 

そのため、「領地が半分、あるいはさらに半分になっても、安芸の小領主だったころよりも大きい領地が残る。それで満足しろ」とまで元就は言いました。

 

輝元は、その祖父の教えを忠実に守り、毛利家を存続させることに成功したのです。

 

 

生き残りをかけた毛利輝元

 

関が原で、輝元の甥である吉川広家は、家康の味方になりました。総大将の輝元は、大阪城で動かずいたのです。

 

この行動は、西軍か東軍のどちらかが勝利しても、勝った側の下で、なんとか毛利家を存続させるための苦肉の策です。

 

事実、紆余曲折の跡、毛利家は大幅に領地を削られましたが、約38万石の大名として周防国と長門国(山口県)で家を保つことができたのです。

 

もし、仮に輝元が3万の兵を率いて関が原の戦に参加し、西軍が勝利したらその後はいったいどうなっていたでしょうか。おそらく日本全体が乱世に逆戻りしたはずです。

 

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家康の息子である徳川秀忠は、関が原の戦に間に合わず、約3万の兵を温存しています。関東の江戸城には家康の次男、結城秀康が控えています。

 

日本各地には、伊達政宗や島津義久のような野心家が少なくありません。

 

最も恐ろしいのが、当時、九州の大半をほぼ制圧した黒田官兵衛です。豊臣秀吉も恐れた怪物のような官兵衛が、漁夫の利を虎視眈々と狙っているのです。

 

この状況下で天下争奪の乱戦に参加するのは、たいへんなリスクが伴います。

 

やはり、おじいさんの言いつけを守った輝元の判断は、正しかったようです。

 

 

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ひとこと

 

もし、毛利輝元が、はっきりと東軍に味方していたら、どうなっていたでしょうか。

 

味方でも家康は、毛利家120万石の大領をそのままにはしておかなかったはずです。

 

いずれにしろ領土が削られることは、間違いないなかったでしょうね(●^□^●)

 

北条政子や藤原不比等など外戚が、幕府・朝廷の実権を握った!?

 

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「かかあ天下」の家庭は円満といわれますが、皇帝や王の妻の場合は、かなり危険です。国が傾く恐れがあります。

 

皇帝や王、権力者の妻の親族(外戚)が実権を握ることによって、政治が腐敗し、権力闘争になることが多いからです。

 

古代中国では、漢帝国を建国した劉邦の妃・呂 雉、唐の則天武后や楊貴妃で、李氏朝鮮では安東金氏や閔妃などがいます。皇帝や王の在位中、あるいは死後に権力を振るいました。

 

古代中国の場合、外戚(妃の親族)が権力を握る期間は、比較的に短いです。長くても一代限りの場合が多いです。

 

李氏朝鮮では、妃の外戚である安東金氏が60年ちかく権力を保持しました。閔妃の実権があった期間は短いです。

 

ところが日本の場合、外戚が権力をつかむと、中国や朝鮮と違い、数百年以上の長きにわたって権力を離しません。

 

 

藤原氏の血統を天皇家に送り込んだ不比等

 

奈良時代、藤原不比等は、娘である藤原宮子を文武天皇に嫁がせました。そして、後に聖武天皇として即位する首皇子(おびとのみこ)を生みます。

 

首皇子が誕生したとき、

「これで藤原氏が外戚として、朝廷での権力が握れる」

と藤原不比等やその親族の藤原氏は、大喜びしました。  

 

そして、朝廷で実権を握るための策を企てます。

 

藤原不比等の思惑どおり、その後、藤原氏は300年以上にわたり、摂関家として朝廷を牛耳り、栄華を極めました。

 

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民衆のために貢献しようという気は薄く、日本全国の荘園から、多くの年貢が藤原氏に集まる仕組みをつくりました。

 

農民は飢え死にしたり、食うや食わずの生活です。

 

ところが、藤原氏などの貴族は、夏は日本酒のオンザロックを飲み、牛乳やチーズなどのご馳走を、たらふく食べていたのです。当時の氷や乳製品は超高級品でした。

 

平安時代末期から武士が政権を担うようになりましたが、明治から昭和にかけて、藤原氏の子孫から何人かの総理大臣が出ました。

 

途中、凹んだ時期もありましたが、藤原氏はまさに千年以上もの間、権力に深く関わっていたことになります。

 

