みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

藤原氏は、漁夫の利を得た?

 

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日本が中央集権化された時期は、奈良時代の律令制と、明治維新の後に成立した明治政府が代表的です。

 

明治維新は、薩摩藩や長州藩、土佐藩などの官軍が江戸幕府を倒して、武士の世から近代中央集権国家を成立させました。

 

江戸幕府側の強い抵抗勢力を排除して、明治政府は誕生したのです。

 

ところが奈良時代の律令制の成立時に、抵抗勢力がいたのかどうかが明確ではありません。多少の反対派はいたのでしょうが、明治維新の時のように激しく抵抗した勢力は存在したのでしょうか。

 

物部氏が抵抗したという説があります。正確には、律令制が成立する過程で発生した公地公民制に抵抗したといわれています。当時、物部氏は日本で最大の領地を保有していたからです。

 

公地公民制とは、日本の土地はすべて天皇のものである、という制度です。つまり貴族や豪族の土地を取り上げることでもあります。代わりに官位を与えたりしました。

 

 

明治政府の成立後、武士の内乱が起きた

 

明治維新は、薩摩藩や長州藩、土佐藩などの官軍が江戸幕府を倒して幕を閉じました。

 

幕府側の激しい抵抗があったわけですが、明治政府の成立後も武士による抵抗や内乱が起きています。

 

長州藩では「萩の乱」、佐賀藩では「佐賀の乱」、そして最大の反乱が薩摩藩が起こした「西南戦争」です。

 

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武士にとってみれば、自分たちの身分が奪われるわけですから、激しく抵抗し続けたのです。

 

古代の公地公民制が成立するときも、同じような抵抗が起きていたかもしれません。

 

 

曽我氏と物部氏の争いは、どうして起きた?

 

古代、朝鮮半島の百済から仏教が伝来して、仏教を国教にするかどうかで朝廷は争っていました。

 

とくに仏教派の曽我氏と神道派の物部氏が争い、ついに武力衝突して曽我氏が勝利しました。

 

しかし、曽我氏と物部氏は、仏教の国教化に関する対立だけではなく、公知公民制をめぐって争ったのではないかという説もあります。

 

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物部氏が倒された後、藤原氏が曽我氏を倒し、朝廷で権力を握るようになります。

 

藤原氏は、曽我氏が物部氏を排除した功績を隠すために「聖徳太子」という人物を創作して、聖徳太子の功績にしてしまったとか。

 

実際に聖徳太子の実在を疑う説もあります。たしかに聖徳太子は、超人みたいな能力が強調され過ぎていたりして、信じ難い点もあります。

 

曽我氏と物部氏の戦いが、仏教をめぐってのものか、公知公民制が原因なのかは明確ではありませんが、両者の勢力争いであったことは間違いなさそうです。

 

藤原氏は、漁夫の利を得たのでしょうかね?

 

 

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ひとこと

 

最近では、公地公民制もあいまいで、私地私民制と混在していたという説もあります。

 

歴史はいろいろな説があり、わからないことだらけですね(●´∀`●)

 

桓武天皇の時代から、朝廷の軍が縮小した

 

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桓武天皇は、平安時代初頭の天皇です。奈良から京都へ都を移したことでも有名です。

 

また、日本の天台宗の開祖である最澄を支援して、比叡山延暦寺を建立させました。なにかと話題の多い天皇ですが、あまり知られていないのが軍隊の縮小です。

 

朝鮮半島・白村江の戦の後、唐・新羅の侵攻に備え、朝廷は軍隊を強化していました。

 

しかし、平安時代に入ると、唐との国交が開かれ、侵攻される危険がなくなりました。唐・新羅からの防衛のために組織された防人(さきもり)をはじめ、朝廷に属する軍隊が縮小されはじめたのです。

 

 

財政難で軍を維持するのが難しくなった

 

侵攻の危険がなくなっただけが軍隊縮小の理由ではありません。財政的にも軍隊を保つのが厳しくなっていたのです。

 

奈良時代に始まった律令制度が上手く機能せず、税収が増えないことも理由のひとつでした。

 

律令制度下で、農民は重い税負担に耐えられず、浮浪や逃亡する者が後を絶たちませんでした。勝手に僧になって税の負担義務がら逃げる農民も少なくありません。

 

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朝廷は徴税が困難になり、軍隊を維持する費用が十分に賄えなくなってきたのです。

 

また、寄進地形荘園が増え、朝廷でなく貴族のほうに多く年貢が徴収されたり、国司など地方の役人の横領なども原因です。

 

軍隊が縮小した後、検非違使という官人が京都の治安維持を担当しました。

 

 

武士を下請けの軍隊にしていた

 

そして後に朝廷は、軍隊を、ほとんど持たなくなりました。武力が必要な事態になると、武士に命令して対応していました。

 

武士とは、皇族から臣籍降下(しんせきこうか)して、武装した源氏や平家です。地方に土着して、武力で土地を支配した源氏や平家もいました。

 

このほか地方の貴族や豪族、有力農民が武装して、武士と呼ばれるようになりました。

 

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つまり朝廷は、これらの武士を下請けみたいに使って治安維持に当たらせていたのです。

 

武士も一応、天皇の臣下ではありましたが、独立性が強い存在でした。

 

そのため、武士同士の争いも多かったのです。これは朝廷の力が十分に及んでいない証拠でもあります。

 

 

朝廷の権威と、武士の武力

 

平将門や平忠常の乱を平定したときも、坂東(関東)の武士の武力で鎮圧しました。

 

武士のほうでは、朝廷の権威を借りられるので、素直に朝廷の命令にしたがっていました。

 

手柄をたてれば恩賞を朝廷からもらえます。近隣の武士同士の争いでも朝廷の権威を得られるほうが有利です。

 

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朝廷と武士は、持ちつ持たれつの関係だったのです。

 

これは島国の日本だから可能だったのでしょう。中国や朝鮮だったら、たちまち周辺の異民族から侵略を受けてしまいます。

 

実際に中国や朝鮮で、王朝が軍隊を持たないということは有り得ませんでした。日本だけの特殊な構造です。

 

 

ひとこと

 

平安時代末期、朝廷は武士に政権を奪われてしまいました。

 

朝廷の権威と武士の武力のバランスがくずれ、それ以降、江戸末期まで武士が政権を担うようになったのです(●^U^●)

 

江戸幕府は天領400万石で実力があった?

