みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

パソコンの故障の予防対策して少し安心した?

 

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ブログの記事を書いているときに、突然、パソコンが故障すると嫌ですね。ほとんど完成していた記事が消えてしますこともあります。

 

パソコンの故障で何度も痛い目に合っている私は、できる範囲で予防を心がけています。

 

 LANケーブルで接続したハードディスクにデーターを保存

 

パソコンが故障して困るのは、データーが消えてしまうことです。パソコン一台だけに大切な情報を保存していると、一発ですべてが消滅します。

 

だから、現在はネットワークHDD(NAS)を2台、使っています。LANケーブルでパソコンと接続する自宅内ネットワーク上のハードディスクです。

 

このネットワークHDD1台には2個のハードディスク(HD)が内臓されています。

 

一つのデーターを2個の内臓されたHDに、同時に保存(ミラーリング)します。片方のHDが故障しても安心です。

 

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そのネットワークHDDが2台もあるのですから、やり過ぎかな、と自分でも思ったりします。

 

しかし、昨年の秋、パソコンを初期化してデーターをすべて消しましたが、2台のネットワークHDDにデーターが保存できたので、安心して行えました。

 

問題は、ネットワークHDD内臓用のHD1個の価格が高いことです。一年前ぐらいに故障したとき、そのHD1個を購入して交換しました。純製品で価格が1万円ぐらいしました。

 

正直、高いと思いました。中古の外付けHDが1個、買えるぐらいの値段です。といって中古や非純製品は、リスクがあるので購入したくはありません。

 

ネットワークHDD本体の寿命が尽きたなら、別の安い同HDDにするかクラウドに保存することを考えています。

 

IT関連機器は日進月歩で進歩していますから、より低下で効果的な機器を探します。

 

 

熱、湿気、ゴミ、雷への対策をしています

 

パソコンや周辺機器の敵は、熱や湿気、ゴミ、雷などです。とくに熱は大敵です。

 

以前、職場でハブやルーターを「おせんべい」の空き箱に入れていましたが、しばらくして壊れました。空き箱の中で熱が高くなったのが原因のようです。

 

修理にきた技術員の方から、電子機器は熱に弱いので、涼しい場所に設置するようアドバイスを受けました。

 

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なので、自宅のパソコン関連の電子機器は、熱がこもらない場所に置いています。ハブやルーターの上側も、左右の横側も空間だらけです。

 

次に湿気にも注意が必要です。冬、加湿機を使いますが、電子機器に近づけないようにしています。とくに超音波式の加湿機を近づけると、湿気による悪影響が大きいそうです。

 

湿度計で部屋の湿度をチェックして、パソコンや周辺機器の健康も管理しています。

 

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また、可能な範囲でパソコンのゴミを掃除しています。掃除で故障する場合もあるので、マニュアルを読んでから行ったほうがいいですね。

 

パソコンや周辺機器の電源タップは、雷ガード機能付きを使用しています。

 

直接、雷が落ちなくても、近所に落ちただけで電子機器が故障する場合があります。雷ガード機能は必須だと思っています。

 

在宅中に雷のゴロゴロを聞いたときは、念のためパソコンや周辺機器の電源を切っています。ちょっと面倒くさいですが。

 

 

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ひとこと

 

現在、時間と費用の効率を考え、予備パソコンをスタンバイさせています。普段、使用しているパソコンと同メーカーの同型番です。どちらも中古品のディスクトップなので価格が安いです。

 

予備パソコンは食卓テーブルの前に置いて、ごはんを食べながら動画をよく見ています。

 

ディスクトップなので、ある程度は自分で交換や修理ができます。壊れたパソコンでも部分的に使える場合があります。

 

ノートパソコンと比べて場所をとりますが、自宅ではディスクトップが安くて便利ですね。

 

(★ ̄∀ ̄★)

安土桃山城は、日本初の博物館で信長のご神体があった!?

 

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中国の女性皇帝・則天武后(そくてんぶこう)は、唐王朝から政権を簒奪して周王朝を建国しました。

 

そして、則天武后が弥勒菩薩の生まれ変わりである、という教えを国中に広めます。ずいぶんメチャクチャで支離滅裂なことをするな、と思わざるを得ません。

 

しかし、権力者が自らを神格化することは、珍しいことではありません。あるいは高貴な人物の子孫であることを強調したりします。

 

権力者が味方を増やし、勢力拡大するための不可欠な行為です。

 

 

戦には大儀名分が必要だった

 

争は利害がら生じますが、争いの規模が大きくなると大儀名分が必要になります。大儀名分に勝る勢力のほうが味方をより多く集め、有利になるのです

 

日本の戦国時代、仏教十八宗派の一つ浄土真宗の教えを大儀名分にした一向一揆が、大勢力となりました。

 

数十万以上(数百万の説もあり)の民衆が浄土真宗・石山本願寺の門徒になり、一部が武装して一向一揆になりました。門徒の多くが農民です。武装した門徒は、ときに数万から数十万になります。

 

石山本願寺は、現在の大阪(石山)の石山本願寺を中心に、全国に拠点が広げました。

 

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当時の戦国大名は、この石山本願寺の一向一揆をたいへん恐れました。石山本願寺と対立しないように和睦した戦国大名もいます。

 

ところが、この石山本願寺と真っ向から戦い、叩き潰した戦国大名がいます。織田信長です。

 

信長にとっても石山本願寺は最大の敵でした。宗教を中心にして結束する民衆の恐ろしさを、骨身に染みて感じました。また、民衆の支持を集めることの重要さを、より強く感じました。

 

琵琶湖東岸の安土山に築かれた安土桃山城は、民衆の支持を得ようとする信長の苦心の跡がうかがえます。

 

 

安土桃山城を民衆に有料で見学させた?

