関が原の戦で毛利輝元は戦わず敗れました。大阪城に3万ほどの兵を温存したまま、関が原には侵攻せず、むざむざ負けたのです。
毛利輝元が3万の兵を率いて関が原へ出陣すれば、西軍が勝っていたといわれています。
そのため輝元は「無能」のレッテルが貼られたことで有名です。
しかし、本当に「無能」だったのでしょうか。見方を変えれば、当時の難しい状況の中で、最善の選択をしたともいえます。
その証拠に毛利家は幕末まで存続して、多くの倒幕の志士を生みます。明治維新後には、日本初の総理大臣である伊藤博文まで輩出したのです。
関が原の戦いで、輝元の的確な決断がなければ、後の明治維新の成功もなかったかもしれません。
祖父の家訓を守った毛利輝元
関が原の戦の当時、毛利家は約120万石の広大な領地がありました。もともとは安芸(広島県西部)の小さな国人領主で、大内氏と尼子氏に圧迫されていました。
しかし、輝元の祖父である毛利元就の代で、大内氏と尼子氏を滅ぼし、中国の覇者となりました。支配する領地も200万石(150万石の説もあり)ちかくになります。
元就が中国を制覇したときは、すでに日本各地に大勢力が天下とりに向かってしのぎを削っていました。
広大な領地を持つ毛利家ですが、元就は天下を望みませんでした。
それまでの苦難に満ちた経験から、天下争奪戦に毛利家が参加したら、滅亡する可能性が極めて高い、と判断したのです。
だから、元就は、自分の息子や孫にも天下を望んではならない、と強く戒めました。
天下を制覇しそうな大勢力と手を組み、毛利家を存続させることを何よりも優先させたのです。
そのため、「領地が半分、あるいはさらに半分になっても、安芸の小領主だったころよりも大きい領地が残る。それで満足しろ」とまで元就は言いました。
輝元は、その祖父の教えを忠実に守り、毛利家を存続させることに成功したのです。
生き残りをかけた毛利輝元
関が原で、輝元の甥である吉川広家は、家康の味方になりました。総大将の輝元は、大阪城で動かずいたのです。
この行動は、西軍か東軍のどちらかが勝利しても、勝った側の下で、なんとか毛利家を存続させるための苦肉の策です。
事実、紆余曲折の跡、毛利家は大幅に領地を削られましたが、約38万石の大名として周防国と長門国(山口県)で家を保つことができたのです。
もし、仮に輝元が3万の兵を率いて関が原の戦に参加し、西軍が勝利したらその後はいったいどうなっていたでしょうか。おそらく日本全体が乱世に逆戻りしたはずです。
家康の息子である徳川秀忠は、関が原の戦に間に合わず、約3万の兵を温存しています。関東の江戸城には家康の次男、結城秀康が控えています。
日本各地には、伊達政宗や島津義久のような野心家が少なくありません。
最も恐ろしいのが、当時、九州の大半をほぼ制圧した黒田官兵衛です。豊臣秀吉も恐れた怪物のような官兵衛が、漁夫の利を虎視眈々と狙っているのです。
この状況下で天下争奪の乱戦に参加するのは、たいへんなリスクが伴います。
やはり、おじいさんの言いつけを守った輝元の判断は、正しかったようです。
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ひとこと
もし、毛利輝元が、はっきりと東軍に味方していたら、どうなっていたでしょうか。
味方でも家康は、毛利家120万石の大領をそのままにはしておかなかったはずです。
いずれにしろ領土が削られることは、間違いないなかったでしょうね(●^□^●)