幕末の剣豪である千葉周作は、北辰一刀流を創始して江戸で一番の門弟を誇る道場・玄武舘を開きました。
玄武館は、神田お玉ヶ池にありました。現在の東京都千代田区岩本町2丁目あたりで、JR秋葉原駅にも近いです。門弟の数3,600余人ともいわれています。
なぜ、玄武館が江戸で一番の道場になれたのでしょうか。それは、教え方がわかりやすく、早く上達できる道場との定評があったからです。
他の流派では3年かかる修行が1年で取得できると言われました。修行期間も短いため、道場に支払う費用も安く押さえられます。
大道場主の千葉周作が自ずから、直接、手取り足取り指導することも人気のひとつでした。
実践では役に立たない剣術を教える道場もあった?
江戸時代、江戸には200以上の道場があったといわれています。
江戸時代は平和な時代が続いたため、武術が一時期、衰退します。しかし、江戸後期、異国からの干渉や尊王攘夷の気運が高まり、武術の必要性が求められるようになりました。
剣術も、武士に不可欠なものとして、ふたたび注目されます。全国諸藩の武士が集まる江戸では、剣術道場が増えました。
しかし、金儲け主義のあやしい道場もありました。門弟に必要以上の形稽古をさせたり、竹刀でポンポンと適当に打ち合いをさせる道場もありました。
竹刀は、刀より長くて軽いものが多いので、実践では調子が狂うことが多かったのです。刀で相手を切ったと思ったら、はるか手前で地面を切りつけたりします。
相手の股の間に足を踏み入れるぐらいに近づかなければ、刀が届かないことが多いのです。実践では、道場で習った細かい技は役に立たない場合も多く、初心者はメチャクチャ打ちになるそうです。
井伊直弼が暗殺された桜田門の変では、実践をほとんど経験していない者同士の切り合いのせいか、単純な左右の袈裟切りが多かったと言われています。
効率的な剣術稽古を考案した千葉周作
千葉周作は、江戸の一刀流中西道場の高弟である浅利又七郎義信の婿養子でした。
浅利は、小浜藩酒井家の剣術師範で道場も持っていました。婿養子の周作が継ぎました。そのまま道場を経営していれば、裕福で何不自由のない暮らしが続いたことでしょう。
しかし、周作は、門弟への指導方法で、養父の浅利と対立します。
当時の剣術は、形稽古が約八段階ありましたが、周作は、これを簡素化して三段階にしようとしたり、いろいろ改良を試みたのです。これに養父の浅利は、断固として反対します。
結局、周作は浅利と縁を切り、独立して北辰一刀流を創始します。さまざまな苦難の末、北辰一刀流を創始して、後に江戸で一番の門弟数を誇る玄武舘を開いたのでした。
ひとこと
効率的で丁寧な指導をする剣術道場の経営で、千葉周作は利益を得たとも考えられます。しかし、養父の浅利又七郎との対立をみると、儲け主義ではなかったようです。
周作は、早く修得できる実践的な稽古によって、多くの優れた剣術家を育てたいと考えていたのでしょう。
その証拠に玄武舘は、門弟数が江戸で一番になっただけでなく、幕末に活躍した剣豪や志士も多く輩出しました。
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