みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

火薬が戦国時代の日本に影響を与えた

 

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中国四大発明は、紙、印刷、火薬、羅針盤です。なかでも火薬が戦国時代、日本に与えた影響は大きいです。

 

紙や印刷、火薬、羅針盤が発明されたのは、古代中国の時代からですが、宋王朝(11世紀)になると外洋船に指南魚(羅針盤)が使われています。紙や印刷、火薬、羅針盤は、ヨーロッパにも伝わりました。

 

ヨーロッパでは、火薬を応用して鉄砲が発明されました。中国でも銃器に近いものが発明され、ヨーロッパで改良されたという説があります。当初は花火のようなものであり、脅しのために使われることも多かったのです。

 

元が日本に襲来したときも花火のような爆弾が使われました。殺傷力は強くありません。大きな爆発音で日本の武士をビックリさせる程度でした。

 

 

羅針盤が大航海時代を可能にした

 

やがて、ヨーロッパは大航海時代に入ります。15世紀中ごろから17世紀の中期あたりまで、主にスペインとポルトガルによって、世界中の海へ航海が行われます。

 

外洋航海が可能になった理由のひとつに羅針盤があります。羅針盤によって方向を誤ることなく航海ができたのです。

 

夜の星座と羅針盤を頼りに、世界中の海を航海することが可能になったのです。

 

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もちろん、造船技術の発達もあります。大波が船上を襲っても、まるで樽のように密閉された甲板は海水の侵入を防ぐことができました。

 

そして、ユーラシア大陸の果てにある日本の種子島に、ポルトガル人を乗せた船が漂着したのは、1543年の9月ごろと言われています。

 

漂着した船は中国船とも南蛮船とも言われておりますが、このとき初めて日本へ鉄砲が伝わったのです。一緒に後の天麩羅になる揚げ物料理も伝わりました。

 

 

日本の鉄砲の技術は師の国を超えた!

 

鉄砲を試した種子島の日本人は驚きました。殺傷力と命中率がとてつもなく優れていたからです。鎧も貫通してしいまいます。射程距離も100~200メートルにも及びます。たちまち鉄砲は日本中に広まりました。

 

国産化にも成功して、鉄砲の性能は「鉄砲の師の国」であるポルトガルやスペインを凌駕するまでになりました。

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 戦国時代の後期の日本は、鉄砲の数、性能ともに世界一と言われております。長篠の戦で織田長信は3千丁の鉄砲で武田勝頼の軍を壊滅させましたが、これは世界初の集団銃撃戦法とされています。

 

キリスト教宣教師のルイス・フロイスは、

「日本の武士は世界最強である!」

と感嘆していました。

もし、ヨーロッパに日本の武士団が侵攻すれば、数ヶ月で征服してしまうだろう、とまで強調しています。

 

実際、文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島を攻めたとき、救援にきた明の20万あまりの兵を撃退しています。もちろん、主力武器は鉄砲です。

 

慶長の役の約20数年後、日本との戦で多大な損害を受けたことが原因のひとつとなり、明は滅亡しています。最後の中国王朝・清に征服されたのです。

 

 

ひとこと

 

古代中国で発明された火薬が、ヨーロッパで鉄砲に応用され、日本へ伝わり、日本が明を鉄砲で攻撃して、滅亡への原因をつくった、という壮大な「火薬の歴史物語」は、とても面白いです(●^□^●)

 

 

 

 

中古車の買取り査定で困らないコツとは!?

 

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以前、自動車を運転する機会がなくなり、中古車店にマイカーを買取ってもらったことがありました。10万円ほどで売れたので満足していたのですが、しばらくして、少し後悔しました。

 

友人に車を売ったことを話したら、一社だけで査定してもらうと、安く買取られている場合が多いとのこと。

 

すでに売ってしまった後なので、車を売った価格のことは忘れようと思いましたが、つい気になり調べてみました。すると、たしかに3~4万円ぐらい高く売れる余地はあったみたいです。

 

後の祭りですが、もし、次、車を買取ってもらうときは、何社かで競争させてから販売しようと思います。

 

車によっては、10万~20万円以上、買取り価格が違ってくる場合がありますので、これは真剣に考えたほうがよさそうです。

 

 

いくつもの中古店で査定するのは面倒

 

何社かに競争させて、なるべく高く車を買取ってもらうのはいいことですが、いくつもの買取店に車を持っていくのは面倒です。

 

待ち時間や査定時間は、それなりにかかります。せっかくの休日が1日つぶれてしまいます。

 

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そこで、逆に何社から訪問してもらって査定を受ける方法もありますが、何社もくると、その都度、査定を受けるわけですから、やはり1日つぶれます。

 

また、何人もの買取店の方と話しをするのも疲れます。買取りの営業電話もかかってきます。

 

でも、なるべく高く車を売りたい。どうすればいいのか・・・・?

 

 

査定は一回で、最大1,000社からの入札が可能!

 

ところが、ありました。とても便利なシステムです。それは「ユーカーパック」の自動車査定です。

 

出張で査定は1回ですみます。それほど時間はかかりません。これなら、好きな時間帯にきてもらって、休日を1日つぶすこともありません。出勤時間が調整できれば平日でもOKです。

 

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個人情報が複数の買取店に流れないので、営業電話が頻繁にかかってくることもありません。

 

簡単に流れを示すと、

売り手→販売店→買い手

という簡単な流通システムです。

 

複数の販売店が直接ユーカーパックに出品されている車に入札ができるので、中間マージンがかからず、その分高く車を売ることが可能なのです!

 

専用サイトで展示された売り手の車を、買取店が競争して価格をつけて買取るので、高く売ることができます。

 

1回の査定で最大1,000社から入札を受けることも可能です!

 

出張査定以外にもユーカーパック提携店のガソリンスタンドなら、査定ができます。出張でもガソリンスタンドでも、査定は1回受けるだけでOKです。

 

まだ新しい中古車販売システムですが、たいへん便利です。

 

 

ひとこと

 

インターネットであらゆる商品が売買ができる時代ですが、中古車の買取もついにここまできたか、と思える画期的な仕組みです。

 

車を売るときは、ぜひ、利用してみたいシステムです(●^皿^●)

 

 

鑑真はメチャクチャ日本の仏教に影響を与えた?

