奈良時代、当時の仏教界では、勝手に僧になる者が多く、朝廷は手を焼いていました。
当時、律令制度の過酷な税負担に耐えられず、与えられた口分田から逃げ、勝手に僧(私度僧)になる農民が後を絶たなかったのです。僧になれば税の負担がなくなるからです。
そして行基が中心となり、私度僧が集って治水、架橋、貧民救済活動がおこなわました。
朝廷は、これでは税金が減ってしまって困ります。当然、私度僧に対する弾圧を行いました。
しかし、私度僧といっても僧であることには変わりありません。通常の罪人のように罰するわけにはいきません。
僧尼令違反を理由に中心者の行基を処分しましたが、大勢の私度僧を処分するには限界があります。
そこで、唐から位の高い僧を招き、正式に僧になるための儀式である「受戒」を行おうとしたのです。正式な「受戒」を授けられない者は僧として認めないことにしました。
そのため、たいへんな費用とリスクの伴う唐からの「受戒師」の招聘に力を入れたのです。
何度も失敗して6度目の渡航で成功
鑑真は、唐へ渡った日本人の僧から、日本へ戒律を伝えるよう懇請されました。
しかし、弟子の中から誰一人として希望する者がおりません。しかたなく鑑真が自ずから日本へ行くことを決めたのです。
鑑真の日本への渡航は、想像もできない困難に満ちていました。当時の唐では、国外に渡ることは禁止されていました。また、唐から日本への航路は、外洋のため海が荒れ、たいへん危険です。
結局、5回失敗して、6回目に日本への渡航に成功したのです。54歳のときに第一回目の渡航に失敗して、日本への渡航が成功したときは66歳になっていました。過酷な渡航が災いして盲目となっていました。
日本へ渡航した本当の理由な何か?
しかし、なぜ鑑真は、そこまでして日本に「戒律」を伝えようとしたのでしょうか。これは明確な理由は不明のようです。
普通ならば1~2回も渡航に失敗すれば、
「やはり、無理だ!」
と言って、あきらめるとことです。
異国における仏教界の規律の乱れなど、鑑真にとって、命を懸けてまで正す必要があるのでしょうか?
これはよほど強い別の動機が存在していたようです。
鑑真は天台宗を伝えた
ただ唯一、ヒントになるものがあります。それは鑑真が唐から持ってきた「天台三大部」という天台大師の論書です。
後に最澄がこの「天台三大部」を読み感激して、比叡山延暦寺を創建する遠因となる論書です。
延暦寺が存在しなければ、後の鎌倉仏教の発展もありません。日本の天台宗から派生した浄土宗や浄土真宗、日蓮宗なども存在しなかったわけです。
当然、戦国時代、織田信長の本願寺との対立や、比叡山延暦寺き討ちもありません。
鑑真は、天台宗を伝えるために日本に渡ってきたのか、と想像してしまいます。
ひとこと
鑑真は、唐で律宗と天台宗を修行しました。
天台宗を日本に伝えたことは、あまり知られてはいませんが、ことらのほうが後の世に与えた影響は大きいみたいです。
鑑真は「戒律」を日本に伝えたことが知られていますが、天台宗も伝えたことにより、メチャクチャ日本の仏教に影響を与えたようです(●^U^●)