 

安土桃山城が完成したとき、信長は、入場料をとって城内を民衆に見学させました。信長が受付で入場料を受け取っていたそうです。

 

料金をもらって建物内を見学させるイベントは、このとき日本で初めて開かれたとのこと。このため安土桃山城は、日本初の博物館ともいわれております。

 

それにしても信長が受付係りをやるなんて、面白いですね。

 

天主の内部には絢爛豪華で、それまでの日本の城には存在しないインテリアが施されていました。天主からの眺望も素晴らしかったことでしょう。

 

釈迦孔子など聖人が壁に描かれた部屋があり、その中心に信長の席が置かれていました。まるでそれらの聖人より信長のほうが偉いんだ、と表現しているみたいです。

 

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安土桃山城の敷地には、信長自身をご神体(本尊)として祭る総見寺があります。信長も他の権力者と同じように、自分を神格化してしまったのか、と思ってしまいます。

 

自分をご神体(本尊)を祭った理由について、信長は何も書き残していないので、その真意はわかりません。

 

しかし、「俺は神だ!」と言って喜ぶほど信長は、単純な人間とは思えません。

 

石山本願寺の門徒の例からみても、民衆には何らかの神や仏のような存在が必要だと考えて、とりあえず自分が神(?)になったのかもしれませんね。

 

 

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ひとこと

 

信長は、石山本願寺だけでなく、比叡山延暦寺、日蓮宗とも対立しました。

 

しかし、権力に干渉さえしなければ、信教の自由を認めていました。石山本願寺との戦が終焉した後、信長は石山本願寺の存在を許しています。

 

政教分離と信教の自由を、この時代、すでに信長は実行していたのかもしれませんね。

(●^U^●)

 

北条政子や藤原不比等など外戚が、幕府・朝廷の実権を握った!?

 

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「かかあ天下」の家庭は円満といわれますが、皇帝や王の妻の場合は、かなり危険です。国が傾く恐れがあります。

 

皇帝や王、権力者の妻の親族(外戚)が実権を握ることによって、政治が腐敗し、権力闘争になることが多いからです。

 

古代中国では、漢帝国を建国した劉邦の妃・呂 雉、唐の則天武后や楊貴妃で、李氏朝鮮では安東金氏や閔妃などがいます。皇帝や王の在位中、あるいは死後に権力を振るいました。

 

古代中国の場合、外戚(妃の親族)が権力を握る期間は、比較的に短いです。長くても一代限りの場合が多いです。

 

李氏朝鮮では、妃の外戚である安東金氏が60年ちかく権力を保持しました。閔妃の実権があった期間は短いです。

 

ところが日本の場合、外戚が権力をつかむと、中国や朝鮮と違い、数百年以上の長きにわたって権力を離しません。

 

 

藤原氏の血統を天皇家に送り込んだ不比等

 

奈良時代、藤原不比等は、娘である藤原宮子を文武天皇に嫁がせました。そして、後に聖武天皇として即位する首皇子(おびとのみこ)を生みます。

 

首皇子が誕生したとき、

「これで藤原氏が外戚として、朝廷での権力が握れる」

と藤原不比等やその親族の藤原氏は、大喜びしました。  

 

そして、朝廷で実権を握るための策を企てます。

 

藤原不比等の思惑どおり、その後、藤原氏は300年以上にわたり、摂関家として朝廷を牛耳り、栄華を極めました。

 

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民衆のために貢献しようという気は薄く、日本全国の荘園から、多くの年貢が藤原氏に集まる仕組みをつくりました。

 

農民は飢え死にしたり、食うや食わずの生活です。

 

ところが、藤原氏などの貴族は、夏は日本酒のオンザロックを飲み、牛乳やチーズなどのご馳走を、たらふく食べていたのです。当時の氷や乳製品は超高級品でした。

 

平安時代末期から武士が政権を担うようになりましたが、明治から昭和にかけて、藤原氏の子孫から何人かの総理大臣が出ました。

 

途中、凹んだ時期もありましたが、藤原氏はまさに千年以上もの間、権力に深く関わっていたことになります。

 

 

わが子を殺害してまで幕府の実権を奪った北条政子

 

鎌倉時代の初頭、またまた外戚が権力を握ります。その中心人物は、尼将軍と呼ばれた北条政子です。

 

源頼朝が亡くなった後、政子は頼朝との間で生まれた実子を殺害して、源氏の嫡流を滅ぼします。

 

その後、政子の親族である北条氏が執権となり、鎌倉幕府の実権を握りました。源氏に代わり、京の公卿を将軍として迎え入れました。実権のない公卿将軍です。

 

150年間ほど続いた鎌倉幕府も、ほとんどの間、外戚に乗っ取られていたわけです。

 

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朝廷は鎌倉幕府を倒そうと軍を送りますが、政子の演説ひとつで鎌倉武士の結束は固まり、逆に朝廷側の軍を撃退して、首謀者の後鳥羽上皇を流罪にしました。

 

政子の弟である北条義時が幕府軍を率いたのですが、以後、朝廷の軍を倒した唯一の武将として知られるようになりました。

 

「雌鳥が鳴くと家が滅びる」と言われたりしますが、北条政子の場合はそれが当てはまらなかったようです。

  

 

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ひとこと

 

 外戚が長期にわたって権力握るのは、島国である日本特有の現象がもしれませんね。

(●^皿^●)

 

金正男の事件と韓国歴史ドラマは、似ているような気がする(*´д`)??

  

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金正男(キムジョンナム)氏の殺害事件が、連日にわたって報道されています。なぜか「韓国歴史ドラマ」を彷彿(ほうふつ)させる事件です。

 

北朝鮮が関わった明確な証拠はないようですが、関与が疑われています。

 

政権を脅かしそうな兄弟を亡き者にする展開は、「韓国歴史ドラマ」ではやたらと登場するシーンです。金正男氏の事件も、まるでドラマか映画の世界みたいです。

 

もし、本当に北朝鮮が関与したのならば、国家の後進性を露呈するような事件ではないでしょうか。

 

北朝鮮の最高権力者・金正恩(キム・ジョンウン)の周囲への残酷な仕打ちをみると、高麗や李氏朝鮮の王朝が、北朝鮮で今でも続いているかのようです。

 

独裁者が邪魔者を排除して、政権の延命を図るが、やがてその独裁政権も倒されてしまう、といのが歴史のひとつのパターンです。

 

そう考えると金正男の弟の独裁者・金正恩は、いつまで政権を保ち続けられるのか実に危ゆい感じです。

 

 

元(中国)の人質が高麗(朝鮮)の王になったことがある

 

今回の事件で、とくに思い出すのが韓国歴史ドラマ「シンドン~高麗中興の功臣~」と「ホジュン~伝説の心医~」です。

 

「シンドン」では、元(中国)で人質だった王子・江陵大君が、元の後押しで高麗(朝鮮)の王になります。第31代の高麗王(在位:1351年 - 1374年)の恭愍王(きょうびんおう)です。

 