 

わが子を殺害してまで幕府の実権を奪った北条政子

 

鎌倉時代の初頭、またまた外戚が権力を握ります。その中心人物は、尼将軍と呼ばれた北条政子です。

 

源頼朝が亡くなった後、政子は頼朝との間で生まれた実子を殺害して、源氏の嫡流を滅ぼします。

 

その後、政子の親族である北条氏が執権となり、鎌倉幕府の実権を握りました。源氏に代わり、京の公卿を将軍として迎え入れました。実権のない公卿将軍です。

 

150年間ほど続いた鎌倉幕府も、ほとんどの間、外戚に乗っ取られていたわけです。

 

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朝廷は鎌倉幕府を倒そうと軍を送りますが、政子の演説ひとつで鎌倉武士の結束は固まり、逆に朝廷側の軍を撃退して、首謀者の後鳥羽上皇を流罪にしました。

 

政子の弟である北条義時が幕府軍を率いたのですが、以後、朝廷の軍を倒した唯一の武将として知られるようになりました。

 

「雌鳥が鳴くと家が滅びる」と言われたりしますが、北条政子の場合はそれが当てはまらなかったようです。

  

 

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ひとこと

 

 外戚が長期にわたって権力握るのは、島国である日本特有の現象がもしれませんね。

(●^皿^●)

 

金正男の事件と韓国歴史ドラマは、似ているような気がする(*´д`)??

  

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金正男(キムジョンナム)氏の殺害事件が、連日にわたって報道されています。なぜか「韓国歴史ドラマ」を彷彿(ほうふつ)させる事件です。

 

北朝鮮が関わった明確な証拠はないようですが、関与が疑われています。

 

政権を脅かしそうな兄弟を亡き者にする展開は、「韓国歴史ドラマ」ではやたらと登場するシーンです。金正男氏の事件も、まるでドラマか映画の世界みたいです。

 

もし、本当に北朝鮮が関与したのならば、国家の後進性を露呈するような事件ではないでしょうか。

 

北朝鮮の最高権力者・金正恩(キム・ジョンウン)の周囲への残酷な仕打ちをみると、高麗や李氏朝鮮の王朝が、北朝鮮で今でも続いているかのようです。

 

独裁者が邪魔者を排除して、政権の延命を図るが、やがてその独裁政権も倒されてしまう、といのが歴史のひとつのパターンです。

 

そう考えると金正男の弟の独裁者・金正恩は、いつまで政権を保ち続けられるのか実に危ゆい感じです。

 

 

元(中国)の人質が高麗(朝鮮)の王になったことがある

 

今回の事件で、とくに思い出すのが韓国歴史ドラマ「シンドン~高麗中興の功臣~」と「ホジュン~伝説の心医~」です。

 

「シンドン」では、元(中国)で人質だった王子・江陵大君が、元の後押しで高麗(朝鮮)の王になります。第31代の高麗王(在位:1351年 - 1374年)の恭愍王(きょうびんおう)です。

 

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もちろん、恭愍王の前王と一族などは、国内の親元勢力によって粛清(しゅくせい)されました。

 

元や親元勢力の力が強いため、恭愍王には強い権力がありません。

 

傀儡(かいらい)に近い恭愍王でしたが、奮戦して高麗を改革しました。しかし最後には、内官(宦官)によって殺害されます。

 

金正恩からみれば、兄の金正男は、江陵大君のように王位(権力)を脅かす存在だった、といえるかもしれません。

 

 

日本で生涯を終えた李氏朝鮮の王子

 

現在、無料のGYAOで韓国歴史ドラマ「ホジュン~伝説の心医~」を見ています。

 

時代は、豊臣秀吉の朝鮮討伐も含まれており、当時の王である宣祖や、王子の臨海君、光海君が登場します。

 

宣祖の長男・臨海君の王子が加藤清正に捕らえられ、日本に送られます。そして、千葉県鴨川市にある日蓮宗・誕生寺の僧侶となり、日延と名のります。

 

徳川家康が天下をとった後、日延は、朝鮮への帰国が許されますが、それを断わり日本に留まります。

 

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朝鮮では宣祖の次男・光海君が王になっていました。光海君は、日延の父・臨海君に敵対して王になったのです。

 

だから日延が朝鮮に戻れば、王位を狙う敵とみられ、命の保障がありません。日延は戻りたくても戻れなかったのです。

 