 

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江戸幕府の蔵入地(直轄地、あるいは天領)は、約400万石であったといわれています。

 

400万石という数字だけではピンときませんが、豊臣秀吉の蔵入地の石高と比較するとわかりやすいです。

 

豊臣政権のとき、豊臣秀吉の蔵入地は約220万石です。徳川家康が約245万石、毛利家が分家を含め約200万石、上杉家が約120万石、前田家が約100万石弱です。

 

豊臣家は、徳川家康よりも石高が低かったのです。毛利家ともさほど差がありません。そのほか100万石前後の大名が何人もいました。江戸幕府に比べると、豊臣秀吉は大判振る舞いをしました。

 

幕府や政権の蔵入地の石高は、その時代によって、諸事情により定まったものと考えられます。また、検地や体制によって蔵入地の石高の基準も違ってきます。

 

室町幕府や鎌倉幕府の蔵入地の石高は、正確なところは不明ですが、後の豊臣政権や江戸幕府に比べると格段に低かったようです。

 

・・・・となると江戸幕府の400万石は、蔵入地としてかなり大きな石高だったといえましょう。

 

 

豊臣秀吉は気前がよかったのか?

 

後の世で豊臣秀吉の人気が高いのは、明るい性格と気前のよさだったといわれています。

 

しかし、本当に気前がよかったのかどうかはわかりません。

 

当時の豊臣政権は、織田家から簒奪(さんだつ)した政権のため、基盤が強くありません。敵対する大名を滅ぼすことが多かった織田信長のように、強行に敵と戦うことができませんでした。

 

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織田家を簒奪した後、グズグズしていれば足元をすくわれかねません。敵対する大名を滅ぼすことは少なく、本領安堵、あるいは本領を削るだけにとどめることが多かったのです。

 

こうすることで、天下を早く平定することができました。信長のように敵対する大名を滅亡させ続けると、それだけ抵抗が強くなります。天下の平定が遅くなるだけでなく、逆に滅ぼされるリスクも高まります。

 

それらのリスクを避けるため、秀吉は大判振る舞いをした、と考えられます。

 

そのかわり、その分、権力基盤が弱くなったといえましょう。

 

 

蔵入地400万石の実力なのか?

 

江戸幕府は、粛清(しゅくせい)を多く行いました。勝手に城を改修した、跡取りがいない、お家騒動、農民一揆を起こしたなどの理由をつけては、大名を取り潰していきました。

 

江戸城や大阪城、名古屋城の改修には、全国の大名に手弁当で家来を集めさせました。年一回の参勤交代で全国の大名を江戸へ出仕させました。

 

これらは大名、とくに外様大名の財力を奪うために実施されたものです。江戸幕府に反抗させないための策略です。

 

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しかし、江戸時代には、大名が幕府に反旗を翻すような戦は起こっていません。過酷な仕打ちをされていても、逆らえないほど江戸幕府は実力を蓄えていたからです。

 

幕府の蔵入地400万石の実力かもしれませんね。

 

 

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ひとこと

 

織田信長が目指していた強固な中央集権にはほど遠いですが、それまで興った日本の政権のなかでも、江戸幕府の実力は高かったみたいです。

(●^□^●)

 

頼朝は、義経に困っていた?

 

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源義経は平家を滅亡させ、鎌倉幕府を樹立させた大功労者です。しかし、兄・源頼朝の追討軍によって命を奪われます。

 

義経は、一ノ谷の崖を、わずか七十騎とともの駆け下り、平家の大軍を敗走させます。その後も次々に平家軍を打ち破り、壇ノ浦で平家を滅ぼしました。

 

最大の功労者ともいえる義経でしたが、勝手な振る舞いが多く、徐々に頼朝からの信頼を失っていきます。

 

とくに朝廷から義経が官位を受けたことが、頼朝の信頼を完璧に砕きました。兄の頼朝に断りもなしに、勝手に義経が官位を手にしたことは、鎌倉政権の基盤を崩しかねない行為だったからです。

 

義経は朝廷にまるめこまれ、鎌倉政権と対立するよう仕向けられたのかも。後に義経は鎌倉を訪れようとしましたが、鎌倉へ入ることが許されませんでした。

 

義経は、朝廷と組んで鎌倉政権と敵対するつもりはなく、ただ単に思慮が浅いだけだったのかもしれません。

 

 

土地を守るために東国の武士は戦った

 

そもそも関東の武士が源頼朝を旗頭にして、平家と戦ったのは、自分たちの土地を守るためでした。

 

当時、東国の豪族(有力地主)の立場は、複雑で不安定でした。豪族の所有する土地が寄進地系荘園だからです。

 

土地の実質上の所有者である豪族や有力農民は、国司からの過剰な年貢の取立てを防ぐため、力のある貴族に自分の土地を寄進しました。貴族からの保護を受けるためです。

 

そうなると、国司も年貢を要求したり、余計な口出しができなくなります。

 

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しかし、やがて貴族や国司、近隣の豪族との争いが絶えないようになります。豪族や有力農民は、いつしか武装して自分の土地を守るようになったのです。

 

そんな状況の平安時代末期、平家追討の綸旨(りんじ)が朝廷から下されます。

 

これを関東の豪族や有力農民は、チャンスととらえたのです。伊豆に流罪されている源氏の嫡子・源頼朝を旗頭にして手柄をたてれば、自分の土地所有権が安定すると考えました。

 

平家を滅ぼし鎌倉政権ができると、功のあった豪族や有力農民の土地が同政権下で正式に認められました。

 

貴族や国司、近隣の豪族との争いも減少したのです。国司という行政官の力も弱まり、幕府が各地に置いた守護大名や地頭が台頭してきます。

 

 

朝廷は鎌倉幕府が邪魔だった

 

鎌倉幕府は朝廷や貴族からみたら邪魔な存在でもありました。寄進地系荘園が減少しため、貴族の収入が減ってしまったからです。

 

そこで朝廷は、義経を頼朝から離反させ、鎌倉政権を弱体化させようと考えたようです。しかし、義経は奥州の地で鎌倉武士団によって、命を奪われました。

 

これで頼朝は一安心しましたが、朝廷はその後も鎌倉幕府を打倒するため、策謀を重ねます。

 

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しかし頼朝の亡き後、鎌倉幕府を潰そうとした後鳥羽上皇は、流罪されます。

 

そして朝廷は、幕府に対抗する力を失います。それを切っ掛けに、幕府の支配は東国だけでなく、西国まで広がりました。

 

 

ひとこと

 

いつの時代も利害に関する争いは、無くならないものですね(●´I`●)

 

信仰心が自然災害で強くなった古代の日本?