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もちろん、恭愍王の前王と一族などは、国内の親元勢力によって粛清(しゅくせい)されました。

 

元や親元勢力の力が強いため、恭愍王には強い権力がありません。

 

傀儡(かいらい)に近い恭愍王でしたが、奮戦して高麗を改革しました。しかし最後には、内官(宦官)によって殺害されます。

 

金正恩からみれば、兄の金正男は、江陵大君のように王位(権力)を脅かす存在だった、といえるかもしれません。

 

 

日本で生涯を終えた李氏朝鮮の王子

 

現在、無料のGYAOで韓国歴史ドラマ「ホジュン~伝説の心医~」を見ています。

 

時代は、豊臣秀吉の朝鮮討伐も含まれており、当時の王である宣祖や、王子の臨海君、光海君が登場します。

 

宣祖の長男・臨海君の王子が加藤清正に捕らえられ、日本に送られます。そして、千葉県鴨川市にある日蓮宗・誕生寺の僧侶となり、日延と名のります。

 

徳川家康が天下をとった後、日延は、朝鮮への帰国が許されますが、それを断わり日本に留まります。

 

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朝鮮では宣祖の次男・光海君が王になっていました。光海君は、日延の父・臨海君に敵対して王になったのです。

 

だから日延が朝鮮に戻れば、王位を狙う敵とみられ、命の保障がありません。日延は戻りたくても戻れなかったのです。

 

後に東京都港区白金台の日蓮宗・覚林寺に移り、日本という異国の地で生涯を終えます。

 

北朝鮮に戻れず、他国で生涯を終えた金正男に、少し似ていますね。

 

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私は、ドラマやドキュメントを、いつも楽しんでいます。

 

 

ひとこと

 

何度、見ても政争で親子兄弟が争う姿は、たいへん痛ましいものです。

 

本来、助け合うべき家族が敵同士になってしまうのですから、とても悲惨です。

 

権力とは、恐ろしいですね(●゚д゚●;)

 

神通力や霊力、超能力とは何だ?

 

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私は、幽霊やUFOを見たことはありませんが、二度ほど予知能力を自分に感じたことがあります。

 

自宅でゴロゴロしていたときに、突然「電話がかかってくる」と思った一秒後ぐらいに、本当に電話がかかってきたことが二回ありました。

 

中学生のころ、私は友人から「テレパシー能力があるのか?」と言われたことがあります。

 

友人が私に電話をすると、友人が話す前に、友人の言いたいことを、私の方からほとんど言ってしまうそうです。そう言われて自分でも驚きました。

 

しかし、私の知り合いの中には、幽霊や人魂、UFOを見たとかいう人がいます。証拠を見たわけではありませんが、実にそうゆう人が多いです。

 

テレビ番組でも時々、紹介されている神通力や霊力、超能力とは、本当にあるのでしょうか?

 

 

忍者は、不思議な力を訓練で後天的に得る?

 

霊力や超能力を生まれつき備えている人と、訓練で身につける人がいるみたいです。

 

忍者は主に訓練によって、その不思議な力を身につけるようです。

 

子供のころ忍者マンガで、忍者が姿を消して、敵の屋敷や城に忍び込むシーンにわくわくしました。大人になってからは、小説で忍者の修行や忍術を少し知りました。

 

忍者は修行中、魚や肉を避け穀物中心の食生活で、山中にこもります。普段の食生活では、熱したものは摂らないようにします。夜目が効くように動物の内臓を食べたりもします。

 

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小説では、忍者は本当に姿を消せるわけではありませんが、見張りや敵に催眠術をかけて自分の姿を消しているのです。

 

また、相手の心の中に入り込んで、幻覚を見せたり、自在に操ったりします。

 

一度、訪れたことのある場所なら、精神を集中すると、離れたところからその場所の情景を見れるとのこと。

 

忍者は訓練によって霊力や超能力を身につけるようですが、もちろん、どこまで本当かはわかりません。

 

 

動物にも不思議な能力がある?

 

動物にも不思議な能力があります。渡り鳥の長距離飛行や鳩の帰巣本能です。これらの鳥には方向を認知する器官が脳内にあるといわれています。

 

でも、方向の認知能力だけでは説明できない話を聞いたことがあります。自宅から1,000キロほど離れた病院の入院患者の部屋まで、自宅で飼っていたが飛んできた、というニュースが海外で話題になったことがあります。

 

静岡県に住んでいる私の親戚は、猫を飼っていました。ある日、何らかの理由でその猫を、自動車で20分かかる郊外へ捨てました。ところが2週間後に戻ってきたそうです。

 

猫は嗅覚が鋭いですが、自動車のタイヤの臭いを嗅ぎながら歩いたら、車に跳ねられます。嗅覚なのか方向認知能力なのかわかりませんが、不思議な話です。

 

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狼や犬はテレパシー能力があると、テレビで紹介されていました。狼はテレパシーで仲間とコミュニケーションをとり狩りをするそうです。

 

飼い主の帰りを待つ飼い犬は、飼い主がある程度、自宅に近づくと嬉しそうに鳴いたりします。臭いや音ではなく、飼い主の帰宅を知る不思議な能力があるとのこと。

 

このほか、たくさんのネズミが逃げだす船は沈む、といわれています。

 

動物も、テレパシーや千里眼、予知能力のようなものが備わっているのでしょうか?

 

 

ひとこと

 

人類の祖先も動物に近かったわけですから、同じような能力があったのかもしれません。

 

二足歩行や脳を発達させることにより、それらの不思議な能力が退化したともいわれています。

 

でも、予知能力は少し欲しいですね。先週、買った宝くじが当たってほしい!

 

(●^□^●)

 

藤原氏は、漁夫の利を得た?

