戦国武将ランキングで昔は織田信長より、はるか上位にあった豊臣秀吉でしたが、現在では常に信長の下位にあるようです。
それは当然かもしれません。なぜならば、秀吉は信長の家臣でもあり弟子でもあったからです。
天下はとりましたが、師の信長を越えるような発想や革新性はありません。信長が築いた土台の上で天下をとったという感じです。戦国武将ランキングで信長の下位になるのが自然でしょう。
それでも秀吉は、信長の家臣の中で一番、信長を理解(マネ)して実践に生かした武将といえます。
信長は敵地の農民に金を払って食料を調達!
信長の革新的な戦術・戦略は数え切れないのですが、なかでも興味深いのが、戦のとき敵の領土での略奪や暴行を禁止したことです。
これは、一見、地味な戦略に見えますが、当時の日本で実行したのは信長だけでした。
武田信玄や上杉謙信なども、戦で敵の領土に入ったら、略奪や暴行は当然のように行っていました。略奪や暴行が楽しみで戦に参加する兵士が多かったのです。当時は、それがどこでも当たり前でした。
だから、攻められる側の農民は、敵の兵が来ると逃げてしまいます。食料も一緒に持って、一目散に逃げます。
しかし、信長は、敵の領土で略奪は行わず、農民にお金を払って食料を調達していました。後々、この戦略が信長軍の大きな利益となって返ってきます。
そして、その信長の戦略を最大限に利用して、天下とりの足がかりを築いたのが秀吉です。
「暴行と略奪の禁止」戦略が功を奏した中国攻め
秀吉の有名な高松城の水攻めですが、膨大な数の俵が必要でした。しかし、秀吉は驚くほどの短期間で、高松城の周囲を俵の土手で囲み、水攻めに成功します。
城主の清水宗治は、水攻めで作られた池に浮かべた船上で、切腹して果てます。
俵は、付近の農民を主に使って築かせました。1俵を相場の3倍のお金を払って築かせたのです。といっても現金払いではなく、書付(かきつけ)で払っていました。
これは驚くべきことです。兵士の略奪が当たり前の戦国の世で、農民は逃げるどころか、書付を信用して一所懸命に秀吉軍の手伝いをしているのです。
織田信長の戦略が秀吉の主戦場、中国方面でも功を奏していたわけです。秀吉は、敵地の農民や商人の信用を得て、味方につけることに成功していたのです。
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ひとこと
高松城を水攻めにしている最中に、本能寺で信長が横死します。その知らせを毛利陣営に伝えようとする密使が、誤って秀吉の陣中に迷い込んでしまいます。
偶然のように見えますが、これも秀吉が敵地の農民を大事にしたのが原因ではないでしょうか。
地元の人間しか知らないような獣道(けものみち)まで秀吉方に教え、そこに見張りを置き、密使が毛利陣営に入り込む隙を与えなかったとも考えられます。
そして、「暴行と略奪の禁止」戦略によって、敵地の農民を味方につけた秀吉は、明智光秀の討滅に成功するのです(●^д^●)