明智光秀の謀反により、信長は本能寺で横死しました。あと一歩で天下統一のところまできていたのに残念です。
逆に信長の敵対勢力にとっては、たいへんな朗報であり、京の朝廷も安堵したことでしょう。
では、なぜ明智光秀は謀反を起こしたのでしょうか。冷静に物事を判断する光秀らしくない、衝動的な行為でした。
その証拠に本能寺の変の後、11日間ほどで光秀は討ち死にします。羽柴秀吉が予想をはるかに上回る早さで引き返してきたからです。
光秀は、細川藤孝や筒井順慶を見方に引き入れることに失敗しました。また、準備が整わないうちに秀吉軍と戦うことになり、光秀の軍は惨敗しました。
光秀は落ち武者狩りで農民に討ち取られてしまいます。
しかし、秀吉が光秀を討たなくても、遅かれ早かれ光秀は誰かに討たれたことは間違いありません。
逆に光秀が信長を討たなくても、信長は誰かに討たれていたか、織田家は信長一代限りで終わっていたかもしれません。
島国の日本では王朝交代が起こりにくい
世界の歴史は王朝交代の歴史であり、国家は数十年か数百年で興亡を繰り返してきました。
日本は、同じ王朝が古代から続いた世界で唯一の国です。
中国大陸でも異民族によって王朝が滅ぼされたり、逆に異民族を追い出すことによって新たな王朝が興ることが多いです。
朝鮮半島は、中国王朝の影響を受け、王朝が入れ替わったりしています。
日本は島国のため、大陸や半島のように異民族の影響を受けません。そのおかげで古代から王朝を連綿と存続させることができたのです。
鎌倉幕府や足利幕府、後の豊臣政権や徳川幕府は、国家の実権を握りましたが、あくまで「天皇の臣下」という立場は守りました。
しかし、信長はその「天皇の臣下」であることを、無視するような態度をとり始めたのです。
これには朝廷ばかりでなく、世間も騒然としました。
「信長が天下をとったら、とんでもないことになる!」
という不安がひろがりました。
信長は、日本の大部分を制覇したため、驕りがでたと言わざるを得ません。
油断と焦りが命を縮めたのか?
朝廷に対する高圧的な態度を、あと数年、控えていれば、信長は天下をとっていた可能性が極めて高いです。
信長を殺害した後の状況を正確に想像できなかった光秀は、やはり焦りすぎたのでしょうか。朝廷を助けることにはなりましたが、「主殺し」という汚名を負い滅ぼされました。
光秀も信長も、それまでの英邁さがウソのように消え、自ずから命を縮めたといえます。
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ひとこと
毎日のニュースで、
「あの人が、あんな事するなんて!」
と思うこがよくあります。
また、自分でも何でこんなことしたんだろう、と思うこともよくあります。
人間は、みな似たようなもんですね。焦りと油断は禁物です(●^□^●)