 

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日本が中央集権化された時期は、奈良時代の律令制と、明治維新の後に成立した明治政府が代表的です。

 

明治維新は、薩摩藩や長州藩、土佐藩などの官軍が江戸幕府を倒して、武士の世から近代中央集権国家を成立させました。

 

江戸幕府側の強い抵抗勢力を排除して、明治政府は誕生したのです。

 

ところが奈良時代の律令制の成立時に、抵抗勢力がいたのかどうかが明確ではありません。多少の反対派はいたのでしょうが、明治維新の時のように激しく抵抗した勢力は存在したのでしょうか。

 

物部氏が抵抗したという説があります。正確には、律令制が成立する過程で発生した公地公民制に抵抗したといわれています。当時、物部氏は日本で最大の領地を保有していたからです。

 

公地公民制とは、日本の土地はすべて天皇のものである、という制度です。つまり貴族や豪族の土地を取り上げることでもあります。代わりに官位を与えたりしました。

 

 

明治政府の成立後、武士の内乱が起きた

 

明治維新は、薩摩藩や長州藩、土佐藩などの官軍が江戸幕府を倒して幕を閉じました。

 

幕府側の激しい抵抗があったわけですが、明治政府の成立後も武士による抵抗や内乱が起きています。

 

長州藩では「萩の乱」、佐賀藩では「佐賀の乱」、そして最大の反乱が薩摩藩が起こした「西南戦争」です。

 

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武士にとってみれば、自分たちの身分が奪われるわけですから、激しく抵抗し続けたのです。

 

古代の公地公民制が成立するときも、同じような抵抗が起きていたかもしれません。

 

 

曽我氏と物部氏の争いは、どうして起きた?

 

古代、朝鮮半島の百済から仏教が伝来して、仏教を国教にするかどうかで朝廷は争っていました。

 

とくに仏教派の曽我氏と神道派の物部氏が争い、ついに武力衝突して曽我氏が勝利しました。

 

しかし、曽我氏と物部氏は、仏教の国教化に関する対立だけではなく、公知公民制をめぐって争ったのではないかという説もあります。

 

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物部氏が倒された後、藤原氏が曽我氏を倒し、朝廷で権力を握るようになります。

 

藤原氏は、曽我氏が物部氏を排除した功績を隠すために「聖徳太子」という人物を創作して、聖徳太子の功績にしてしまったとか。

 

実際に聖徳太子の実在を疑う説もあります。たしかに聖徳太子は、超人みたいな能力が強調され過ぎていたりして、信じ難い点もあります。

 

曽我氏と物部氏の戦いが、仏教をめぐってのものか、公知公民制が原因なのかは明確ではありませんが、両者の勢力争いであったことは間違いなさそうです。

 

藤原氏は、漁夫の利を得たのでしょうかね?

 

 

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ひとこと

 

最近では、公地公民制もあいまいで、私地私民制と混在していたという説もあります。

 

歴史はいろいろな説があり、わからないことだらけですね(●´∀`●)

 

桓武天皇の時代から、朝廷の軍が縮小した

 

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桓武天皇は、平安時代初頭の天皇です。奈良から京都へ都を移したことでも有名です。

 

また、日本の天台宗の開祖である最澄を支援して、比叡山延暦寺を建立させました。なにかと話題の多い天皇ですが、あまり知られていないのが軍隊の縮小です。

 

朝鮮半島・白村江の戦の後、唐・新羅の侵攻に備え、朝廷は軍隊を強化していました。

 

しかし、平安時代に入ると、唐との国交が開かれ、侵攻される危険がなくなりました。唐・新羅からの防衛のために組織された防人(さきもり)をはじめ、朝廷に属する軍隊が縮小されはじめたのです。

 

 

財政難で軍を維持するのが難しくなった

 

侵攻の危険がなくなっただけが軍隊縮小の理由ではありません。財政的にも軍隊を保つのが厳しくなっていたのです。

 

奈良時代に始まった律令制度が上手く機能せず、税収が増えないことも理由のひとつでした。

 

律令制度下で、農民は重い税負担に耐えられず、浮浪や逃亡する者が後を絶たちませんでした。勝手に僧になって税の負担義務がら逃げる農民も少なくありません。

 

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朝廷は徴税が困難になり、軍隊を維持する費用が十分に賄えなくなってきたのです。

 

また、寄進地形荘園が増え、朝廷でなく貴族のほうに多く年貢が徴収されたり、国司など地方の役人の横領なども原因です。

 

軍隊が縮小した後、検非違使という官人が京都の治安維持を担当しました。

 

 

武士を下請けの軍隊にしていた

 

そして後に朝廷は、軍隊を、ほとんど持たなくなりました。武力が必要な事態になると、武士に命令して対応していました。

 

武士とは、皇族から臣籍降下(しんせきこうか)して、武装した源氏や平家です。地方に土着して、武力で土地を支配した源氏や平家もいました。

 

このほか地方の貴族や豪族、有力農民が武装して、武士と呼ばれるようになりました。

 

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つまり朝廷は、これらの武士を下請けみたいに使って治安維持に当たらせていたのです。

 

武士も一応、天皇の臣下ではありましたが、独立性が強い存在でした。

 

そのため、武士同士の争いも多かったのです。これは朝廷の力が十分に及んでいない証拠でもあります。

 

 

朝廷の権威と、武士の武力

 

平将門や平忠常の乱を平定したときも、坂東(関東)の武士の武力で鎮圧しました。

 

武士のほうでは、朝廷の権威を借りられるので、素直に朝廷の命令にしたがっていました。

 

手柄をたてれば恩賞を朝廷からもらえます。近隣の武士同士の争いでも朝廷の権威を得られるほうが有利です。

 

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朝廷と武士は、持ちつ持たれつの関係だったのです。

 

これは島国の日本だから可能だったのでしょう。中国や朝鮮だったら、たちまち周辺の異民族から侵略を受けてしまいます。

 

実際に中国や朝鮮で、王朝が軍隊を持たないということは有り得ませんでした。日本だけの特殊な構造です。

 

 

ひとこと

 

平安時代末期、朝廷は武士に政権を奪われてしまいました。

 

朝廷の権威と武士の武力のバランスがくずれ、それ以降、江戸末期まで武士が政権を担うようになったのです(●^U^●)

 

江戸幕府は天領400万石で実力があった?

 

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江戸幕府の蔵入地(直轄地、あるいは天領)は、約400万石であったといわれています。

 

400万石という数字だけではピンときませんが、豊臣秀吉の蔵入地の石高と比較するとわかりやすいです。

 

豊臣政権のとき、豊臣秀吉の蔵入地は約220万石です。徳川家康が約245万石、毛利家が分家を含め約200万石、上杉家が約120万石、前田家が約100万石弱です。

 

豊臣家は、徳川家康よりも石高が低かったのです。毛利家ともさほど差がありません。そのほか100万石前後の大名が何人もいました。江戸幕府に比べると、豊臣秀吉は大判振る舞いをしました。

 

幕府や政権の蔵入地の石高は、その時代によって、諸事情により定まったものと考えられます。また、検地や体制によって蔵入地の石高の基準も違ってきます。

 

室町幕府や鎌倉幕府の蔵入地の石高は、正確なところは不明ですが、後の豊臣政権や江戸幕府に比べると格段に低かったようです。

 

・・・・となると江戸幕府の400万石は、蔵入地としてかなり大きな石高だったといえましょう。

 

 

豊臣秀吉は気前がよかったのか?