 

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奈良時代、当時の仏教界では、勝手に僧になる者が多く、朝廷は手を焼いていました。

 

当時、律令制度の過酷な税負担に耐えられず、与えられた口分田から逃げ、勝手に僧(私度僧)になる農民が後を絶たなかったのです。僧になれば税の負担がなくなるからです。

 

そして行基が中心となり、私度僧が集って治水、架橋、貧民救済活動がおこなわました。

 

朝廷は、これでは税金が減ってしまって困ります。当然、私度僧に対する弾圧を行いました。

 

しかし、私度僧といっても僧であることには変わりありません。通常の罪人のように罰するわけにはいきません。

 

僧尼令違反を理由に中心者の行基を処分しましたが、大勢の私度僧を処分するには限界があります。

 

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そこで、唐から位の高い僧を招き、正式に僧になるための儀式である「受戒」を行おうとしたのです。正式な「受戒」を授けられない者は僧として認めないことにしました。

 

そのため、たいへんな費用とリスクの伴う唐からの「受戒師」の招聘に力を入れたのです。

 

 

何度も失敗して6度目の渡航で成功

 

鑑真は、唐へ渡った日本人の僧から、日本へ戒律を伝えるよう懇請されました。

 

しかし、弟子の中から誰一人として希望する者がおりません。しかたなく鑑真が自ずから日本へ行くことを決めたのです。

 

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鑑真の日本への渡航は、想像もできない困難に満ちていました。当時の唐では、国外に渡ることは禁止されていました。また、唐から日本への航路は、外洋のため海が荒れ、たいへん危険です。

 

結局、5回失敗して、6回目に日本への渡航に成功したのです。54歳のときに第一回目の渡航に失敗して、日本への渡航が成功したときは66歳になっていました。過酷な渡航が災いして盲目となっていました。

 

日本へ渡航した本当の理由な何か?

 

しかし、なぜ鑑真は、そこまでして日本に「戒律」を伝えようとしたのでしょうか。これは明確な理由は不明のようです。

 

普通ならば1~2回も渡航に失敗すれば、

「やはり、無理だ!」

と言って、あきらめるとことです。

 

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異国における仏教界の規律の乱れなど、鑑真にとって、命を懸けてまで正す必要があるのでしょうか?

 

これはよほど強い別の動機が存在していたようです。

 

 

鑑真は天台宗を伝えた

 

ただ唯一、ヒントになるものがあります。それは鑑真が唐から持ってきた「天台三大部」という天台大師の論書です。

 

後に最澄がこの「天台三大部」を読み感激して、比叡山延暦寺を創建する遠因となる論書です。

 

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延暦寺が存在しなければ、後の鎌倉仏教の発展もありません。日本の天台宗から派生した浄土宗や浄土真宗、日蓮宗なども存在しなかったわけです。

 

当然、戦国時代、織田信長の本願寺との対立や、比叡山延暦寺き討ちもありません。

 

鑑真は、天台宗を伝えるために日本に渡ってきたのか、と想像してしまいます。

 

 

ひとこと

 

鑑真は、唐で律宗と天台宗を修行しました。

 

天台宗を日本に伝えたことは、あまり知られてはいませんが、ことらのほうが後の世に与えた影響は大きいみたいです。

 

鑑真は「戒律」を日本に伝えたことが知られていますが、天台宗も伝えたことにより、メチャクチャ日本の仏教に影響を与えたようです(●^U^●)

 

経済成長を目指していた織田信長!?

 

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戦国時代は、文字どおり戦の多い時代でした。織田信長も戦ばかりしていました。でも、好きで戦をやっていたわけではありません。

 

戦とは所詮、政治の一部であり、国家運営の一部である・・・・と信長は考えていたのです。

 

その証拠に、信長は「天下布武」の印を用いています。「武」という字は、猛々しい感じがしますが、本来は戦いを止めさせる、という意味です。

 

だから、戦のない平和な日本をつくる、というのが「天下布武」の本来の意味です。

 

 

天下が統一されると功臣の粛清(追放や処刑)が始まる!

 

天下を統一すれば、当然、戦はなくなります。平和な世がきたと喜びたいところです。

 

しかし、戦はなくなっても、戦闘組織はなくなりません。平和な世では無用の存在となります。それどころか反乱の温床となり、天下を脅かす存在となりえます。

 

つまり、戦で手柄をたてた功臣や軍が邪魔になってくるのです。

 

漢王朝を創建した劉邦は、天下統一の後、韓信や盧綰、英布など多くの功臣を粛清しました。明の朱元璋、中華人民共和国の毛沢東は、数百万から数千万人以上を粛清したことで知られています。

 

ところが信長は、この陰惨な「粛清」など、あまり考えていなかった節があります。

 

天下統一で停滞する戦による成長体質を、商業による成長体質に転換させようとしていたのです。

 

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一番、可能性があるのがスペインやポルトガルなど西洋との交易です。そして、西洋の最先端の知識、技術、国家運営などを日本に輸入することを目指していたとされています。

 

古代日本が唐や百済から、最先端の文明を取り入れていたのと、考えていることが似ていますね。

 

 

経済成長のために独裁国家が必要だった!

 

惜しくも志なかばで、信長は横死します。しかし、その後、豊臣秀吉、徳川家康が天下を手中に収めますが、経済発展どころか逆行するような政策を行います。

 

これは簡単にいうと、秀吉や家康の天下政権は基盤が弱いため、経済の成長戦略どころではなかったのです。政権を維持するのがやっとだったのです。

 

強力な天下政権を築きつつあった信長と違い、秀吉と家康は、妥協だらけの軟弱な政権を運営せざるおえませんでした。

 

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そのため、いつも国内の反乱や外国からの侵略に怯えていました。

 

信長が敵の降伏を許さない過激な方針をとったのも、経済成長のできる強力な天下政権を構築するために必要だったのでしょう。

 

 

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ひとこと

 

秀吉が朝鮮半島に出兵したのも、戦闘的成長体質を抑えることができなかったからだといわれています。また、粛清が行えるほど豊臣政権が安定していなかったことも一因です。

 

家康は、大河の橋を取っ払い、船は帆が一つか張れなくし、国内交通を不便にしてまで、徳川幕府を守ろうとしました。また、鎖国で貿易での経済発展の芽も摘んでしまいした。

 

もし、信長の強固な天下政権ならば、こんな非効率なことはやらないで、日本を西洋並みの先進国へと導いたことでしょう(●^□^●)

   

ブログのタイトルで同じキーワードを何回も左端に配置するのはNG!

