戦国の末期、天下分け目の戦が関が原で勃発しました。徳川家康が引きうる東軍の勝利に終わります。負けた西軍の将である石田三成は、捕らえられ処刑されました。
小説などで当時の状況などを知るにつけ、石田三成が徳川家康に誘いこまれて負けた、という感じです。三成は家康の誘いにのらず、時節を待てば勝つことができたかもしれません。
この戦いは、まさに後の先をとったほうが勝つ見込みの高い戦でした。剣術では、実力が伯仲している場合、先に切りかかった方が不利です。
相手の攻撃を見切って受け流し、隙のでたところを撃って勝つのです。だから、いかに相手に先に手を出させるかが勝敗の分れ目になります。
戦でも同じです。とくに鉄砲が主力になった戦国時代後期は、先に攻撃すると鉄砲の餌食になるだけです。そのため、野戦でも互いに睨み合いになることが多かったのです。
そのため、先に相手に攻撃させるため、互いにあの手この手を尽くします。
日本史上で最大規模の誘導作戦
誘導作戦で有名なのが第4次川中島の戦いで、妻女山に陣を敷き、自ずからを囮にした上杉謙信の作戦です。そして、武田信玄の三方ヶ原での戦、徳川家康の小牧・長久手の戦いがあります。
いずれの戦でも先に攻めた方が負けています。兵力差に圧倒的に差がなければ、先に攻めるのは、やはり不利なのです。家康は、数々の修羅場から得た経験によってそのことを熟知していました。
当時の家康は、関東8カ国の254万石を領有して、日本全国の約10分の1ほどの石高と八万の兵を動因できる実力がありました。
しかし、婚姻作戦などによって味方を増やせても、上方の全兵力を敵にまわしたら、とても勝ち目はありません。
そこで誘導作戦です。家康は上杉討伐のため上方を留守にして、三成に先に攻撃させ、後の先で勝つ作戦を実行しました。狙いは見事に当たり、関が原で家康の東軍は勝利を収めることができたのです。
武田信玄の誘導作戦に敗れて、ウンコをもらしながら逃げた家康でしたが、日本史上最大規模の誘導作戦で西軍に勝利したわけです。
三成は誘導作戦にのらなければ、負けはしなかったかも?
もし、仮に三成が家康の誘導作戦にのらず、挙兵しなかったらどうなっていたでしょうか。おそらく家康の天下は遠のいたことでしょう。
「石田三成を撃つ」という大儀名分がなければ、豊臣恩顧の大名を味方につけることもできず、兵の数で圧倒的に不利だからです。
しかし、三成にものんびりしている時間はありませんでした。家康だけでなく、敵対する豊臣恩顧の大名との戦が避けられなかったからです。
三成としては、家康を撃ち、福島正則や加藤清正、黒田長政など敵対する豊臣恩顧の大名も滅ぼしたいと考えていたようです。
その焦りが家康の誘導作戦にやられてしまった原因のひとつかもしれません。
スポンサードリンク(アマゾン電子書籍)
ひとこと
天下分け目の関が原の戦は、我慢比べで三成が家康に負けた、という感じもします。
幼少から苦労を重ねた家康は、我慢に我慢を重ねて勝機をつかむ能力が、群を抜いていましたね( ●`▽´● )