 

後の世で豊臣秀吉の人気が高いのは、明るい性格と気前のよさだったといわれています。

 

しかし、本当に気前がよかったのかどうかはわかりません。

 

当時の豊臣政権は、織田家から簒奪(さんだつ)した政権のため、基盤が強くありません。敵対する大名を滅ぼすことが多かった織田信長のように、強行に敵と戦うことができませんでした。

 

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織田家を簒奪した後、グズグズしていれば足元をすくわれかねません。敵対する大名を滅ぼすことは少なく、本領安堵、あるいは本領を削るだけにとどめることが多かったのです。

 

こうすることで、天下を早く平定することができました。信長のように敵対する大名を滅亡させ続けると、それだけ抵抗が強くなります。天下の平定が遅くなるだけでなく、逆に滅ぼされるリスクも高まります。

 

それらのリスクを避けるため、秀吉は大判振る舞いをした、と考えられます。

 

そのかわり、その分、権力基盤が弱くなったといえましょう。

 

 

蔵入地400万石の実力なのか?

 

江戸幕府は、粛清(しゅくせい)を多く行いました。勝手に城を改修した、跡取りがいない、お家騒動、農民一揆を起こしたなどの理由をつけては、大名を取り潰していきました。

 

江戸城や大阪城、名古屋城の改修には、全国の大名に手弁当で家来を集めさせました。年一回の参勤交代で全国の大名を江戸へ出仕させました。

 

これらは大名、とくに外様大名の財力を奪うために実施されたものです。江戸幕府に反抗させないための策略です。

 

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しかし、江戸時代には、大名が幕府に反旗を翻すような戦は起こっていません。過酷な仕打ちをされていても、逆らえないほど江戸幕府は実力を蓄えていたからです。

 

幕府の蔵入地400万石の実力かもしれませんね。

 

 

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ひとこと

 

織田信長が目指していた強固な中央集権にはほど遠いですが、それまで興った日本の政権のなかでも、江戸幕府の実力は高かったみたいです。

(●^□^●)

 

頼朝は、義経に困っていた?

 

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源義経は平家を滅亡させ、鎌倉幕府を樹立させた大功労者です。しかし、兄・源頼朝の追討軍によって命を奪われます。

 

義経は、一ノ谷の崖を、わずか七十騎とともの駆け下り、平家の大軍を敗走させます。その後も次々に平家軍を打ち破り、壇ノ浦で平家を滅ぼしました。

 

最大の功労者ともいえる義経でしたが、勝手な振る舞いが多く、徐々に頼朝からの信頼を失っていきます。

 

とくに朝廷から義経が官位を受けたことが、頼朝の信頼を完璧に砕きました。兄の頼朝に断りもなしに、勝手に義経が官位を手にしたことは、鎌倉政権の基盤を崩しかねない行為だったからです。

 

義経は朝廷にまるめこまれ、鎌倉政権と対立するよう仕向けられたのかも。後に義経は鎌倉を訪れようとしましたが、鎌倉へ入ることが許されませんでした。

 

義経は、朝廷と組んで鎌倉政権と敵対するつもりはなく、ただ単に思慮が浅いだけだったのかもしれません。

 

 

土地を守るために東国の武士は戦った

 

そもそも関東の武士が源頼朝を旗頭にして、平家と戦ったのは、自分たちの土地を守るためでした。

 

当時、東国の豪族(有力地主)の立場は、複雑で不安定でした。豪族の所有する土地が寄進地系荘園だからです。

 

土地の実質上の所有者である豪族や有力農民は、国司からの過剰な年貢の取立てを防ぐため、力のある貴族に自分の土地を寄進しました。貴族からの保護を受けるためです。

 

そうなると、国司も年貢を要求したり、余計な口出しができなくなります。

 

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しかし、やがて貴族や国司、近隣の豪族との争いが絶えないようになります。豪族や有力農民は、いつしか武装して自分の土地を守るようになったのです。

 

そんな状況の平安時代末期、平家追討の綸旨(りんじ)が朝廷から下されます。

 

これを関東の豪族や有力農民は、チャンスととらえたのです。伊豆に流罪されている源氏の嫡子・源頼朝を旗頭にして手柄をたてれば、自分の土地所有権が安定すると考えました。

 

平家を滅ぼし鎌倉政権ができると、功のあった豪族や有力農民の土地が同政権下で正式に認められました。

 

貴族や国司、近隣の豪族との争いも減少したのです。国司という行政官の力も弱まり、幕府が各地に置いた守護大名や地頭が台頭してきます。

 

 

朝廷は鎌倉幕府が邪魔だった

 

鎌倉幕府は朝廷や貴族からみたら邪魔な存在でもありました。寄進地系荘園が減少しため、貴族の収入が減ってしまったからです。

 

そこで朝廷は、義経を頼朝から離反させ、鎌倉政権を弱体化させようと考えたようです。しかし、義経は奥州の地で鎌倉武士団によって、命を奪われました。

 

これで頼朝は一安心しましたが、朝廷はその後も鎌倉幕府を打倒するため、策謀を重ねます。

 

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しかし頼朝の亡き後、鎌倉幕府を潰そうとした後鳥羽上皇は、流罪されます。

 

そして朝廷は、幕府に対抗する力を失います。それを切っ掛けに、幕府の支配は東国だけでなく、西国まで広がりました。

 

 

ひとこと

 

いつの時代も利害に関する争いは、無くならないものですね(●´I`●)

 

桶狭間で今川義元より信長の兵が優れていた?