 

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節分の豆まきは終わりましたが、バレンタインデーが近づいています。でも、日本は、なんで様々な信仰に関係するお祝い事が多いのでしょうか。

 

クリスマスが祝われたり、豆まきや縁日などは神社や寺院で開かれます。冠婚葬祭もキリスト教や仏教、神道などがあります。

 

特定の宗教だけを信仰している外国人からは、様々な宗教の行事に参加する日本人が不思議にみえるそうです。

 

でも、この日本人の多様な宗教観っていいですね。窮屈でなく開放感を感じます。

 

私も子供のころから、神社や寺の祭りで、金魚すくいや綿アメを食べたり、クリスマスにケーキが食べられるのが楽しかったです。

 

 

平安時代は、死刑が少なかった?

 

古代の日本人は、とても信仰心が強かったようです。死者が祟ることを恐れた平安時代は、原則として死刑が廃止されていました。

 

これは仏教の影響もありますが、もともと古代の日本人は、たいへん自然への信仰が強かったことが影響しているようです。

 

死刑が廃止されているので、一番重い刑が流罪です。菅原道真も藤原氏によって、京都から九州の大宰府に流されました。

 

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菅原道真の死後、道真の祟りを鎮めるため各地に「天神様」の神社が建てられました。それほど死者の祟りを恐れていたのです。

 

しかし、完全に死刑がなくなったわけではありません。死刑を行うことによる祟りが怖いので、朝廷や貴族は直接かかわらず、主に武士階級に、この自分たちがやりたくないことを実行させることがありました。

 

また、都を離れた地方では、地域の権力者の判断で実行されていたようです。

 

それでも表向きは、古代の時代に300年ほど死刑が廃止されていたのです。世界の中でも、たいへん珍しいことです。

 

 

日本は自然災害が多いため、信仰心が強くなった?

 

石器・縄文時代から日本列島へは様々な地域から人が渡ってきました。なかでも一番多かったのが朝鮮半島から渡ってきた人々といわれています。地理的に近かったためでしょう。

 

しかし、朝鮮半島から渡ってきた人々は、日本に来てたいへん驚きました。日本列島は朝鮮半島と比べ、自然災害の頻度が圧倒的に多かったからです。

 

まず、地震や津波が多いです。大雪や大雨、雷、河川の氾濫、台風などの被害も朝鮮半島よりはるかに多かったのです。現在も自然災害は多いですが、古代は今のような土木や科学の技術がありません。

 

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逆に雨が多く気候が温暖なため、朝鮮半島よりも農作物や木材など自然が豊かでした。

 

これらの理由から日本列島に渡ってきた人々は、自然に対する畏敬の念がたいへん強くなりました。そして自然にたいする信仰心が強くなっていったようです。

 

そのため、自然の一部である生き物を殺傷することを嫌うようになりました。仏教の影響もありましたが、鹿や猪、牛などの動物をおおやけには食さなくなったのです。

 

人間を殺傷するのも避けるようになりました。人を殺めた後、地震や津波、雷などの自然災害が起こると、死者の祟りだと恐れたのです。

 

だから、道徳的に死刑を廃止したわけではなく、祟りを恐れての死刑廃止だった面が強いようです。

 

この点も世界のなかで珍しいですね。

 

 

ひとこと

 

平安時代末期になると、武士が台頭してきて、武士による捕虜や罪人への斬首が多くなります。それでも後の戦国時代ほどではありません。

 

源頼朝が命を奪われず、鎌倉幕府を興せたのも、死刑を嫌う風潮が残っていたおかげかもしれませんね(●^皿^●)

 

三成は家康の誘導作戦に負けた?

 

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戦国の末期、天下分け目の戦が関が原で勃発しました。徳川家康が引きうる東軍の勝利に終わります。負けた西軍の将である石田三成は、捕らえられ処刑されました。

 

小説などで当時の状況などを知るにつけ、石田三成が徳川家康に誘いこまれて負けた、という感じです。三成は家康の誘いにのらず、時節を待てば勝つことができたかもしれません。

 

この戦いは、まさに後の先をとったほうが勝つ見込みの高い戦でした。剣術では、実力が伯仲している場合、先に切りかかった方が不利です。

 

相手の攻撃を見切って受け流し、隙のでたところを撃って勝つのです。だから、いかに相手に先に手を出させるかが勝敗の分れ目になります。

 

戦でも同じです。とくに鉄砲が主力になった戦国時代後期は、先に攻撃すると鉄砲の餌食になるだけです。そのため、野戦でも互いに睨み合いになることが多かったのです。

 

そのため、先に相手に攻撃させるため、互いにあの手この手を尽くします。

 

 

日本史上で最大規模の誘導作戦

 

誘導作戦で有名なのが第4次川中島の戦いで、妻女山に陣を敷き、自ずからを囮にした上杉謙信の作戦です。そして、武田信玄の三方ヶ原での戦、徳川家康の小牧・長久手の戦いがあります。

 

いずれの戦でも先に攻めた方が負けています。兵力差に圧倒的に差がなければ、先に攻めるのは、やはり不利なのです。家康は、数々の修羅場から得た経験によってそのことを熟知していました。

 

当時の家康は、関東8カ国の254万石を領有して、日本全国の約10分の1ほどの石高と八万の兵を動因できる実力がありました。

 

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しかし、婚姻作戦などによって味方を増やせても、上方の全兵力を敵にまわしたら、とても勝ち目はありません。

 

そこで誘導作戦です。家康は上杉討伐のため上方を留守にして、三成に先に攻撃させ、後の先で勝つ作戦を実行しました。狙いは見事に当たり、関が原で家康の東軍は勝利を収めることができたのです。

 

武田信玄の誘導作戦に敗れて、ウンコをもらしながら逃げた家康でしたが、日本史上最大規模の誘導作戦で西軍に勝利したわけです。

 

三成は誘導作戦にのらなければ、負けはしなかったかも?

