桓武天皇は、平安時代初頭の天皇です。奈良から京都へ都を移したことでも有名です。
また、日本の天台宗の開祖である最澄を支援して、比叡山延暦寺を建立させました。なにかと話題の多い天皇ですが、あまり知られていないのが軍隊の縮小です。
朝鮮半島・白村江の戦の後、唐・新羅の侵攻に備え、朝廷は軍隊を強化していました。
しかし、平安時代に入ると、唐との国交が開かれ、侵攻される危険がなくなりました。唐・新羅からの防衛のために組織された防人(さきもり)をはじめ、朝廷に属する軍隊が縮小されはじめたのです。
財政難で軍を維持するのが難しくなった
侵攻の危険がなくなっただけが軍隊縮小の理由ではありません。財政的にも軍隊を保つのが厳しくなっていたのです。
奈良時代に始まった律令制度が上手く機能せず、税収が増えないことも理由のひとつでした。
律令制度下で、農民は重い税負担に耐えられず、浮浪や逃亡する者が後を絶たちませんでした。勝手に僧になって税の負担義務がら逃げる農民も少なくありません。
朝廷は徴税が困難になり、軍隊を維持する費用が十分に賄えなくなってきたのです。
また、寄進地形荘園が増え、朝廷でなく貴族のほうに多く年貢が徴収されたり、国司など地方の役人の横領なども原因です。
軍隊が縮小した後、検非違使という官人が京都の治安維持を担当しました。
武士を下請けの軍隊にしていた
そして後に朝廷は、軍隊を、ほとんど持たなくなりました。武力が必要な事態になると、武士に命令して対応していました。
武士とは、皇族から臣籍降下(しんせきこうか)して、武装した源氏や平家です。地方に土着して、武力で土地を支配した源氏や平家もいました。
このほか地方の貴族や豪族、有力農民が武装して、武士と呼ばれるようになりました。
つまり朝廷は、これらの武士を下請けみたいに使って治安維持に当たらせていたのです。
武士も一応、天皇の臣下ではありましたが、独立性が強い存在でした。
そのため、武士同士の争いも多かったのです。これは朝廷の力が十分に及んでいない証拠でもあります。
朝廷の権威と、武士の武力
平将門や平忠常の乱を平定したときも、坂東(関東)の武士の武力で鎮圧しました。
武士のほうでは、朝廷の権威を借りられるので、素直に朝廷の命令にしたがっていました。
手柄をたてれば恩賞を朝廷からもらえます。近隣の武士同士の争いでも朝廷の権威を得られるほうが有利です。
朝廷と武士は、持ちつ持たれつの関係だったのです。
これは島国の日本だから可能だったのでしょう。中国や朝鮮だったら、たちまち周辺の異民族から侵略を受けてしまいます。
実際に中国や朝鮮で、王朝が軍隊を持たないということは有り得ませんでした。日本だけの特殊な構造です。
ひとこと
平安時代末期、朝廷は武士に政権を奪われてしまいました。
朝廷の権威と武士の武力のバランスがくずれ、それ以降、江戸末期まで武士が政権を担うようになったのです(●^U^●)