織田信長は、なんでも自分ひとりで決断して実行するというイメージがあります。参謀とか相談役が存在していたのかどうかは不明です。
これは信長は日記とか自分の考えを書物に残さなかったことが原因ですが、師とする人物がいたことは確かです。
ポルトガルの宣教師から西洋の進んだ文明を教えられ、信長は驚嘆しました。信長が自ずから豪華な食事を宣教師の前に運ぶほど、尊敬の念を表しました。
茶道の師である千利休に対しては、信長は弟子という立場で接していました。
大名の嫡子であった信長は、幼少より「若様」と敬われ恐れられていたので、千利休にズケズケと説教されることに、新鮮な喜びを感じていたようです。
これらのことから、気性の激しい性格の信長ですが、優れた人物に対しては粗暴ではなく、たいへん尊重していたことがわかります。
少年時代の師は、沢彦宗恩
信長の幼名は、吉法師(きっぽうし)です。「信長」の元服名の名付け親が沢彦宗恩(たくげん そうおん)です。
沢彦宗恩は、臨済宗妙心寺派の僧です。織田信秀の重臣・平手政秀の依頼により、信長の教育係りになりました。
信長が斎藤氏から美濃を奪ったとき、「井口」とか「稲葉山城」とよばれていた地名を、沢彦の助言を得て「岐阜」と改名しました。そして「天下布武」の印も沢彦の進言によるものとされています。
重要な名称の命名の多くに沢彦の進言があることから、信長は沢彦を師として相当に大切にしていたことが推測されます。
父の信秀が亡くなり、葬儀のときに信長は、抹香を信秀の位牌に投げつけましたが、これも沢彦の進言によって実行したといわれています。
兵法オタクだった信長
信長は幼少のころより勉学が嫌いでした。凌雲寺(りょううんじ)で手習いをしていたときも、よく抜け出して近所の子供と遊びまわっていました。
しかし、一端、物事に興味を抱くと夢中になる性格でした。ある時期から兵法に興味を持ち、さらに国の運営にまで興味の幅が広がったのです。
遊びでも戦ごっこに熱中しました。信長なりに工夫した武器や戦法を実際に戦ごっこで試しては、子供たちと一緒に楽しんでいました。
そうなると、孫子などの兵法書や宋学、歴史にも興味を持ち、父の信秀や沢彦宗恩から熱心に学ぶようになったと考えられます。
比叡山延暦寺焼き討ちの有無を言わさない決断力や、天皇へ対する確固とした態度をくずさない信長の信念は、少年時代の学問によって培われたのではないでしょうか。
ひとこと
信長の少年時代を描いた短編小説を少し修正して再出版しました。
友人と一緒につくった小説なのですが、正直いって「ヘタウマ小説」です。文字数は2万字弱ぐらいです。
ペンネームは、歴史小説家・司馬遼太郎さんの名前と「ヘタウマ」を混ぜて、「辺田馬太郎」にしました。出版社名は、このブログのID名でもある「みずえBook」です。
アマゾンで販売中ですので、もし、お時間がありましたら、よろしくお願いいたします(^■^*)
▼Amazonのkindleunlimitedで販売中!