 

もし、仮に三成が家康の誘導作戦にのらず、挙兵しなかったらどうなっていたでしょうか。おそらく家康の天下は遠のいたことでしょう。

 

「石田三成を撃つ」という大儀名分がなければ、豊臣恩顧の大名を味方につけることもできず、兵の数で圧倒的に不利だからです。

 

しかし、三成にものんびりしている時間はありませんでした。家康だけでなく、敵対する豊臣恩顧の大名との戦が避けられなかったからです。

 

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三成としては、家康を撃ち、福島正則や加藤清正、黒田長政など敵対する豊臣恩顧の大名も滅ぼしたいと考えていたようです。

 

その焦りが家康の誘導作戦にやられてしまった原因のひとつかもしれません。

 

 

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ひとこと

 

天下分け目の関が原の戦は、我慢比べで三成が家康に負けた、という感じもします。

 

幼少から苦労を重ねた家康は、我慢に我慢を重ねて勝機をつかむ能力が、群を抜いていましたね( ●`▽´● )

 

 

チンギス・ハーンはアメとムチの使い方が上手かった!?

 

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チンギス・ハーンは、モンゴル帝国の基礎を築いた人物です。とにかく獰猛な戦闘集団を率いたというイメージがあります。

 

機動力に優れた騎馬軍団を縦横に駆使して、多くの敵国の領土を奪いました。また、膨大な物量作戦により、いくつもの城や都市を壊滅させました。

 

敵国を征服後、モンゴル帝国を裏切った国に対しては、老若男女どころかネズミ一匹さえ殺しつくしました。そこまで徹底するのは、他の占領下の国への見せしめでもあります。

 

しかし、残虐な脅しだけで広大な版図を治めたわけではありません。モンゴルは人口が少ないため、武力だけでは限界があります。

 

武力という「ムチ」だけでなく政治政策における優れた「アメ」があったのです。

 

 

税金がやすかった!

 

税金がかなり安かったのです。遊牧騎馬民族のモンゴルでは、羊100頭につき2頭が税として徴収されていました。つまり税金が約2パーセントだったのです。

 

占領下の国の税金は、状況によってさまざまな税率だったことでしょうが、安かったことは間違いないと伝えらています。

 

少なくともモンゴルに占領される前より税金が安くなったため、民衆からは喜ばれたそうです。

 

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モンゴルに征服されたおかげで、それまで蔓延していた既得権益者による横領や理不尽な搾取が減少したことも、民衆の支持を受ける理由になりました。

 

圧倒的に強力な軍事力によって、民衆のための健全な政治をおこなうことを可能にさせたのでしょう。

 

このように民衆に喜ばれる「アメ」を使ったことで、支配地の反乱も減少していったようです。

 

人類初の不換紙幣を使用した!

 

モンゴルは遊牧騎馬民族なので、商取引は主に物々交換でした。しかし、支配地が大きくなるにつれて、当然、物々交換では効率が悪く、通貨を大量に使用するようになりました。

 

当初は、兌換紙幣(だかんしへい)という銀や金と交換できる紙幣や貨幣で取引していましたが、モンゴルの版図が大きくなるにつれ、銀や金が不足がちになります。

 

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銀や金に比較して通貨が増えすぎると、その通貨の信用が損なわれ価値が下がってしまいます。これではモンゴル帝国内での経済活動に支障をきたします。

 

そこで思い切った経済政策をおこないます。人類初の不換紙幣(ふかんしへい)の発行です。名前のとおり銀や金と交換ができない通貨です。モンゴル帝国の財務幕僚のひとりマフムード・ヤラワチによって、この政策が実行されました。

 

不換紙幣により、銀や金の量に影響されず、税金も不換紙幣で支払うことができるようになりました。これによりモンゴル帝国の経済活動を活発にすることが可能になったのです。

 

 

ひとこと

 

このほか、政教分離や信教の自由、奴隷解放などさまざまな政策を実施しました。モンゴル帝国の初期のころは、かなり民衆にとって暮らしやすい国だったようです。

 

しかし、やがてモンゴル帝国は分裂して、腐敗がすすみ、一部の分国を残して滅亡しました。

 

それでも世界の大半を征服したモンゴルは、アメムチの使い方がたいへん上手かったといえましょう(●^□^●)

 

 

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火薬が戦国時代の日本に影響を与えた

 

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中国四大発明は、紙、印刷、火薬、羅針盤です。なかでも火薬が戦国時代、日本に与えた影響は大きいです。

 

紙や印刷、火薬、羅針盤が発明されたのは、古代中国の時代からですが、宋王朝(11世紀)になると外洋船に指南魚(羅針盤)が使われています。紙や印刷、火薬、羅針盤は、ヨーロッパにも伝わりました。

 

ヨーロッパでは、火薬を応用して鉄砲が発明されました。中国でも銃器に近いものが発明され、ヨーロッパで改良されたという説があります。当初は花火のようなものであり、脅しのために使われることも多かったのです。

 

元が日本に襲来したときも花火のような爆弾が使われました。殺傷力は強くありません。大きな爆発音で日本の武士をビックリさせる程度でした。

 

 

羅針盤が大航海時代を可能にした

 

やがて、ヨーロッパは大航海時代に入ります。15世紀中ごろから17世紀の中期あたりまで、主にスペインとポルトガルによって、世界中の海へ航海が行われます。

 

外洋航海が可能になった理由のひとつに羅針盤があります。羅針盤によって方向を誤ることなく航海ができたのです。

 

夜の星座と羅針盤を頼りに、世界中の海を航海することが可能になったのです。

 

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もちろん、造船技術の発達もあります。大波が船上を襲っても、まるで樽のように密閉された甲板は海水の侵入を防ぐことができました。

 

そして、ユーラシア大陸の果てにある日本の種子島に、ポルトガル人を乗せた船が漂着したのは、1543年の9月ごろと言われています。

 

漂着した船は中国船とも南蛮船とも言われておりますが、このとき初めて日本へ鉄砲が伝わったのです。一緒に後の天麩羅になる揚げ物料理も伝わりました。

 

 

日本の鉄砲の技術は師の国を超えた!

