「かかあ天下」の家庭は円満といわれますが、皇帝や王の妻の場合は、かなり危険です。国が傾く恐れがあります。
皇帝や王、権力者の妻の親族(外戚)が実権を握ることによって、政治が腐敗し、権力闘争になることが多いからです。
古代中国では、漢帝国を建国した劉邦の妃・呂 雉、唐の則天武后や楊貴妃で、李氏朝鮮では安東金氏や閔妃などがいます。皇帝や王の在位中、あるいは死後に権力を振るいました。
古代中国の場合、外戚(妃の親族)が権力を握る期間は、比較的に短いです。長くても一代限りの場合が多いです。
李氏朝鮮では、妃の外戚である安東金氏が60年ちかく権力を保持しました。閔妃の実権があった期間は短いです。
ところが日本の場合、外戚が権力をつかむと、中国や朝鮮と違い、数百年以上の長きにわたって権力を離しません。
藤原氏の血統を天皇家に送り込んだ不比等
奈良時代、藤原不比等は、娘である藤原宮子を文武天皇に嫁がせました。そして、後に聖武天皇として即位する首皇子(おびとのみこ)を生みます。
首皇子が誕生したとき、
「これで藤原氏が外戚として、朝廷での権力が握れる」
と藤原不比等やその親族の藤原氏は、大喜びしました。
そして、朝廷で実権を握るための策を企てます。
藤原不比等の思惑どおり、その後、藤原氏は300年以上にわたり、摂関家として朝廷を牛耳り、栄華を極めました。
民衆のために貢献しようという気は薄く、日本全国の荘園から、多くの年貢が藤原氏に集まる仕組みをつくりました。
農民は飢え死にしたり、食うや食わずの生活です。
ところが、藤原氏などの貴族は、夏は日本酒のオンザロックを飲み、牛乳やチーズなどのご馳走を、たらふく食べていたのです。当時の氷や乳製品は超高級品でした。
平安時代末期から武士が政権を担うようになりましたが、明治から昭和にかけて、藤原氏の子孫から何人かの総理大臣が出ました。
途中、凹んだ時期もありましたが、藤原氏はまさに千年以上もの間、権力に深く関わっていたことになります。
わが子を殺害してまで幕府の実権を奪った北条政子
鎌倉時代の初頭、またまた外戚が権力を握ります。その中心人物は、尼将軍と呼ばれた北条政子です。
源頼朝が亡くなった後、政子は頼朝との間で生まれた実子を殺害して、源氏の嫡流を滅ぼします。
その後、政子の親族である北条氏が執権となり、鎌倉幕府の実権を握りました。源氏に代わり、京の公卿を将軍として迎え入れました。実権のない公卿将軍です。
150年間ほど続いた鎌倉幕府も、ほとんどの間、外戚に乗っ取られていたわけです。
朝廷は鎌倉幕府を倒そうと軍を送りますが、政子の演説ひとつで鎌倉武士の結束は固まり、逆に朝廷側の軍を撃退して、首謀者の後鳥羽上皇を流罪にしました。
政子の弟である北条義時が幕府軍を率いたのですが、以後、朝廷の軍を倒した唯一の武将として知られるようになりました。
「雌鳥が鳴くと家が滅びる」と言われたりしますが、北条政子の場合はそれが当てはまらなかったようです。
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ひとこと
外戚が長期にわたって権力握るのは、島国である日本特有の現象がもしれませんね。
(●^皿^●)