 

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私は、ブログを始めてまだ半年ほどですが、この間、いろいろ勉強になりました。

 

最近、「なるほど!」と思ったのは、複数の記事タイトルの左端に、同じキーワードを配置してはいけない、ということです。

 

 

同じキーワードを4記事のタイトルの左端に配置した

 

「戦国武将ランキング」というキーワードを、タイトルの左端に配置したら、その記事の検索順位が上位になったため、他の3記事にもこのキーワードを左端に配置しました。

 

「戦国武将ランキング第3位の上杉謙信は、なぜ強かったのか?」

のタイトルの記事では、7位になり1ページ目に表示され、うれしくなりました。

 

www.mizue338.net

 

 この「戦国武将ランキング」キーワードのタイトルを左端に配置すれば、上位が狙えると思い、翌日「戦国武将ランキング第5位の武田信玄は孫子が好きだった?」のタイトルの記事を投稿しました。

 

すると、「上杉謙信の記事」とともに「武田信玄の記事」も15位から18位ぐらいに下がり、2ページ目に表示されました。他の2記事は4ページから6ページぐらいに表示されました。

 

最初、なぜ順位が下がったのか分かりませんでしたが、いろいろ調べたら複数の記事タイトルの左端に同じキーワードを入れると、ペナルティを受けるということです。

 

とくに2日、続けて同じようなことをしたことが、Googleから嫌われたみたいです。

 

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早速、「上杉謙信の記事」以外の3記事は、「戦国武将ランキング」のキーワードを削除しました。現在、「上杉謙信の記事」は、15位で2ページ目に表示されていますが、これ以上のペナルティは防げそうです。

 

タイトルの左端に同じキーワードを配置した記事を何十個も投稿して、数ヶ月後に検索結果に表示されなくなった、という他の方のブログ記事もみかけました。

 

どの程度、行ったらペナルティを受けるのか、そのあたりの明確な基準は不明ですが、今後は注意します。

 

 

大手が社名を、複数の記事タイトルの左端に配置していた?

 

時々、R社やA社など大手企業より、上位に表示されている個人のブログを見かけることがあります。

 

個人のブログが大手企業より、上位に表示されるのは、私の「戦国武将ランキング」のタイトルとは逆の理由かもしれません。

 

R社やA社は、どの記事タイトルでも左端に、必ず社名を配置しています。数多くの記事を投稿していますので、当然、左端の企業名キーワードも複数がダブっています。

 

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それがひとつの原因となって順位が下がり、個人ブログに上位を譲っているのではないかと思いました。もちろん、そのほかの原因もあるでしょうが。

 

このことは、あくまでも推測ですが、意外とこうゆうところが盲点となり、個人が大手に勝てる穴かもしれません。

 

 

ひとこと

 

今回のことは、いい経験なりました。時間があるときに、過去記事もチェックしようと思います。

 

今後、記事タイトルを書くときは、自分のブログの検索窓でキーワードが重なっていないかもチェックします。

 

この半年間、いろいろ勉強になりました(●^皿^●)

   

 

中国の文明が西洋に遅れた理由がグーグルマップでわかった?

 

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中国は、古代から清王朝末期ぐらいまで中華思想の国であり、世界でもっとも文明が優れていると自負していました。

 

周辺の国は、みな野蛮人が住んでいる国と見下し、とてつもなく傲慢な国だったのです。

 

つまり中国が中心に、世界が存在するかのように考えていたのです。

 

周辺国の国名を中国は勝手につけていましたが、それはひどい国名です。匈奴、鮮卑、蒙古、濊貊、南蛮など、いずれも「卑しい」とか「バカ」、「野蛮」の意味が含まれている、とんでもない国名です。

 

南蛮はスペインやポルトガルなど、西洋の国々のことです。

 

しかし、19世紀になると「南蛮」と呼んで見下していた西洋の国々から、中国は領土を蚕食され、多大な屈辱を受けます。

 

「野蛮人、野蛮人!」と西洋や周辺国をバカにしていましたが、実は、中国人自身、このとき中国(清)が世界の中で、かなりの後進国だったことに気づかされたのです。

 

「井の中の蛙大海を知らず」とは、まさにこのことです。

 

 

ヨーロッパは山が多いため、競争原理があった?

 

世界四大文明は、大河の付近の肥沃な農耕地帯から発生しています。しかし、文明の発展には競争原理が必要です。

 

グーグルマップを見てみると、ヨーロッパは山岳地帯が多いです。森林にも恵まれていて、スペインを除いて、ほとんど緑で覆われています。

 

中国とヨーロッパは、グーグルマップでは同じぐらいの大きさに見えます。

 

しかし中国と違い、ヨーロッパは数多くの国家が存在します。これは適度な山岳地帯が自然な国境の壁となり、独立国家が多く生まれることを可能にしたからでしょう。

 

そのため、多数の国と国との競争原理が働き、文明を発展することができたといえます。

 

ところが、中国は分裂時代を除くと、あの広大な地域が一国で治められていました。さらに周辺国を属国としていました。

 

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グーグルマップを見てみると、ヨーロッパに比べると中国は、格段に平地が多いことがわかります。北や西側では、緑が少ない荒地や砂漠が広がっています。

 

万里の長城がつくられたのも、このあたりに理由があるのでしょう。

 

 

中国は、平地が多いため競争の原理が乏しかった?