 

鉄砲を試した種子島の日本人は驚きました。殺傷力と命中率がとてつもなく優れていたからです。鎧も貫通してしいまいます。射程距離も100~200メートルにも及びます。たちまち鉄砲は日本中に広まりました。

 

国産化にも成功して、鉄砲の性能は「鉄砲の師の国」であるポルトガルやスペインを凌駕するまでになりました。

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 戦国時代の後期の日本は、鉄砲の数、性能ともに世界一と言われております。長篠の戦で織田長信は3千丁の鉄砲で武田勝頼の軍を壊滅させましたが、これは世界初の集団銃撃戦法とされています。

 

キリスト教宣教師のルイス・フロイスは、

「日本の武士は世界最強である!」

と感嘆していました。

もし、ヨーロッパに日本の武士団が侵攻すれば、数ヶ月で征服してしまうだろう、とまで強調しています。

 

実際、文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島を攻めたとき、救援にきた明の20万あまりの兵を撃退しています。もちろん、主力武器は鉄砲です。

 

慶長の役の約20数年後、日本との戦で多大な損害を受けたことが原因のひとつとなり、明は滅亡しています。最後の中国王朝・清に征服されたのです。

 

 

ひとこと

 

古代中国で発明された火薬が、ヨーロッパで鉄砲に応用され、日本へ伝わり、日本が明を鉄砲で攻撃して、滅亡への原因をつくった、という壮大な「火薬の歴史物語」は、とても面白いです(●^□^●)

 

 

 

 

鑑真はメチャクチャ日本の仏教に影響を与えた?

 

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奈良時代、当時の仏教界では、勝手に僧になる者が多く、朝廷は手を焼いていました。

 

当時、律令制度の過酷な税負担に耐えられず、与えられた口分田から逃げ、勝手に僧(私度僧)になる農民が後を絶たなかったのです。僧になれば税の負担がなくなるからです。

 

そして行基が中心となり、私度僧が集って治水、架橋、貧民救済活動がおこなわました。

 

朝廷は、これでは税金が減ってしまって困ります。当然、私度僧に対する弾圧を行いました。

 

しかし、私度僧といっても僧であることには変わりありません。通常の罪人のように罰するわけにはいきません。

 

僧尼令違反を理由に中心者の行基を処分しましたが、大勢の私度僧を処分するには限界があります。

 

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そこで、唐から位の高い僧を招き、正式に僧になるための儀式である「受戒」を行おうとしたのです。正式な「受戒」を授けられない者は僧として認めないことにしました。

 

そのため、たいへんな費用とリスクの伴う唐からの「受戒師」の招聘に力を入れたのです。

 

 

何度も失敗して6度目の渡航で成功

 

鑑真は、唐へ渡った日本人の僧から、日本へ戒律を伝えるよう懇請されました。

 

しかし、弟子の中から誰一人として希望する者がおりません。しかたなく鑑真が自ずから日本へ行くことを決めたのです。

 

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鑑真の日本への渡航は、想像もできない困難に満ちていました。当時の唐では、国外に渡ることは禁止されていました。また、唐から日本への航路は、外洋のため海が荒れ、たいへん危険です。

 

結局、5回失敗して、6回目に日本への渡航に成功したのです。54歳のときに第一回目の渡航に失敗して、日本への渡航が成功したときは66歳になっていました。過酷な渡航が災いして盲目となっていました。

 

日本へ渡航した本当の理由な何か?

 

しかし、なぜ鑑真は、そこまでして日本に「戒律」を伝えようとしたのでしょうか。これは明確な理由は不明のようです。

 

普通ならば1~2回も渡航に失敗すれば、

「やはり、無理だ!」

と言って、あきらめるとことです。

 

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異国における仏教界の規律の乱れなど、鑑真にとって、命を懸けてまで正す必要があるのでしょうか?

 

これはよほど強い別の動機が存在していたようです。

 

 

鑑真は天台宗を伝えた

 

ただ唯一、ヒントになるものがあります。それは鑑真が唐から持ってきた「天台三大部」という天台大師の論書です。

 

後に最澄がこの「天台三大部」を読み感激して、比叡山延暦寺を創建する遠因となる論書です。

 

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延暦寺が存在しなければ、後の鎌倉仏教の発展もありません。日本の天台宗から派生した浄土宗や浄土真宗、日蓮宗なども存在しなかったわけです。

 

当然、戦国時代、織田信長の本願寺との対立や、比叡山延暦寺き討ちもありません。

 

鑑真は、天台宗を伝えるために日本に渡ってきたのか、と想像してしまいます。

 

 

ひとこと

 

鑑真は、唐で律宗と天台宗を修行しました。

 

天台宗を日本に伝えたことは、あまり知られてはいませんが、ことらのほうが後の世に与えた影響は大きいみたいです。

 

鑑真は「戒律」を日本に伝えたことが知られていますが、天台宗も伝えたことにより、メチャクチャ日本の仏教に影響を与えたようです(●^U^●)

 

光秀と信長は、焦りと油断で失敗したみたいだ?

 

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明智光秀の謀反により、信長は本能寺で横死しました。あと一歩で天下統一のところまできていたのに残念です。

 

逆に信長の敵対勢力にとっては、たいへんな朗報であり、京の朝廷も安堵したことでしょう。

 

では、なぜ明智光秀は謀反を起こしたのでしょうか。冷静に物事を判断する光秀らしくない、衝動的な行為でした。

 

その証拠に本能寺の変の後、11日間ほどで光秀は討ち死にします。羽柴秀吉が予想をはるかに上回る早さで引き返してきたからです。

 

光秀は、細川藤孝や筒井順慶を見方に引き入れることに失敗しました。また、準備が整わないうちに秀吉軍と戦うことになり、光秀の軍は惨敗しました。

 

光秀は落ち武者狩りで農民に討ち取られてしまいます。

 

しかし、秀吉が光秀を討たなくても、遅かれ早かれ光秀は誰かに討たれたことは間違いありません。

 

逆に光秀が信長を討たなくても、信長は誰かに討たれていたか、織田家は信長一代限りで終わっていたかもしれません。

 

