江戸時代、江戸幕府は、オランダを除いて西洋の国々と鎖国をしました。長崎に出島を設置して、そこでオランダだけと貿易を行ったのです。
東アジアでは、琉球(沖縄)と対馬藩をとおして、明(中国)、李氏朝鮮(朝鮮半島)と貿易を続けていました。
でも、戦国時代には、スペインやポルトガルとも、盛んに交流があったのです。
なぜ、西洋は、スペインやポルトガルを排除して、オランダ一国だけの鎖国体制になったのでしょうか?
鎖国など行わないで、西洋と積極的に貿易を続けていれば、日本でも優れた産業が発展したはずですが・・・・?
豊臣秀吉がバテレン追放例を出した
織田信長は、ポルトガルのバテレン(神父)と良好な関係にありました。豊臣秀吉も信長の政策を継承して、キリスト教の布教を容認していました。
しかし、天正15年(天正15年)に、豊臣秀吉はバテレン追放令を発します。
秀吉が九州を平定した後、長崎がイエスズ会の領地になっていることを知ったのです。
また、ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として、ポルトガルに連れて帰っていた事実も知りました。
その他、様々な理由で、バテレン追放令が出されたのです。
1.キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
2.キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため。
3.ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。
4.秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。
参照元:バテレン追放令-ウィキペディア
また、秀吉は、ポルトガルやスペインが東アジアの国々を植民地化するために、キリスト教の布教を足掛かりにしていたことを知ります。
キリスト教の布教を容認していれば、やがて本願寺一向一揆のような巨大な武力集団ができることを、恐れました。
江戸時代になっても「島原の乱」など、キリスト教徒による大規模な反乱が起きます。反乱後、江戸幕府では、キリスト教の禁止令を強化しました。
そして、キリスト教の布教に力を入れるスペインやポルトガルの来航を禁じます。キリスト教圏である西洋の国々の中で、貿易に力を入れるオランダのみ来航を許可したのでした。
もちろん、キリスト教の布教禁止を条件に、オランダと貿易を行いました。
織田信長なら鎖国したか?
戦国時代、織田信長は西洋の学問や技術に、たいへん興味をもっていました。キリスト教を保護して、教会もつくらせました。信長の領内で、布教も許可しています。
宣教師が献上した地球儀や時計、世界地図、黒人などに、信長は夢中になります。
信長は「西洋かぶれ」になった、といっていいかもしれません。南蛮の帽子やマントを好んで着用します。
常に新しいものを求めてやまない信長は、日本国内平定後、西洋と積極的に貿易を行う考えを持っていた、という見方がされています。
それは、豊臣秀吉と徳川家康の支配体制と比較すると、推測ができます。
信長は、天下の大半を支配したころから、敵対勢力に対する方針を変えたのです。以前は、戦で負けた敵を、信長の傘下に入れることがありましたが、それをやめて、取り潰すようになりました。
敵から奪った領土は、家来に支配させ、直轄地を増やそうとしたのです。
これは、各地域にいる権力者が支配する封建制度とは違う、中央集権制を目指していたため、ともいわれています。
中央の政権が日本全国を治められる、強固な国家体制を目指していたものと考えられます。
たとえキリスト教を足掛かりに西洋が、日本を植民地にしようとしても、つけ入る隙を与えない体制です。
豊臣秀吉と徳川家康の天下では、各大名や各藩が半独立国として存在していました。
これでは、西洋がその半独立国を足掛かりにして、豊臣政権や江戸幕府を切り崩する恐れがあります。
江戸幕府は、やもえず鎖国した、といえましょう(・∀・。)
ひとこと
鎖国のおかげで、日本人は江戸文化を開花させた、といわれています。
日本独自に、算術や工芸技術、文化が発達しました。
幕末の開国後、これが西洋文明を吸収するための下地になった、と考えられています。
(●´▽`●)