比叡山延暦寺の焼き討ちで3千人あまりの僧俗を殺戮して、本願寺一向一揆に対しては10万に近い門徒の命を、信長は奪っています。
家臣に対する処罰も苛烈きわまりないものでした。
いつしか「第六天の魔王」と信長は、内からも外からもよばれ、恐れられるようになりました。
戦国時代の君臣関係は、対等に近かった
戦国時代の君臣関係は江戸時代と違い、対等に近いものでした。主君と家臣の力関係によっては、家臣が主君を怒鳴りちらすこともありました。
武田信玄や上杉謙信でさえも、当主になって間もないころは、家臣が言うことを聞かなかったり、家臣同士で争うことに嫌気がさし、やけ酒を飲んだと伝えられています。
上杉謙信は、やけ酒だけでは収まらず、京都へ逃げ出すほどでした。隠居して僧になる、と駄々をこね、重臣がなだめて越後へ連れ戻したのです。
豪族の長の集まりである家臣団を一致団結させるのは、なかなか骨が折れる行為だったのです。
信長は独裁体制を確立した
信長は、早くから兵農分離政策を行い、家臣を豪族の長ではなく、信長の直属の家来にしました。会社経営している下請けの社長(豪族)ではなく、自分の会社の正社員(完全な家臣)にしたわけです。
ですから、信長が自由自在に家臣を使うことができる独裁体制をつくることができました。
信長の組織では、家臣が主君を怒鳴り散らすなんて、とてもできません。柴田勝家のような豪傑で古参の重臣でも、信長の前では顔も上げられず、冷や汗をかいていました。
信長は、家臣からも敵からも恐怖の独裁者でした。
民衆には、やさしかった信長
ところが信長は、民衆にはとてもやさしかったのです。
例えばこんな話がいくつかあります。信長が領内を家臣と見回りの最中、乞食をしている汚い浮浪者や、行く当てもない老婆などを見かけると、直接、声をかけ事情をきいたりしたそうです。
そして、村の責任者や領主に、生活に困らないように面倒をみろ、と指示したといわれています。
百姓や庶民の命がたいへん軽く扱われていた時代に、信長のこの村人に対するやさしさは類をみません。
細川忠興は、植木職人が木から落ちて大きな音を立てただけで、その職人を刀で切りました。
徳川家康の長男・信康は、踊り子の踊りが下手だという理由だけで弓で殺害しました。家康の十男・頼宣にいたっては、猪や鹿と同じように、百姓を銃で撃ち殺しては楽しんでいました。
現在では考えられないような残酷な行為が、平気でおこなわれていたのです。
そのような戦国時代の人命軽視の風潮からみると、いかに信長が民衆を大切にしていたかが理解できます。
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ひとこと
数え切れないほどの殺戮を行なってきた信長ですが、理由がなく人の命を奪うことはしませんでした。
天皇をないがしろにしたり、同盟者や家臣に対する過酷な仕打ちも、理由があってのことなんだ、ということも最近、少しわかってきました♪(●^U^●)