 

地域と地域を隔てる自然の壁が少ないため、中国は広大な領土を一国で治めることができたといえます。

 

しかし、このことが中国から競争の原理を奪ってしまったと考えられます。平地が多いため、周辺国も含め国と国がしのぎを削る文明の競争が、ほとんど起きなかったのです。

 

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北方騎馬民族に何度も政権を奪われた中国ですが、「中華思想」までは奪われませんでした。騎馬民族は戦には強くても、中国を凌駕する文明を持ち合わせていなかったからです。

 

農業に適さない草原や森林で、遊牧、狩猟を主な生業としてきた騎馬民族は、ヨーロッパや中国のような文明を育てる環境にありませんでした。

 

だから、騎馬民族が中国の政権を奪うと、自ずから「中華文明」を継承したと言って、よろこんでいたのです。

 

競い合うことがないため、文明の発展が中途で止まってしまったといえます。

 

グーグルマップで中国とヨーロッパをボケーっと眺めた、つたない私の感想でした。

 

 

ひとこと

 

日本をグーグルマップで眺めると、山と緑が多いです。島国の狭い地域の中で競争の原理が働きやすい環境です。

 

しかも、島国のため異民族に脅かされることなく、国内で地域と地域との間で切磋琢磨ができます。

 

これが今日の経済大国・日本をつくった源泉になったのかもしれませんね。

 

(★ ̄∀ ̄★)

 

光秀と信長は、焦りと油断で失敗したみたいだ?

 

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明智光秀の謀反により、信長は本能寺で横死しました。あと一歩で天下統一のところまできていたのに残念です。

 

逆に信長の敵対勢力にとっては、たいへんな朗報であり、京の朝廷も安堵したことでしょう。

 

では、なぜ明智光秀は謀反を起こしたのでしょうか。冷静に物事を判断する光秀らしくない、衝動的な行為でした。

 

その証拠に本能寺の変の後、11日間ほどで光秀は討ち死にします。羽柴秀吉が予想をはるかに上回る早さで引き返してきたからです。

 

光秀は、細川藤孝や筒井順慶を見方に引き入れることに失敗しました。また、準備が整わないうちに秀吉軍と戦うことになり、光秀の軍は惨敗しました。

 

光秀は落ち武者狩りで農民に討ち取られてしまいます。

 

しかし、秀吉が光秀を討たなくても、遅かれ早かれ光秀は誰かに討たれたことは間違いありません。

 

逆に光秀が信長を討たなくても、信長は誰かに討たれていたか、織田家は信長一代限りで終わっていたかもしれません。

 

 

島国の日本では王朝交代が起こりにくい

 

世界の歴史は王朝交代の歴史であり、国家は数十年か数百年で興亡を繰り返してきました。

 

日本は、同じ王朝が古代から続いた世界で唯一の国です。

 

中国大陸でも異民族によって王朝が滅ぼされたり、逆に異民族を追い出すことによって新たな王朝が興ることが多いです。

 

朝鮮半島は、中国王朝の影響を受け、王朝が入れ替わったりしています。

 

日本は島国のため、大陸や半島のように異民族の影響を受けません。そのおかげで古代から王朝を連綿と存続させることができたのです。

 

鎌倉幕府や足利幕府、後の豊臣政権や徳川幕府は、国家の実権を握りましたが、あくまで「天皇の臣下」という立場は守りました。

 

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しかし、信長はその「天皇の臣下」であることを、無視するような態度をとり始めたのです。

 

これには朝廷ばかりでなく、世間も騒然としました。

「信長が天下をとったら、とんでもないことになる!」

という不安がひろがりました。

 

信長は、日本の大部分を制覇したため、驕りがでたと言わざるを得ません。

 

 

油断と焦りが命を縮めたのか?

 

朝廷に対する高圧的な態度を、あと数年、控えていれば、信長は天下をとっていた可能性が極めて高いです。

 

信長を殺害した後の状況を正確に想像できなかった光秀は、やはり焦りすぎたのでしょうか。朝廷を助けることにはなりましたが、「主殺し」という汚名を負い滅ぼされました。

 

光秀も信長も、それまでの英邁さがウソのように消え、自ずから命を縮めたといえます。

 

 

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ひとこと

 

毎日のニュースで、

「あの人が、あんな事するなんて!」

と思うこがよくあります。

 

また、自分でも何でこんなことしたんだろう、と思うこともよくあります。

 

人間は、みな似たようなもんですね。焦りと油断は禁物です(●^□^●)

 

戦で負けた徳川家康は、逃げながら脱糞した!?

 

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戦国武将のなかでも、逃げながらウンコをもらしたのは徳川家康ぐらいなものでしょう。

 

「三方ヶ原の戦い」で武田信玄の軍に大敗して、逃走中に馬に乗りながら脱糞してしまったのです。それほどの恐怖だったのです。

 

家来に指摘された家康は、

「これは腰につけてた焼き味噌じゃ!」

と言い訳しましたが、においでバレました。

 

ずいぶん不名誉なエピソードをもつ家康ですが、それでも後に天下をとり、江戸時代265年間の礎を築いた英傑です。このときの経験が家康を大きく成長させました。

 

 

どうしてバレたのか?

 

でも、どうして、もらしたことがバレたのか不思議です。馬の鞍にウンコがあったのですが、袴(はかま)をはいているのに、どうしてそうなったのか疑問が残ります。

 

そのため、このエピソードはウソだと思っていました。武田軍に負けた家康の怯えた状況を、面白おかしくするためにできた、作り話のような気がしていました。

 

しかし、ネットを何気なく見ていたら、その疑問は氷解しました。袴(はかま)に原因があったのです。

 

戦のときにはく袴は特殊なつくりだったのです。戦場で簡単に大小ができるように特別に工夫されていました。

 

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その袴でしゃがむと股間の部分が左右に開くデザインになっていたのです。重い甲冑(かっちゅう)を着用したままでも大小ができます。

 

この袴なら、家康が馬の鞍の上にウンコを置き去りにできたことが、納得できます。

 

 

「空城の計」で武田軍を撃退

 

もらしたことがバレた後、冷静さを取り戻した家康は、家来にテキパキと指示します。このとき有名な「空城の計」で、武田軍を撃退しました。

 

城の門を開けっ放して、昼間のようにタイマツを燃やします。太鼓をドンドン叩いて、武田軍を威嚇するとともに徳川方の兵士を鼓舞させました。

 

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この計が見事に成功して、武田軍は浜松城を攻めることなく引き上げていきました。逃げてきた家来も城内に収容することができました。

 

その後、家康は、武田軍に大敗北を喫したことを反省するために、憔悴した自分の肖像画を絵師に描かせました。

 

失敗を真摯に反省する姿勢が後に天下をとらせたと共感を呼び、多くの歴史書や経済誌などでも、「三方ヶ原の戦い」のエピソードを取り上げています。

 

 

ひとこと

 

戦国の戦でのトイレについては分かりましたが、寝泊りはどうしていたのか疑問が残ります。ドラマや漫画では、そこのところが詳しく描かれたものを見たことがありません。

 

ネットで調べたら、ほとんど野宿してたとあります。雨や雪の場合はどうしていたのでしょうか。寺や神社、村の家に泊まることもあったでしょうが、何万もの兵士の場合、とても足らないでしょう。

 

現在のようなテントもないでしょう。暇なときに調べてみます。

 

(●^U^●)

  

古墳時代についての歴史は、大部分が消失されたのか?