 

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大河ドラマ「おんな城主 直虎」にも登場する今川義元は、桶狭間で織田信長よって討ち取られます。

 

劣勢の織田信長が大軍を率いた今川義元に勝ったことは、大方の予想を覆す出来事でした。

 

しかし、ここでひとつ疑問があります。今川義元の軍の兵数です。いろいろな説によると、2万5千から4万の兵を動員したとされていますが、この兵数は多すぎる気がします。

 

今川氏の支配する領地は、駿府、遠江、三河の3カ国で、石高は69万石から100石ほどといわれています。

 

戦国時代は、1万石で250人の兵が動員できました。だから、多めにみても今川氏は最大で2万5千人の動員力だったはずです。しかも駿府、遠江、三河の3カ国にも守備の兵を配置しなければなりません。

 

今川氏の3カ国の領土は広いので、守備の兵も多かったことでしょう。おそらく尾張に攻め込んだ今川兵は1万5千人から2万人未満だったのではないでしょうか。

 

それでも信長が動員できる兵は2千から3千ほどでしたから、今川兵は5倍から8倍ほどの数です。やはり圧倒的に不利でした。

 

 

信長は手足のような親衛隊をつくった

 

父親の織田信秀が亡くなった後、跡目争いで実弟の織田信行や他の織田一族と、信長は戦います。兵の数では圧倒的に信長は不利でした。

 

このときすでに信長は、直属の親衛隊をもっていました。兵農分離された手足のごとく動かせる数百ほどの兵です。

 

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数は少なくても信長に忠誠を誓う親衛隊は大活躍しました。機動力や団結力において、尾張内のほかの勢力を上回っていたのです。

 

数々の戦いを勝利して尾張内の敵対勢力を駆逐すると、信長は、この親衛隊(専業兵士)の数を増やし、戦力を強化しました。

 

 

今川義元の兵は主に豪族の集まりだった

 

今川義元に従軍した兵は、井伊家や松平家をはじめとして、大部分の家臣が豪族の主でもありました。

 

今川氏の兵力に屈して家臣になった豪族が多かったので、忠誠心は低かったことでしょう。井伊家や松平家も、好んで今川氏の家臣になったわけではありません。

 

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その証拠に、今川義元が討たれた後、すぐに松平元康(徳川家康)は今川氏と敵対しました。やがて井伊家も松平元康の傘下に入りました。

 

武田氏や北条氏と今川氏は同盟をしていましたが、必ず同盟が守られる保障はありません。尾張を攻めている間に今川氏や家臣(豪族)の領土が侵される心配があります。

 

この状況からみると、尾張に侵入した今川義元の軍は、団結力や機動力の点で、信長の軍より劣っていたと考えられます。

 

信長の元に一致団結した尾張兵は、謀略と機動力を生かして、今川軍の弱点を突き勝利したのかもしれません。

 

 

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ひとこと

 

信長が義元に勝った原因は、諸説あります。

 

詳細なところは不明ですが、信長の工夫した新戦法が勝利をもたらしたことは間違いないでしょう。

 

それとにも恵まれました(●^曲^●)

 

信仰心が自然災害で強くなった古代の日本?

 

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節分の豆まきは終わりましたが、バレンタインデーが近づいています。でも、日本は、なんで様々な信仰に関係するお祝い事が多いのでしょうか。

 

クリスマスが祝われたり、豆まきや縁日などは神社や寺院で開かれます。冠婚葬祭もキリスト教や仏教、神道などがあります。

 

特定の宗教だけを信仰している外国人からは、様々な宗教の行事に参加する日本人が不思議にみえるそうです。

 

でも、この日本人の多様な宗教観っていいですね。窮屈でなく開放感を感じます。

 

私も子供のころから、神社や寺の祭りで、金魚すくいや綿アメを食べたり、クリスマスにケーキが食べられるのが楽しかったです。

 

 

平安時代は、死刑が少なかった?

 

古代の日本人は、とても信仰心が強かったようです。死者が祟ることを恐れた平安時代は、原則として死刑が廃止されていました。

 

これは仏教の影響もありますが、もともと古代の日本人は、たいへん自然への信仰が強かったことが影響しているようです。

 

死刑が廃止されているので、一番重い刑が流罪です。菅原道真も藤原氏によって、京都から九州の大宰府に流されました。

 

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菅原道真の死後、道真の祟りを鎮めるため各地に「天神様」の神社が建てられました。それほど死者の祟りを恐れていたのです。

 

しかし、完全に死刑がなくなったわけではありません。死刑を行うことによる祟りが怖いので、朝廷や貴族は直接かかわらず、主に武士階級に、この自分たちがやりたくないことを実行させることがありました。

 

また、都を離れた地方では、地域の権力者の判断で実行されていたようです。

 

それでも表向きは、古代の時代に300年ほど死刑が廃止されていたのです。世界の中でも、たいへん珍しいことです。

 

 

日本は自然災害が多いため、信仰心が強くなった?

 

石器・縄文時代から日本列島へは様々な地域から人が渡ってきました。なかでも一番多かったのが朝鮮半島から渡ってきた人々といわれています。地理的に近かったためでしょう。

 

しかし、朝鮮半島から渡ってきた人々は、日本に来てたいへん驚きました。日本列島は朝鮮半島と比べ、自然災害の頻度が圧倒的に多かったからです。

 

まず、地震や津波が多いです。大雪や大雨、雷、河川の氾濫、台風などの被害も朝鮮半島よりはるかに多かったのです。現在も自然災害は多いですが、古代は今のような土木や科学の技術がありません。

 

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逆に雨が多く気候が温暖なため、朝鮮半島よりも農作物や木材など自然が豊かでした。

 

これらの理由から日本列島に渡ってきた人々は、自然に対する畏敬の念がたいへん強くなりました。そして自然にたいする信仰心が強くなっていったようです。

 

そのため、自然の一部である生き物を殺傷することを嫌うようになりました。仏教の影響もありましたが、鹿や猪、牛などの動物をおおやけには食さなくなったのです。

 

人間を殺傷するのも避けるようになりました。人を殺めた後、地震や津波、雷などの自然災害が起こると、死者の祟りだと恐れたのです。

 

だから、道徳的に死刑を廃止したわけではなく、祟りを恐れての死刑廃止だった面が強いようです。

 

この点も世界のなかで珍しいですね。

 

 

ひとこと

 

平安時代末期になると、武士が台頭してきて、武士による捕虜や罪人への斬首が多くなります。それでも後の戦国時代ほどではありません。

 

源頼朝が命を奪われず、鎌倉幕府を興せたのも、死刑を嫌う風潮が残っていたおかげかもしれませんね(●^皿^●)

 

織田信長は、歴史や学問を誰から教わったのか?