 

島国の日本では王朝交代が起こりにくい

 

世界の歴史は王朝交代の歴史であり、国家は数十年か数百年で興亡を繰り返してきました。

 

日本は、同じ王朝が古代から続いた世界で唯一の国です。

 

中国大陸でも異民族によって王朝が滅ぼされたり、逆に異民族を追い出すことによって新たな王朝が興ることが多いです。

 

朝鮮半島は、中国王朝の影響を受け、王朝が入れ替わったりしています。

 

日本は島国のため、大陸や半島のように異民族の影響を受けません。そのおかげで古代から王朝を連綿と存続させることができたのです。

 

鎌倉幕府や足利幕府、後の豊臣政権や徳川幕府は、国家の実権を握りましたが、あくまで「天皇の臣下」という立場は守りました。

 

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しかし、信長はその「天皇の臣下」であることを、無視するような態度をとり始めたのです。

 

これには朝廷ばかりでなく、世間も騒然としました。

「信長が天下をとったら、とんでもないことになる!」

という不安がひろがりました。

 

信長は、日本の大部分を制覇したため、驕りがでたと言わざるを得ません。

 

 

油断と焦りが命を縮めたのか?

 

朝廷に対する高圧的な態度を、あと数年、控えていれば、信長は天下をとっていた可能性が極めて高いです。

 

信長を殺害した後の状況を正確に想像できなかった光秀は、やはり焦りすぎたのでしょうか。朝廷を助けることにはなりましたが、「主殺し」という汚名を負い滅ぼされました。

 

光秀も信長も、それまでの英邁さがウソのように消え、自ずから命を縮めたといえます。

 

 

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ひとこと

 

毎日のニュースで、

「あの人が、あんな事するなんて!」

と思うこがよくあります。

 

また、自分でも何でこんなことしたんだろう、と思うこともよくあります。

 

人間は、みな似たようなもんですね。焦りと油断は禁物です(●^□^●)

 

戦で負けた徳川家康は、逃げながら脱糞した!?

 

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戦国武将のなかでも、逃げながらウンコをもらしたのは徳川家康ぐらいなものでしょう。

 

「三方ヶ原の戦い」で武田信玄の軍に大敗して、逃走中に馬に乗りながら脱糞してしまったのです。それほどの恐怖だったのです。

 

家来に指摘された家康は、

「これは腰につけてた焼き味噌じゃ!」

と言い訳しましたが、においでバレました。

 

ずいぶん不名誉なエピソードをもつ家康ですが、それでも後に天下をとり、江戸時代265年間の礎を築いた英傑です。このときの経験が家康を大きく成長させました。

 

 

どうしてバレたのか?

 

でも、どうして、もらしたことがバレたのか不思議です。馬の鞍にウンコがあったのですが、袴(はかま)をはいているのに、どうしてそうなったのか疑問が残ります。

 

そのため、このエピソードはウソだと思っていました。武田軍に負けた家康の怯えた状況を、面白おかしくするためにできた、作り話のような気がしていました。

 

しかし、ネットを何気なく見ていたら、その疑問は氷解しました。袴(はかま)に原因があったのです。

 

戦のときにはく袴は特殊なつくりだったのです。戦場で簡単に大小ができるように特別に工夫されていました。

 

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その袴でしゃがむと股間の部分が左右に開くデザインになっていたのです。重い甲冑(かっちゅう)を着用したままでも大小ができます。

 

この袴なら、家康が馬の鞍の上にウンコを置き去りにできたことが、納得できます。

 

 

「空城の計」で武田軍を撃退

 

もらしたことがバレた後、冷静さを取り戻した家康は、家来にテキパキと指示します。このとき有名な「空城の計」で、武田軍を撃退しました。

 

城の門を開けっ放して、昼間のようにタイマツを燃やします。太鼓をドンドン叩いて、武田軍を威嚇するとともに徳川方の兵士を鼓舞させました。

 

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この計が見事に成功して、武田軍は浜松城を攻めることなく引き上げていきました。逃げてきた家来も城内に収容することができました。

 

その後、家康は、武田軍に大敗北を喫したことを反省するために、憔悴した自分の肖像画を絵師に描かせました。

 

失敗を真摯に反省する姿勢が後に天下をとらせたと共感を呼び、多くの歴史書や経済誌などでも、「三方ヶ原の戦い」のエピソードを取り上げています。

 

 

ひとこと

 

戦国の戦でのトイレについては分かりましたが、寝泊りはどうしていたのか疑問が残ります。ドラマや漫画では、そこのところが詳しく描かれたものを見たことがありません。

 

ネットで調べたら、ほとんど野宿してたとあります。雨や雪の場合はどうしていたのでしょうか。寺や神社、村の家に泊まることもあったでしょうが、何万もの兵士の場合、とても足らないでしょう。

 

現在のようなテントもないでしょう。暇なときに調べてみます。

 

(●^U^●)

  

古墳時代についての歴史は、大部分が消失されたのか?

 

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古墳時代は、どんな時代だったのでしょうか。前方後円墳や埴輪がたくさん作られ、のんびりしたイメージがあります。

 

しかし、古墳時代は戦乱が非常に多かったと、あるテレビ番組で解説していました。激しい戦乱のため、当時の書物の多くが焼かれ、歴史資料がほとんど残っていないとのこと。

 

なので古墳時代の歴史は謎が多いそうです。

 

番組名は忘れましたが、このテレビ番組の説明はウソくさいです。戦国時代もメチャクチャ戦が多かったのに、かなり歴史資料が残っているではないですか!

 

「おんな城主 直虎」のような小さな豪族でも、NHK大河ドラマで放映されるほど歴史資料が残っているのです。

 

やはりウソくさい!