 

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古墳時代は、どんな時代だったのでしょうか。前方後円墳や埴輪がたくさん作られ、のんびりしたイメージがあります。

 

しかし、古墳時代は戦乱が非常に多かったと、あるテレビ番組で解説していました。激しい戦乱のため、当時の書物の多くが焼かれ、歴史資料がほとんど残っていないとのこと。

 

なので古墳時代の歴史は謎が多いそうです。

 

番組名は忘れましたが、このテレビ番組の説明はウソくさいです。戦国時代もメチャクチャ戦が多かったのに、かなり歴史資料が残っているではないですか!

 

「おんな城主 直虎」のような小さな豪族でも、NHK大河ドラマで放映されるほど歴史資料が残っているのです。

 

やはりウソくさい!

 

 

歴史とは、ほとんど勝者が記録した歴史である

 

古代の歴史記録も、勝者によって都合よく改ざんされた可能性があります。都合の悪いことが書かれた書物は、焼かれたりしていたかもしれません。

 

では、そんな自分勝手なことをした「勝者」とは誰でしょうか。

この本に書かれていました・・・・

 

 

 

藤原氏です。藤原氏が古代の歴史を改ざんして、自分たちが権力を握り栄華を極めようとした、とあります。

 

藤原氏の祖である中臣鎌足(藤原鎌足)は、謎だらけの人物です。

 

この本の中では、中臣鎌足は古代朝鮮半島・百済の王子、扶余豊璋ではないか、と推測されています。扶余豊璋は、日本に子供のころから人質として住んでいたので、日本語はペラペラです。

 

白村江の戦いの後、日本にもどり中臣鎌足と名を変え、天智天皇の側近として活躍したとのこと。

 

後に中臣鎌足は、藤原氏の姓を天智天皇から授けられます。鎌足の息子である藤原不比等は、天皇の外戚になろうと暗躍します。

 

 

権力を握るため歴史を改ざんしたのか?

 

藤原不比等は、娘の宮子を文武天皇の妃として嫁がせました。宮子の生んだ男の子が、後の聖武天皇である首(おびと)皇子です。

 

不比等は、これで天皇の祖父なれると、大喜びしました。実際にそうなりました。

 

しかし、宮子の子を天皇にするためには、藤原氏の祖先が百済の王族ということを隠しておかねばなりません。

 

そうでなければ、百済王族の子孫を理由に、敵対勢力から激しい攻撃を受けます。首皇子を天皇にすることが難しくなります。

 

そこで、藤原氏が百済の王族の末裔であることを隠すため、当時の本当の歴史資料を燃やしたり、改ざんした、とも言われているのです。

 

これが古墳時代の歴史資料が少ない理由のひとつなのかも・・・・?

 

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平安時代初期には、ほとんどのそれら歴史資料が焼き払われたそうです。

 

また、敵対する新羅に対しても、朝鮮半島で敗北した百済王族の末裔であることを隠したかったのかもしれません。

 

中臣鎌足が本当に百済王族の末裔なのかどうか、明確な証拠はありませんが、そのように考えるとすごく面白いです\(^○^)/

 

 

ひとこと

 

歴史の改ざんが事実だとしたら、褒められたことではありませんが、それによって国の体制を固めることができ、新しい日本が生まれたのかもしれませんね。

(○●^▽^●○)

 

剣豪・千葉周作の道場は江戸で一番人気だった!?

 

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幕末の剣豪である千葉周作は、北辰一刀流を創始して江戸で一番の門弟を誇る道場・玄武舘を開きました。

 

玄武館は、神田お玉ヶ池にありました。現在の東京都千代田区岩本町2丁目あたりで、JR秋葉原駅にも近いです。門弟の数3,600余人ともいわれています。

 

なぜ、玄武館が江戸で一番の道場になれたのでしょうか。それは、教え方がわかりやすく、早く上達できる道場との定評があったからです。

 

他の流派では3年かかる修行が1年で取得できると言われました。修行期間も短いため、道場に支払う費用も安く押さえられます。

 

大道場主の千葉周作が自ずから、直接、手取り足取り指導することも人気のひとつでした。

 

 

実践では役に立たない剣術を教える道場もあった?

 

江戸時代、江戸には200以上の道場があったといわれています。

 

江戸時代は平和な時代が続いたため、武術が一時期、衰退します。しかし、江戸後期、異国からの干渉や尊王攘夷の気運が高まり、武術の必要性が求められるようになりました。

 

剣術も、武士に不可欠なものとして、ふたたび注目されます。全国諸藩の武士が集まる江戸では、剣術道場が増えました。

 

しかし、金儲け主義のあやしい道場もありました。門弟に必要以上の形稽古をさせたり、竹刀でポンポンと適当に打ち合いをさせる道場もありました。

 

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竹刀は、刀より長くて軽いものが多いので、実践では調子が狂うことが多かったのです。刀で相手を切ったと思ったら、はるか手前で地面を切りつけたりします。

 

相手の股の間に足を踏み入れるぐらいに近づかなければ、刀が届かないことが多いのです。実践では、道場で習った細かい技は役に立たない場合も多く、初心者はメチャクチャ打ちになるそうです。

 

井伊直弼が暗殺された桜田門の変では、実践をほとんど経験していない者同士の切り合いのせいか、単純な左右の袈裟切りが多かったと言われています。

 

 

効率的な剣術稽古を考案した千葉周作

 

千葉周作は、江戸の一刀流中西道場の高弟である浅利又七郎義信の婿養子でした。

 

