戦国時代、平地での戦なら上杉謙信が最強といってもいいでしょう。武田や北条、織田の軍も上杉謙信には適いませんでした。
謙信の勝率は約6割程度で、約4割が引き分けといわれております。4割が引き分けといっても、相手がビビッて城や陣地にこもったためなのです。
ですから、引き分けでも判定勝ちのようなものです。平地での戦なら、圧倒的な強さをみせます。
「8千の兵がいれば、天下の兵を相手にできる・・・」
というようなことを、謙信は豪語してます。
8千人の兵がいれば、敵がどんなに大軍でも勝てる、と言っていたわけです。たいへんな自信です。
後に、謙信が8千の兵を率いてやってくると、毘沙門天の旗を見ただけで、敵は逃げ去るようになりました。どんなに兵数で上回っていても、白兵戦では勝ち目がないため、城か陣にとじこもってしまうのです。あるいは謙信の軍門に下ります。
では、なぜ上杉謙信は平地での戦に強かったのでしょうか・・・?
謙信は、少年のころから戦の経験が豊富だった?
謙信は1530年2月18日、越後(新潟)で誕生しました。幼名を長尾虎千代、元服名は長尾喜平次景虎です。謙信が13才のとき、父の長尾為景が亡くりました。その後、謙信は、家督を継いだ兄・晴影と敵対するようになりました。
謙信(景虎)は、10代前半の少年にもかかわらず、戦で何度も手柄をたて家臣から信望を集めます。その弟に嫉妬した兄・晴影は、謙信を倒そうとします。しかし、謙信は兄・晴影に勝ち、長尾家の当主になります。
つまり、謙信は10代の初めごろから、戦を豊富に経験していたのです。父親の下で守られながら戦を経験したのとは訳が違います。いつ命が消えてもおかしくない地獄のような修羅場を何度も経験していたのです。
自分より何倍も年上の家来を率いて戦にのぞみました。家来を信服させ戦に勝つには、自分が常に先頭に立つ必要があったことでしょう。
その少年のころから鍛えられた戦の経験が、謙信を強くさせたのだと考えられます。
謙信は、乱戦が得意だった?
通常、戦では謙信のような大将は、後方の本陣で指揮をとるのが普通でした。ところが、謙信は常に敵の本陣に迫る勢いで前方にいたのです。
少人数の軍なら大将が真っ先に突撃して、士気を高めるということはありますが、数千から万を超す軍で大将がそれを行う例はほとんどありません。上杉謙信ぐらいなものです。
武田信玄や北条氏康などの戦名人も、これには面食らいました。戦が始まると、本陣めがけて突進してくる上杉軍に恐怖を感じました。
敵の右側面や本陣をいきなり攻める戦法は、効果的ですがリスクも高いです。だから、通常、この方法を用いる武将はほとんどいません。
逆に上杉謙信は、この乱戦に持ち込む戦法を何度も経験しているので、有利です。ノウハウも蓄積されています。他の武将と圧倒的な差が生まれるのです。
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ひとこと
戦国時代は、軍の右側面に攻撃を受けると、とても不利でした。槍や刀を右方面の敵に突いたり切るつけるのが不便なためです。
上杉謙信は、敵の正面を迂回して、右側面に向かって突撃するので、車輪がまわっているように見えます。そこから謙信の戦法が「車懸かりの陣」とよばれました。
実際は、謙信の強さや車懸かりの陣について、いろいろな説があります。どれが本当かわかりません。
私が思ったことを、部分的に簡単にまとめてみました(●^□^●)