 

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織田信長は、なんでも自分ひとりで決断して実行するというイメージがあります。参謀とか相談役が存在していたのかどうかは不明です。

 

これは信長は日記とか自分の考えを書物に残さなかったことが原因ですが、師とする人物がいたことは確かです。

 

ポルトガルの宣教師から西洋の進んだ文明を教えられ、信長は驚嘆しました。信長が自ずから豪華な食事を宣教師の前に運ぶほど、尊敬の念を表しました。

 

茶道の師である千利休に対しては、信長は弟子という立場で接していました。

 

大名の嫡子であった信長は、幼少より「若様」と敬われ恐れられていたので、千利休にズケズケと説教されることに、新鮮な喜びを感じていたようです。

 

これらのことから、気性の激しい性格の信長ですが、優れた人物に対しては粗暴ではなく、たいへん尊重していたことがわかります。

 

 

少年時代の師は、沢彦宗恩

 

信長の幼名は、吉法師(きっぽうし)です。「信長」の元服名の名付け親が沢彦宗恩(たくげん そうおん)です。

 

沢彦宗恩は、臨済宗妙心寺派の僧です。織田信秀の重臣・平手政秀の依頼により、信長の教育係りになりました。

 

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 信長が斎藤氏から美濃を奪ったとき、「井口」とか「稲葉山城」とよばれていた地名を、沢彦の助言を得て「岐阜」と改名しました。そして「天下布武」の印も沢彦の進言によるものとされています。

 

重要な名称の命名の多くに沢彦の進言があることから、信長は沢彦を師として相当に大切にしていたことが推測されます。

 

父の信秀が亡くなり、葬儀のときに信長は、抹香を信秀の位牌に投げつけましたが、これも沢彦の進言によって実行したといわれています。

 

 

兵法オタクだった信長

 

信長は幼少のころより勉学が嫌いでした。凌雲寺(りょううんじ)で手習いをしていたときも、よく抜け出して近所の子供と遊びまわっていました。

 

しかし、一端、物事に興味を抱くと夢中になる性格でした。ある時期から兵法に興味を持ち、さらに国の運営にまで興味の幅が広がったのです。

 

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 遊びでも戦ごっこに熱中しました。信長なりに工夫した武器や戦法を実際に戦ごっこで試しては、子供たちと一緒に楽しんでいました。

 

そうなると、孫子などの兵法書や宋学、歴史にも興味を持ち、父の信秀や沢彦宗恩から熱心に学ぶようになったと考えられます。

 

比叡山延暦寺焼き討ちの有無を言わさない決断力や、天皇へ対する確固とした態度をくずさない信長の信念は、少年時代の学問によって培われたのではないでしょうか。

 

 

ひとこと

 

信長の少年時代を描いた短編小説を少し修正して再出版しました。

 

友人と一緒につくった小説なのですが、正直いって「ヘタウマ小説」です。文字数は2万字弱ぐらいです。

 

ペンネームは、歴史小説家・司馬遼太郎さんの名前と「ヘタウマ」を混ぜて、「辺田馬太郎」にしました。出版社名は、このブログのID名でもある「みずえBook」です。

 

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三成は家康の誘導作戦に負けた?

 

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戦国の末期、天下分け目の戦が関が原で勃発しました。徳川家康が引きうる東軍の勝利に終わります。負けた西軍の将である石田三成は、捕らえられ処刑されました。

 

小説などで当時の状況などを知るにつけ、石田三成が徳川家康に誘いこまれて負けた、という感じです。三成は家康の誘いにのらず、時節を待てば勝つことができたかもしれません。

 

この戦いは、まさに後の先をとったほうが勝つ見込みの高い戦でした。剣術では、実力が伯仲している場合、先に切りかかった方が不利です。

 

相手の攻撃を見切って受け流し、隙のでたところを撃って勝つのです。だから、いかに相手に先に手を出させるかが勝敗の分れ目になります。

 

戦でも同じです。とくに鉄砲が主力になった戦国時代後期は、先に攻撃すると鉄砲の餌食になるだけです。そのため、野戦でも互いに睨み合いになることが多かったのです。

 

そのため、先に相手に攻撃させるため、互いにあの手この手を尽くします。

 

 

日本史上で最大規模の誘導作戦

 

誘導作戦で有名なのが第4次川中島の戦いで、妻女山に陣を敷き、自ずからを囮にした上杉謙信の作戦です。そして、武田信玄の三方ヶ原での戦、徳川家康の小牧・長久手の戦いがあります。

 

いずれの戦でも先に攻めた方が負けています。兵力差に圧倒的に差がなければ、先に攻めるのは、やはり不利なのです。家康は、数々の修羅場から得た経験によってそのことを熟知していました。

 

当時の家康は、関東8カ国の254万石を領有して、日本全国の約10分の1ほどの石高と八万の兵を動因できる実力がありました。

 

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しかし、婚姻作戦などによって味方を増やせても、上方の全兵力を敵にまわしたら、とても勝ち目はありません。

 

そこで誘導作戦です。家康は上杉討伐のため上方を留守にして、三成に先に攻撃させ、後の先で勝つ作戦を実行しました。狙いは見事に当たり、関が原で家康の東軍は勝利を収めることができたのです。

 

武田信玄の誘導作戦に敗れて、ウンコをもらしながら逃げた家康でしたが、日本史上最大規模の誘導作戦で西軍に勝利したわけです。

 

三成は誘導作戦にのらなければ、負けはしなかったかも?

 

もし、仮に三成が家康の誘導作戦にのらず、挙兵しなかったらどうなっていたでしょうか。おそらく家康の天下は遠のいたことでしょう。

 

「石田三成を撃つ」という大儀名分がなければ、豊臣恩顧の大名を味方につけることもできず、兵の数で圧倒的に不利だからです。

 

しかし、三成にものんびりしている時間はありませんでした。家康だけでなく、敵対する豊臣恩顧の大名との戦が避けられなかったからです。

 

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三成としては、家康を撃ち、福島正則や加藤清正、黒田長政など敵対する豊臣恩顧の大名も滅ぼしたいと考えていたようです。

 

その焦りが家康の誘導作戦にやられてしまった原因のひとつかもしれません。

 

 

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ひとこと

 

天下分け目の関が原の戦は、我慢比べで三成が家康に負けた、という感じもします。

 

幼少から苦労を重ねた家康は、我慢に我慢を重ねて勝機をつかむ能力が、群を抜いていましたね( ●`▽´● )

 

 

チンギス・ハーンはアメとムチの使い方が上手かった!?