浅利は、小浜藩酒井家の剣術師範で道場も持っていました。婿養子の周作が継ぎました。そのまま道場を経営していれば、裕福で何不自由のない暮らしが続いたことでしょう。

 

しかし、周作は、門弟への指導方法で、養父の浅利と対立します。

 

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当時の剣術は、形稽古が約八段階ありましたが、周作は、これを簡素化して三段階にしようとしたり、いろいろ改良を試みたのです。これに養父の浅利は、断固として反対します。

 

結局、周作は浅利と縁を切り、独立して北辰一刀流を創始します。さまざまな苦難の末、北辰一刀流を創始して、後に江戸で一番の門弟数を誇る玄武舘を開いたのでした。

 

 

ひとこと

 

効率的で丁寧な指導をする剣術道場の経営で、千葉周作は利益を得たとも考えられます。しかし、養父の浅利又七郎との対立をみると、儲け主義ではなかったようです。

 

周作は、早く修得できる実践的な稽古によって、多くの優れた剣術家を育てたいと考えていたのでしょう。

 

その証拠に玄武舘は、門弟数が江戸で一番になっただけでなく、幕末に活躍した剣豪や志士も多く輩出しました。

(●^□^●)

 

参考:ウィキペディア「千葉周作」

 

 

 

信玄は孫子が好きだった?

 

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武田信玄は、戦国武将ランキング第5位ではありますが、昔から小説やドラマで人気がありました。

 

「また武田信玄か・・・」

と思うぐらいマンガや雑誌などで読んだ記憶があります。

 

参考:NAVERまとめ「男の血が騒ぐ」戦国武将ランキング

 

 

武田信玄は、物語化しやすい人物だった?

 

現在では織田信長の小説やドラマは多いですが、以前は武田信玄のほうが人気があったようです。

 

しかし、上杉謙信を主人公にした小説やドラマは、昔も今も少ないです。理由は、上杉謙信という人物が真面目すぎて物語にしにくいからだそうです。

 

武将としては人気はありますが、物語を制作する側からは人気がないようです。

 

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逆に武田信玄は、物語を制作する側の人から人気があるようです。人をだましたり裏切ったりする起伏に富んだ生き方が、物語として作りやすいそうです。

 

上杉謙信と比べると武田信玄は、かなり複雑な人生を送った感じがします。

 

自分の親を追放したり、長男の命を奪ったりしました。妹婿の諏訪頼重を謀略で殺害し、領土を奪ったりしました。

 

 

孫子の兵法に忠実だった武田信玄

 

風林火山の旗は、武田軍のシンボルとして有名です。古代中国・呉の兵法家が記した兵法書「孫子」の一説です。

 

孫子の一説を旗印にするぐらいですから、武田信玄は孫子兵法に傾倒していたことがわかります。

 

孫子の兵法では、戦に勝つための方法が記されています。ほとんどが原則論で方法論はわずかです。原則論が主なため、現在でも戦争やビジネスで通用する書として、世界中の著名人からも今でも愛読されています。

 

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戦いのための書物ではありますが、戦とは所詮、国家運営の一部であり、できるだけ戦は避けるべきだと説かれています。

 

戦を行えば、膨大な費用と人命が損なわれます。可能な限り戦を避けるか、戦による損失を最小限に抑えることが大事なわけです。

 

そう考えると、一見、卑怯にみえる戦い方や上杉謙信に対する逃げ腰の姿勢も、孫子の兵法の教えに従った方法なのかもしれません・・・・?

 

孫子の兵法のなかに、「戦とは騙し合いである」とか「強い敵とは戦わない」など説かれた一説もあります。とにかく無理をしないで柔軟に戦うことの大切さが強調されています。

 

上杉謙信には押され気味の武田信玄ではありましたが、孫子の兵法を元にした戦略で、決定的な敗北は受けませんでした。上杉謙信が雪で動けない時期に領土を取り返したり、北条、今川、織田、本願寺と同盟を結び、対抗しました。

 

そのおかげで、上杉謙信から領土を侵略されることもなく、武田家の領地を守ることができたのです\(^○^)/

 

 

ひとこと

 

信玄が亡くなった後、跡を継いだ武田勝頼は、信玄とは逆に無理な戦ばかりしていました。孫子の兵法にも逆らうような戦い方です。

 

信玄と勝頼の領国経営のやり方を比較すると、いかに孫子の兵法の教えを守ることの大切さがわかります(●^□^●)

 

戦国武将ランキング第3位の上杉謙信は、なぜ強かったのか?

 

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戦国時代、平地での戦なら上杉謙信が最強といってもいいでしょう。武田や北条、織田の軍も上杉謙信には適いませんでした。

 

謙信の勝率は約6割程度で、約4割が引き分けといわれております。4割が引き分けといっても、相手がビビッて城や陣地にこもったためなのです。

 

ですから、引き分けでも判定勝ちのようなものです。平地での戦なら、圧倒的な強さをみせます。

 

「8千の兵がいれば、天下の兵を相手にできる・・・」
というようなことを、謙信は豪語してます。
8千人の兵がいれば、敵がどんなに大軍でも勝てる、と言っていたわけです。たいへんな自信です。

 

後に、謙信が8千の兵を率いてやってくると、毘沙門天の旗を見ただけで、敵は逃げ去るようになりました。どんなに兵数で上回っていても、白兵戦では勝ち目がないため、城か陣にとじこもってしまうのです。あるいは謙信の軍門に下ります。

 

では、なぜ上杉謙信は平地での戦に強かったのでしょうか・・・?

 

参考:NAVERまとめ「男の血が騒ぐ」戦国武将ランキング

 

 

謙信は、少年のころから戦の経験が豊富だった?

 

謙信は1530年2月18日、越後(新潟)で誕生しました。幼名を長尾虎千代、元服名は長尾喜平次景虎です。謙信が13才のとき、父の長尾為景が亡くりました。その後、謙信は、家督を継いだ兄・晴影と敵対するようになりました。

 

謙信(景虎)は、10代前半の少年にもかかわらず、戦で何度も手柄をたて家臣から信望を集めます。その弟に嫉妬した兄・晴影は、謙信を倒そうとします。しかし、謙信は兄・晴影に勝ち、長尾家の当主になります。

 

つまり、謙信は10代の初めごろから、戦を豊富に経験していたのです。父親の下で守られながら戦を経験したのとは訳が違います。いつ命が消えてもおかしくない地獄のような修羅場を何度も経験していたのです。

 

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自分より何倍も年上の家来を率いて戦にのぞみました。家来を信服させ戦に勝つには、自分が常に先頭に立つ必要があったことでしょう。

 

その少年のころから鍛えられた戦の経験が、謙信を強くさせたのだと考えられます。

 

 

謙信は、乱戦が得意だった?

