鎌倉幕府第8代執権・北条時宗が元(蒙古)の使者を斬った話しは、有名な史実です。
もし、蒙古の使者を斬らなければ、元寇は起こらなかっただろう、といわれています。
北条時宗は、ボンボン育ちのため、周囲の意見に振り回され、判断を誤った、と論ずる専門家もいます。
そのため、「北条時宗は、アホだ」という評価も多いですね。
しかし、当時の鎌倉幕府が置かれた状況を考えると、元の使者を斬ったことは、必ずしも間違いとはいえません。
もちろん、人の命を奪うことは許されないことですが、現代と時代状況が違うため、仕方がありません。
では、なぜ、使者の命を奪う必要があったのでしょうか?
蒙古が朝廷と同盟することを危惧した
使者を斬った理由は、元と朝廷を同盟させないためです。
野蛮人にみえる元(蒙古)ですが、知的な戦略も得意です。敵対する国の敵対関係を調べ、内輪もめをさせ、漁夫の利を狙うのが元の譲渡手段です。
過去、後鳥羽上皇の承久の乱のように、朝廷がふたたび倒幕のため、動きだすことを恐れたのです。しかも蒙古と同盟して攻めてこられたら、到底、勝てません。
実際、元の使者は、直接、朝廷のもとにも訪れています。
だから、使者を斬ることにより、元を怒らせ、朝廷と元が同盟する隙を与えなかったのです。
朝廷は、ほとんど直属の兵をもっていません。朝廷の最大の武器は「権威」です。権威で武士を集い、敵対する勢力に対抗してきました。
しかし、このころの朝廷は、幕府により牙が抜かれており、元と同盟さえしなければ、恐れるに足りません。
日本は、海という自然の防壁に囲まれています。鎌倉武士が一致団結すれば、必ず勝てると踏んだのでしょう。
朝鮮半島の高麗が辿った運命をみでも、北条時頼が使者を斬った決断は正しいように思われます。
高麗では、朝廷と元が同盟して武臣政権を倒した
鎌倉時代、朝鮮半島の高麗も、武士が政権を掌握した「武臣政権」といわれた時代でした。
当時の高麗・武臣政権は強く、元が40年以上の間に9度も攻めてきましたが、頑強に抵抗しました。
しかし、最後には、高麗王朝と元が同盟を結び、約100年続いた武臣政権を倒したのです。そして、高麗は元の支配下に置かれました。
もし、日本でも、元の使者を斬っていなかったならば、限りなく高麗に近い状況になっていたかもしれません。
武力のない朝廷ですが、後に「建武の新政」が起こりました。鎌倉幕府は滅び、ふたたび政権が朝廷の手にもどったのです。
もし、朝廷と元が同盟を組んでいたら、かなり深刻な状況になっていたことでしょう。
だから、やはり北条時宗の決断は、正しかったと思わざるおえません。
ひとこと
当時、九州の武士たちは、北条時宗に謁見すると、時宗の堂々とした姿に圧倒され、それだけで、元に勝てると自信をもったそうです。
時宗は、一度も九州の戦地には行かず、鎌倉で指揮をとっていたとのこと。
・・・という話からすると、時宗は育ちの良いボンボンではなく、とても逞しい執権だったみたいですね(●>U<●)