 

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チンギス・ハーンは、モンゴル帝国の基礎を築いた人物です。とにかく獰猛な戦闘集団を率いたというイメージがあります。

 

機動力に優れた騎馬軍団を縦横に駆使して、多くの敵国の領土を奪いました。また、膨大な物量作戦により、いくつもの城や都市を壊滅させました。

 

敵国を征服後、モンゴル帝国を裏切った国に対しては、老若男女どころかネズミ一匹さえ殺しつくしました。そこまで徹底するのは、他の占領下の国への見せしめでもあります。

 

しかし、残虐な脅しだけで広大な版図を治めたわけではありません。モンゴルは人口が少ないため、武力だけでは限界があります。

 

武力という「ムチ」だけでなく政治政策における優れた「アメ」があったのです。

 

 

税金がやすかった!

 

税金がかなり安かったのです。遊牧騎馬民族のモンゴルでは、羊100頭につき2頭が税として徴収されていました。つまり税金が約2パーセントだったのです。

 

占領下の国の税金は、状況によってさまざまな税率だったことでしょうが、安かったことは間違いないと伝えらています。

 

少なくともモンゴルに占領される前より税金が安くなったため、民衆からは喜ばれたそうです。

 

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モンゴルに征服されたおかげで、それまで蔓延していた既得権益者による横領や理不尽な搾取が減少したことも、民衆の支持を受ける理由になりました。

 

圧倒的に強力な軍事力によって、民衆のための健全な政治をおこなうことを可能にさせたのでしょう。

 

このように民衆に喜ばれる「アメ」を使ったことで、支配地の反乱も減少していったようです。

 

人類初の不換紙幣を使用した!

 

モンゴルは遊牧騎馬民族なので、商取引は主に物々交換でした。しかし、支配地が大きくなるにつれて、当然、物々交換では効率が悪く、通貨を大量に使用するようになりました。

 

当初は、兌換紙幣(だかんしへい)という銀や金と交換できる紙幣や貨幣で取引していましたが、モンゴルの版図が大きくなるにつれ、銀や金が不足がちになります。

 

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銀や金に比較して通貨が増えすぎると、その通貨の信用が損なわれ価値が下がってしまいます。これではモンゴル帝国内での経済活動に支障をきたします。

 

そこで思い切った経済政策をおこないます。人類初の不換紙幣(ふかんしへい)の発行です。名前のとおり銀や金と交換ができない通貨です。モンゴル帝国の財務幕僚のひとりマフムード・ヤラワチによって、この政策が実行されました。

 

不換紙幣により、銀や金の量に影響されず、税金も不換紙幣で支払うことができるようになりました。これによりモンゴル帝国の経済活動を活発にすることが可能になったのです。

 

 

ひとこと

 

このほか、政教分離や信教の自由、奴隷解放などさまざまな政策を実施しました。モンゴル帝国の初期のころは、かなり民衆にとって暮らしやすい国だったようです。

 

しかし、やがてモンゴル帝国は分裂して、腐敗がすすみ、一部の分国を残して滅亡しました。

 

それでも世界の大半を征服したモンゴルは、アメムチの使い方がたいへん上手かったといえましょう(●^□^●)

 

 

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織田信長の性格は、民衆にはやさしかった!

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比叡山延暦寺の焼き討ちで3千人あまりの僧俗を殺戮して、本願寺一向一揆に対しては10万に近い門徒の命を、信長は奪っています。

 

家臣に対する処罰も苛烈きわまりないものでした。

 

いつしか「第六天の魔王」と信長は、内からも外からもよばれ、恐れられるようになりました。

 

 

戦国時代の君臣関係は、対等に近かった

 

戦国時代の君臣関係は江戸時代と違い、対等に近いものでした。主君と家臣の力関係によっては、家臣が主君を怒鳴りちらすこともありました。

 

武田信玄や上杉謙信でさえも、当主になって間もないころは、家臣が言うことを聞かなかったり、家臣同士で争うことに嫌気がさし、やけ酒を飲んだと伝えられています。

 

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上杉謙信は、やけ酒だけでは収まらず、京都へ逃げ出すほどでした。隠居して僧になる、と駄々をこね、重臣がなだめて越後へ連れ戻したのです。

 

豪族の長の集まりである家臣団を一致団結させるのは、なかなか骨が折れる行為だったのです。

 

 

信長は独裁体制を確立した

 

信長は、早くから兵農分離政策を行い、家臣を豪族の長ではなく、信長の直属の家来にしました。会社経営している下請けの社長(豪族)ではなく、自分の会社の正社員(完全な家臣)にしたわけです。

 

ですから、信長が自由自在に家臣を使うことができる独裁体制をつくることができました。

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 信長の組織では、家臣が主君を怒鳴り散らすなんて、とてもできません。柴田勝家のような豪傑で古参の重臣でも、信長の前では顔も上げられず、冷や汗をかいていました。

 

信長は、家臣からも敵からも恐怖の独裁者でした。

 

 

民衆には、やさしかった信長

 

ところが信長は、民衆にはとてもやさしかったのです。

 

例えばこんな話がいくつかあります。信長が領内を家臣と見回りの最中、乞食をしている汚い浮浪者や、行く当てもない老婆などを見かけると、直接、声をかけ事情をきいたりしたそうです。

 

そして、村の責任者や領主に、生活に困らないように面倒をみろ、と指示したといわれています。

 

百姓や庶民の命がたいへん軽く扱われていた時代に、信長のこの村人に対するやさしさは類をみません。

 

細川忠興は、植木職人が木から落ちて大きな音を立てただけで、その職人を刀で切りました。

 

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徳川家康の長男・信康は、踊り子の踊りが下手だという理由だけで弓で殺害しました。家康の十男・頼宣にいたっては、猪や鹿と同じように、百姓を銃で撃ち殺しては楽しんでいました。

 

現在では考えられないような残酷な行為が、平気でおこなわれていたのです。

 

そのような戦国時代の人命軽視の風潮からみると、いかに信長が民衆を大切にしていたかが理解できます。

 

 

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ひとこと

 

数え切れないほどの殺戮を行なってきた信長ですが、理由がなく人の命を奪うことはしませんでした。

 

天皇をないがしろにしたり、同盟者や家臣に対する過酷な仕打ちも、理由があってのことなんだ、ということも最近、少しわかってきました♪(●^U^●)