 

通常、戦では謙信のような大将は、後方の本陣で指揮をとるのが普通でした。ところが、謙信は常に敵の本陣に迫る勢いで前方にいたのです。

 

少人数の軍なら大将が真っ先に突撃して、士気を高めるということはありますが、数千から万を超す軍で大将がそれを行う例はほとんどありません。上杉謙信ぐらいなものです。

 

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武田信玄や北条氏康などの戦名人も、これには面食らいました。戦が始まると、本陣めがけて突進してくる上杉軍に恐怖を感じました。

 

敵の右側面や本陣をいきなり攻める戦法は、効果的ですがリスクも高いです。だから、通常、この方法を用いる武将はほとんどいません。

 

逆に上杉謙信は、この乱戦に持ち込む戦法を何度も経験しているので、有利です。ノウハウも蓄積されています。他の武将と圧倒的な差が生まれるのです。

 

 

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ひとこと

 

戦国時代は、軍の右側面攻撃を受けると、とても不利でした。槍や刀を右方面の敵に突いたり切るつけるのが不便なためです。

 

上杉謙信は、敵の正面を迂回して、右側面に向かって突撃するので、車輪がまわっているように見えます。そこから謙信の戦法が「車懸かりの陣」とよばれました。

 

実際は、謙信の強さや車懸かりの陣について、いろいろな説があります。どれが本当かわかりません。

 

私が思ったことを、部分的に簡単にまとめてみました(●^□^●)

 

おんな城主 直虎の先祖は、後醍醐天皇の味方だった?

 

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大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎の先祖は、後醍醐天皇と深い関わりがありました。

 

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒したことで有名です。

 

しかし、討幕軍の武将の一人、足利尊氏に反旗を翻されました。都を追われた後醍醐天皇は、奈良の吉野に南朝政権を打ち立てます。

 

足利尊氏は新しい天皇(北朝)を京都に立て、足利幕府を開き、着々と勢力を広げました。

 

足利尊氏に対抗するため、後醍醐天皇は、自分の息子たちを全国に派遣して、勢力を挽回しようとはかります。その中のひとつに井伊家が支配する井伊谷がありました。

 

後醍醐天皇の息子の一人、第四皇子の宗良親王を井伊谷へ送りました。井伊家の第12代当主の道政は、宗良親王を大歓迎。後醍醐天皇は井伊谷を、倒幕のための南朝の核にしようと目論んだのです。

 

もともと井伊谷は、南朝方の荘園が多かったこともあり、井伊家も南朝方に入ったわけです。

 

足利尊氏はそのことを知り、足利一族の今川範国を遠江に送り込み、井伊家の勢力拡大を抑えようとしました。

 

ここから、井伊家と今川家の対立が始まったのです。しかし、駿河の名門・今川家には適わず、やがて井伊家は今川家の傘下に入りました。

 

ドラマ第1回は、井伊谷が今川家に治められて間もないころの話です。

 

 

後醍醐天皇は朱子学に影響された?

 

江戸時代、徳川幕府が朱子学を推奨して、全国の諸藩にも朱子学が広まりました。後に広まった武士道も、朱子学の影響を大きく受けているといわれています。

 

朱子学は、中国・南宋王朝の朱熹(しゅき)によって創始された儒教の新しい学問体系です。

 

日本に伝わったのは、鎌倉幕府が国を治めていた鎌倉時代の終わりごろです。後醍醐天皇は、朱子学を夢中になって読み漁りました。

 

(そうだ。そのとりだ!この国の主は武士ではなく、天皇だ!)

というふうに、いたく感銘をうけたのです。

 

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朱子学には「尊王賎覇」や「尊王攘夷」が記されており、天皇が国政を担う正当性が説かれていました。

 

後醍醐天皇は、皇位継承なども含めて幕府の干渉を受けることに嫌気がさしていました。

 

朱子学で説かれた教えが大きな起爆剤となり、後醍醐天皇を倒幕へと向かわせたのです。

 

 

武士から反感を買った後醍醐天皇

 

その後、後醍醐天皇は、鎌倉幕府を滅亡させることに成功しました。150年ぶりに政権が京都に戻ったのです。元号を「建武」としました。後醍醐天皇の行った政治を「建武の新政」とよびます。

 

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建武とは、古代中国・新王朝から政権を奪い返した後漢が、漢王朝を復興させたときに使った年号でもあります。後醍醐天皇の思いがこもった年号ですね。

 

しかし、武士に対する領地の扱いで、後醍醐天皇は猛反発され、窮地に陥ります。後醍醐天皇の親しい人間が出世して、鎌倉幕府討滅に功のあった者も含め、武士を冷遇したからです。

 

大混乱が起こります。それに乗じて足利尊氏が後醍醐天皇の新政権を倒し、足利幕府を開きます。

 

ふたたび武士の世にもどってしまったわけですね。朱子学の「尊王賎覇」や「尊王攘夷」の教えどおりにはなりませんでした(´Д`;)

 

 

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ひとこと

 

井伊家と今川家が敵対したのは、後醍醐天皇と足利尊氏の対立に遠因があったといえます。

 

幕末、安政の大獄が起こります。井伊家の子孫、大老の井伊直弼が行なった尊王攘夷派に対する弾圧です。

 

そして、井伊直弼は桜田門の変で、尊王攘夷派の水戸と薩摩の浪士に討たれますが、不思議な因縁を感じますね(●^□^●)

 

則天武后はメチャクチャ古代日本に影響を与えた?