後に東京都港区白金台の日蓮宗・覚林寺に移り、日本という異国の地で生涯を終えます。

 

北朝鮮に戻れず、他国で生涯を終えた金正男に、少し似ていますね。

 

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私は、ドラマやドキュメントを、いつも楽しんでいます。

 

 

ひとこと

 

何度、見ても政争で親子兄弟が争う姿は、たいへん痛ましいものです。

 

本来、助け合うべき家族が敵同士になってしまうのですから、とても悲惨です。

 

権力とは、恐ろしいですね(●゚д゚●;)

 

神通力や霊力、超能力とは何だ?

 

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私は、幽霊やUFOを見たことはありませんが、二度ほど予知能力を自分に感じたことがあります。

 

自宅でゴロゴロしていたときに、突然「電話がかかってくる」と思った一秒後ぐらいに、本当に電話がかかってきたことが二回ありました。

 

中学生のころ、私は友人から「テレパシー能力があるのか?」と言われたことがあります。

 

友人が私に電話をすると、友人が話す前に、友人の言いたいことを、私の方からほとんど言ってしまうそうです。そう言われて自分でも驚きました。

 

しかし、私の知り合いの中には、幽霊や人魂、UFOを見たとかいう人がいます。証拠を見たわけではありませんが、実にそうゆう人が多いです。

 

テレビ番組でも時々、紹介されている神通力や霊力、超能力とは、本当にあるのでしょうか?

 

 

忍者は、不思議な力を訓練で後天的に得る?

 

霊力や超能力を生まれつき備えている人と、訓練で身につける人がいるみたいです。

 

忍者は主に訓練によって、その不思議な力を身につけるようです。

 

子供のころ忍者マンガで、忍者が姿を消して、敵の屋敷や城に忍び込むシーンにわくわくしました。大人になってからは、小説で忍者の修行や忍術を少し知りました。

 

忍者は修行中、魚や肉を避け穀物中心の食生活で、山中にこもります。普段の食生活では、熱したものは摂らないようにします。夜目が効くように動物の内臓を食べたりもします。

 

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小説では、忍者は本当に姿を消せるわけではありませんが、見張りや敵に催眠術をかけて自分の姿を消しているのです。

 

また、相手の心の中に入り込んで、幻覚を見せたり、自在に操ったりします。

 

一度、訪れたことのある場所なら、精神を集中すると、離れたところからその場所の情景を見れるとのこと。

 

忍者は訓練によって霊力や超能力を身につけるようですが、もちろん、どこまで本当かはわかりません。

 

 

動物にも不思議な能力がある?

 

動物にも不思議な能力があります。渡り鳥の長距離飛行や鳩の帰巣本能です。これらの鳥には方向を認知する器官が脳内にあるといわれています。

 

でも、方向の認知能力だけでは説明できない話を聞いたことがあります。自宅から1,000キロほど離れた病院の入院患者の部屋まで、自宅で飼っていたが飛んできた、というニュースが海外で話題になったことがあります。

 

静岡県に住んでいる私の親戚は、猫を飼っていました。ある日、何らかの理由でその猫を、自動車で20分かかる郊外へ捨てました。ところが2週間後に戻ってきたそうです。

 

猫は嗅覚が鋭いですが、自動車のタイヤの臭いを嗅ぎながら歩いたら、車に跳ねられます。嗅覚なのか方向認知能力なのかわかりませんが、不思議な話です。

 

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狼や犬はテレパシー能力があると、テレビで紹介されていました。狼はテレパシーで仲間とコミュニケーションをとり狩りをするそうです。

 

飼い主の帰りを待つ飼い犬は、飼い主がある程度、自宅に近づくと嬉しそうに鳴いたりします。臭いや音ではなく、飼い主の帰宅を知る不思議な能力があるとのこと。

 

このほか、たくさんのネズミが逃げだす船は沈む、といわれています。

 

動物も、テレパシーや千里眼、予知能力のようなものが備わっているのでしょうか?

 

 

ひとこと

 

人類の祖先も動物に近かったわけですから、同じような能力があったのかもしれません。

 

二足歩行や脳を発達させることにより、それらの不思議な能力が退化したともいわれています。

 

でも、予知能力は少し欲しいですね。先週、買った宝くじが当たってほしい!

 

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