 

 

歴史とは、ほとんど勝者が記録した歴史である

 

古代の歴史記録も、勝者によって都合よく改ざんされた可能性があります。都合の悪いことが書かれた書物は、焼かれたりしていたかもしれません。

 

では、そんな自分勝手なことをした「勝者」とは誰でしょうか。

この本に書かれていました・・・・

 

 

 

藤原氏です。藤原氏が古代の歴史を改ざんして、自分たちが権力を握り栄華を極めようとした、とあります。

 

藤原氏の祖である中臣鎌足(藤原鎌足)は、謎だらけの人物です。

 

この本の中では、中臣鎌足は古代朝鮮半島・百済の王子、扶余豊璋ではないか、と推測されています。扶余豊璋は、日本に子供のころから人質として住んでいたので、日本語はペラペラです。

 

白村江の戦いの後、日本にもどり中臣鎌足と名を変え、天智天皇の側近として活躍したとのこと。

 

後に中臣鎌足は、藤原氏の姓を天智天皇から授けられます。鎌足の息子である藤原不比等は、天皇の外戚になろうと暗躍します。

 

 

権力を握るため歴史を改ざんしたのか?

 

藤原不比等は、娘の宮子を文武天皇の妃として嫁がせました。宮子の生んだ男の子が、後の聖武天皇である首(おびと)皇子です。

 

不比等は、これで天皇の祖父なれると、大喜びしました。実際にそうなりました。

 

しかし、宮子の子を天皇にするためには、藤原氏の祖先が百済の王族ということを隠しておかねばなりません。

 

そうでなければ、百済王族の子孫を理由に、敵対勢力から激しい攻撃を受けます。首皇子を天皇にすることが難しくなります。

 

そこで、藤原氏が百済の王族の末裔であることを隠すため、当時の本当の歴史資料を燃やしたり、改ざんした、とも言われているのです。

 

これが古墳時代の歴史資料が少ない理由のひとつなのかも・・・・?

 

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平安時代初期には、ほとんどのそれら歴史資料が焼き払われたそうです。

 

また、敵対する新羅に対しても、朝鮮半島で敗北した百済王族の末裔であることを隠したかったのかもしれません。

 

中臣鎌足が本当に百済王族の末裔なのかどうか、明確な証拠はありませんが、そのように考えるとすごく面白いです\(^○^)/

 

 

ひとこと

 

歴史の改ざんが事実だとしたら、褒められたことではありませんが、それによって国の体制を固めることができ、新しい日本が生まれたのかもしれませんね。

(○●^▽^●○)

 

剣豪・千葉周作の道場は江戸で一番人気だった!?

 

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幕末の剣豪である千葉周作は、北辰一刀流を創始して江戸で一番の門弟を誇る道場・玄武舘を開きました。

 

玄武館は、神田お玉ヶ池にありました。現在の東京都千代田区岩本町2丁目あたりで、JR秋葉原駅にも近いです。門弟の数3,600余人ともいわれています。

 

なぜ、玄武館が江戸で一番の道場になれたのでしょうか。それは、教え方がわかりやすく、早く上達できる道場との定評があったからです。

 

他の流派では3年かかる修行が1年で取得できると言われました。修行期間も短いため、道場に支払う費用も安く押さえられます。

 

大道場主の千葉周作が自ずから、直接、手取り足取り指導することも人気のひとつでした。

 

 

実践では役に立たない剣術を教える道場もあった?

 

江戸時代、江戸には200以上の道場があったといわれています。

 

江戸時代は平和な時代が続いたため、武術が一時期、衰退します。しかし、江戸後期、異国からの干渉や尊王攘夷の気運が高まり、武術の必要性が求められるようになりました。

 

剣術も、武士に不可欠なものとして、ふたたび注目されます。全国諸藩の武士が集まる江戸では、剣術道場が増えました。

 

しかし、金儲け主義のあやしい道場もありました。門弟に必要以上の形稽古をさせたり、竹刀でポンポンと適当に打ち合いをさせる道場もありました。

 

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竹刀は、刀より長くて軽いものが多いので、実践では調子が狂うことが多かったのです。刀で相手を切ったと思ったら、はるか手前で地面を切りつけたりします。

 

相手の股の間に足を踏み入れるぐらいに近づかなければ、刀が届かないことが多いのです。実践では、道場で習った細かい技は役に立たない場合も多く、初心者はメチャクチャ打ちになるそうです。

 

井伊直弼が暗殺された桜田門の変では、実践をほとんど経験していない者同士の切り合いのせいか、単純な左右の袈裟切りが多かったと言われています。

 

 

効率的な剣術稽古を考案した千葉周作

 

千葉周作は、江戸の一刀流中西道場の高弟である浅利又七郎義信の婿養子でした。

 

浅利は、小浜藩酒井家の剣術師範で道場も持っていました。婿養子の周作が継ぎました。そのまま道場を経営していれば、裕福で何不自由のない暮らしが続いたことでしょう。

 

しかし、周作は、門弟への指導方法で、養父の浅利と対立します。

 

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当時の剣術は、形稽古が約八段階ありましたが、周作は、これを簡素化して三段階にしようとしたり、いろいろ改良を試みたのです。これに養父の浅利は、断固として反対します。

 

結局、周作は浅利と縁を切り、独立して北辰一刀流を創始します。さまざまな苦難の末、北辰一刀流を創始して、後に江戸で一番の門弟数を誇る玄武舘を開いたのでした。

 

 

ひとこと

 

効率的で丁寧な指導をする剣術道場の経営で、千葉周作は利益を得たとも考えられます。しかし、養父の浅利又七郎との対立をみると、儲け主義ではなかったようです。

 

周作は、早く修得できる実践的な稽古によって、多くの優れた剣術家を育てたいと考えていたのでしょう。

 

その証拠に玄武舘は、門弟数が江戸で一番になっただけでなく、幕末に活躍した剣豪や志士も多く輩出しました。

(●^□^●)

 

参考:ウィキペディア「千葉周作」

 

 

 

信玄は孫子が好きだった?

 

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武田信玄は、戦国武将ランキング第5位ではありますが、昔から小説やドラマで人気がありました。

 

「また武田信玄か・・・」

と思うぐらいマンガや雑誌などで読んだ記憶があります。

 

参考:NAVERまとめ「男の血が騒ぐ」戦国武将ランキング

 

 

武田信玄は、物語化しやすい人物だった?