 

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天皇(てんのう)の称号が成立した時期と理由は諸説ありますが、唐の則天武后(624年-705年)から影響を受けた説も有力です。

 

則天武后(そくてんぶこう)は、中国史上で唯一の女帝です。皇后でありながら実権を握り、後に唐王朝を廃し周王朝を建国したバイタリティーあふれた女性です。

 

則天武后は、夫であり皇帝の高宗の称号を、皇帝から天皇、皇后の自分を天后に改めさせました。

 

これは、皇后である則天武后が権力を握りたいための称号改変といわれています。

 

天后は皇后と違い、国政にも深く介入できる・・・とかの理屈をつけ実際に則天武后は実権を得ました。

 

 

唐の天皇の呼称が日本にも影響を与えた?

 

この時期の日本は、朝鮮半島の白村江で唐・新羅との戦いに敗れ、意気消沈していた頃です。また、いつ唐・新羅に日本が攻め込まれるかと、戦々恐々としていました。

 

唐・新羅に対抗するためには、日本が君主の元に一致団結しなければなりません。

 

そこで、大王、あるいは天王と呼ばれていた日本の君主の称号を、天皇に改めたのです。そのときの天皇が天武天皇(672年 - 686年)です。

 

時期も重なるため、唐の天皇の呼称が日本にも影響を与えたといわれています。

 

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その他にも推古天皇(593年-628)の時代、聖徳太子が隋の煬帝に宛てた「日出づる処の天子、書を日没する 処の天子に致す・・・」の書簡から、この時代に既に天子の称号をつかっていた説もありますが、詳しいことはわかりません?

 

天武天皇が最初に天皇の称号を用いた説が、具体的でわかりやすいですね。

 

 

日本の国分僧尼寺も則天武后の影響?

 

則天武后は、唐(周)の全国諸州の各地に大雲経寺という官寺を設けました。大雲経を納めさせ、その教えを広めたのです。

 

大雲経は、則天武后が弥勒菩薩の生まれ変わりである、と説いた教えだそうです。自分の権力を強化するためにつくった教えみたいですね。

 

日本の国分寺は、唐の大雲経寺に影響されて設けられたといわれています。当時、日本の各国(地域)に国分僧寺と国分尼寺が、官寺として建てられました。

 

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聖武天皇の詔により、国分寺が全国に建てられたのですが、則天武后の建てた大雲経寺のように、国や君主の権威を主に高めるだけが目的ではありませんでした。

 

国分僧寺には金光明最勝王経を納め、国分尼寺には法華経を納めました。いずれも釈迦の説いた仏教経典です。則天武后が大雲経寺に納めさせた、ウソくさい大雲経とは訳が違います。

 

国分僧寺と国分尼寺は、仏教の教えで日本国を守るために建てられた官寺なのでした。

 

その点で日本は唐より、優れていたのかもしれませんね・・・?(〃^∇^)

 

 

ひとこと

 

則天武后のガンバリにより、百済や高句麗が滅び、それらの沢山の人々が日本に逃げてきました。

 

百済や高句麗の人たちの優れた知識や技術も一緒に伝わり、さまざまなところで貢献しました。

 

やはり則天武后は、良いも悪いもメチャクチャ古代日本に影響を与えた女傑です。

(●´∀`●)

 

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秀吉は、信長のマネが一番うまかった?

 

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戦国武将ランキングで昔は織田信長より、はるか上位にあった豊臣秀吉でしたが、現在では常に信長の下位にあるようです。

 

それは当然かもしれません。なぜならば、秀吉は信長の家臣でもあり弟子でもあったからです。

 

天下はとりましたが、師の信長を越えるような発想や革新性はありません。信長が築いた土台の上で天下をとったという感じです。戦国武将ランキングで信長の下位になるのが自然でしょう。

 

それでも秀吉は、信長の家臣の中で一番、信長を理解(マネ)して実践に生かした武将といえます。

 

参考:NAVERまとめ「男の血が騒ぐ」戦国武将ランキング

 

 

信長は敵地の農民に金を払って食料を調達!

 

信長の革新的な戦術・戦略は数え切れないのですが、なかでも興味深いのが、戦のとき敵の領土での略奪や暴行を禁止したことです。

 

これは、一見、地味な戦略に見えますが、当時の日本で実行したのは信長だけでした。

 

武田信玄や上杉謙信なども、戦で敵の領土に入ったら、略奪や暴行は当然のように行っていました。略奪や暴行が楽しみで戦に参加する兵士が多かったのです。当時は、それがどこでも当たり前でした。

 

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だから、攻められる側の農民は、敵の兵が来ると逃げてしまいます。食料も一緒に持って、一目散に逃げます。

 

しかし、信長は、敵の領土で略奪は行わず、農民にお金を払って食料を調達していました。後々、この戦略が信長軍の大きな利益となって返ってきます。

 

そして、その信長の戦略を最大限に利用して、天下とりの足がかりを築いたのが秀吉です。

 

 

「暴行と略奪の禁止」戦略が功を奏した中国攻め

 

秀吉の有名な高松城の水攻めですが、膨大な数の俵が必要でした。しかし、秀吉は驚くほどの短期間で、高松城の周囲を俵の土手で囲み、水攻めに成功します。

 

城主の清水宗治は、水攻めで作られた池に浮かべた船上で、切腹して果てます。

 

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俵は、付近の農民を主に使って築かせました。1俵を相場の3倍のお金を払って築かせたのです。といっても現金払いではなく、書付(かきつけ)で払っていました。

 

これは驚くべきことです。兵士の略奪が当たり前の戦国の世で、農民は逃げるどころか、書付を信用して一所懸命に秀吉軍の手伝いをしているのです。

 

織田信長の戦略が秀吉の主戦場、中国方面でも功を奏していたわけです。秀吉は、敵地の農民や商人の信用を得て、味方につけることに成功していたのです。

 

 

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ひとこと

 

高松城を水攻めにしている最中に、本能寺で信長が横死します。その知らせを毛利陣営に伝えようとする密使が、誤って秀吉の陣中に迷い込んでしまいます。

 

偶然のように見えますが、これも秀吉が敵地の農民を大事にしたのが原因ではないでしょうか。

 

地元の人間しか知らないような獣道(けものみち)まで秀吉方に教え、そこに見張りを置き、密使が毛利陣営に入り込む隙を与えなかったとも考えられます。

 

そして、「暴行と略奪の禁止」戦略によって、敵地の農民を味方につけた秀吉は、明智光秀の討滅に成功するのです(●^д^●)