 

現在では織田信長の小説やドラマは多いですが、以前は武田信玄のほうが人気があったようです。

 

しかし、上杉謙信を主人公にした小説やドラマは、昔も今も少ないです。理由は、上杉謙信という人物が真面目すぎて物語にしにくいからだそうです。

 

武将としては人気はありますが、物語を制作する側からは人気がないようです。

 

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逆に武田信玄は、物語を制作する側の人から人気があるようです。人をだましたり裏切ったりする起伏に富んだ生き方が、物語として作りやすいそうです。

 

上杉謙信と比べると武田信玄は、かなり複雑な人生を送った感じがします。

 

自分の親を追放したり、長男の命を奪ったりしました。妹婿の諏訪頼重を謀略で殺害し、領土を奪ったりしました。

 

 

孫子の兵法に忠実だった武田信玄

 

風林火山の旗は、武田軍のシンボルとして有名です。古代中国・呉の兵法家が記した兵法書「孫子」の一説です。

 

孫子の一説を旗印にするぐらいですから、武田信玄は孫子兵法に傾倒していたことがわかります。

 

孫子の兵法では、戦に勝つための方法が記されています。ほとんどが原則論で方法論はわずかです。原則論が主なため、現在でも戦争やビジネスで通用する書として、世界中の著名人からも今でも愛読されています。

 

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戦いのための書物ではありますが、戦とは所詮、国家運営の一部であり、できるだけ戦は避けるべきだと説かれています。

 

戦を行えば、膨大な費用と人命が損なわれます。可能な限り戦を避けるか、戦による損失を最小限に抑えることが大事なわけです。

 

そう考えると、一見、卑怯にみえる戦い方や上杉謙信に対する逃げ腰の姿勢も、孫子の兵法の教えに従った方法なのかもしれません・・・・?

 

孫子の兵法のなかに、「戦とは騙し合いである」とか「強い敵とは戦わない」など説かれた一説もあります。とにかく無理をしないで柔軟に戦うことの大切さが強調されています。

 

上杉謙信には押され気味の武田信玄ではありましたが、孫子の兵法を元にした戦略で、決定的な敗北は受けませんでした。上杉謙信が雪で動けない時期に領土を取り返したり、北条、今川、織田、本願寺と同盟を結び、対抗しました。

 

そのおかげで、上杉謙信から領土を侵略されることもなく、武田家の領地を守ることができたのです\(^○^)/

 

 

ひとこと

 

信玄が亡くなった後、跡を継いだ武田勝頼は、信玄とは逆に無理な戦ばかりしていました。孫子の兵法にも逆らうような戦い方です。

 

信玄と勝頼の領国経営のやり方を比較すると、いかに孫子の兵法の教えを守ることの大切さがわかります(●^□^●)

 

戦国武将ランキング第3位の上杉謙信は、なぜ強かったのか?

 

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戦国時代、平地での戦なら上杉謙信が最強といってもいいでしょう。武田や北条、織田の軍も上杉謙信には適いませんでした。

 

謙信の勝率は約6割程度で、約4割が引き分けといわれております。4割が引き分けといっても、相手がビビッて城や陣地にこもったためなのです。

 

ですから、引き分けでも判定勝ちのようなものです。平地での戦なら、圧倒的な強さをみせます。

 

「8千の兵がいれば、天下の兵を相手にできる・・・」
というようなことを、謙信は豪語してます。
8千人の兵がいれば、敵がどんなに大軍でも勝てる、と言っていたわけです。たいへんな自信です。

 

後に、謙信が8千の兵を率いてやってくると、毘沙門天の旗を見ただけで、敵は逃げ去るようになりました。どんなに兵数で上回っていても、白兵戦では勝ち目がないため、城か陣にとじこもってしまうのです。あるいは謙信の軍門に下ります。

 

では、なぜ上杉謙信は平地での戦に強かったのでしょうか・・・?

 

参考:NAVERまとめ「男の血が騒ぐ」戦国武将ランキング

 

 

謙信は、少年のころから戦の経験が豊富だった?

 

謙信は1530年2月18日、越後(新潟)で誕生しました。幼名を長尾虎千代、元服名は長尾喜平次景虎です。謙信が13才のとき、父の長尾為景が亡くりました。その後、謙信は、家督を継いだ兄・晴影と敵対するようになりました。

 

謙信(景虎)は、10代前半の少年にもかかわらず、戦で何度も手柄をたて家臣から信望を集めます。その弟に嫉妬した兄・晴影は、謙信を倒そうとします。しかし、謙信は兄・晴影に勝ち、長尾家の当主になります。

 

つまり、謙信は10代の初めごろから、戦を豊富に経験していたのです。父親の下で守られながら戦を経験したのとは訳が違います。いつ命が消えてもおかしくない地獄のような修羅場を何度も経験していたのです。

 

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自分より何倍も年上の家来を率いて戦にのぞみました。家来を信服させ戦に勝つには、自分が常に先頭に立つ必要があったことでしょう。

 

その少年のころから鍛えられた戦の経験が、謙信を強くさせたのだと考えられます。

 

 

謙信は、乱戦が得意だった?

 

通常、戦では謙信のような大将は、後方の本陣で指揮をとるのが普通でした。ところが、謙信は常に敵の本陣に迫る勢いで前方にいたのです。

 

少人数の軍なら大将が真っ先に突撃して、士気を高めるということはありますが、数千から万を超す軍で大将がそれを行う例はほとんどありません。上杉謙信ぐらいなものです。

 

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武田信玄や北条氏康などの戦名人も、これには面食らいました。戦が始まると、本陣めがけて突進してくる上杉軍に恐怖を感じました。

 

敵の右側面や本陣をいきなり攻める戦法は、効果的ですがリスクも高いです。だから、通常、この方法を用いる武将はほとんどいません。

 

逆に上杉謙信は、この乱戦に持ち込む戦法を何度も経験しているので、有利です。ノウハウも蓄積されています。他の武将と圧倒的な差が生まれるのです。

 

 

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ひとこと

 

戦国時代は、軍の右側面攻撃を受けると、とても不利でした。槍や刀を右方面の敵に突いたり切るつけるのが不便なためです。

 

上杉謙信は、敵の正面を迂回して、右側面に向かって突撃するので、車輪がまわっているように見えます。そこから謙信の戦法が「車懸かりの陣」とよばれました。

 

実際は、謙信の強さや車懸かりの陣について、いろいろな説があります。どれが本当かわかりません。

 

私が思ったことを、部分的に簡単にまとめてみました(●^□^●)