戦国時代は、文字どおり戦の多い時代でした。織田信長も戦ばかりしていました。でも、好きで戦をやっていたわけではありません。
戦とは所詮、政治の一部であり、国家運営の一部である・・・・と信長は考えていたのです。
その証拠に、信長は「天下布武」の印を用いています。「武」という字は、猛々しい感じがしますが、本来は戦いを止めさせる、という意味です。
だから、戦のない平和な日本をつくる、というのが「天下布武」の本来の意味です。
天下が統一されると功臣の粛清(追放や処刑)が始まる!
天下を統一すれば、当然、戦はなくなります。平和な世がきたと喜びたいところです。
しかし、戦はなくなっても、戦闘組織はなくなりません。平和な世では無用の存在となります。それどころか反乱の温床となり、天下を脅かす存在となりえます。
つまり、戦で手柄をたてた功臣や軍が邪魔になってくるのです。
漢王朝を創建した劉邦は、天下統一の後、韓信や盧綰、英布など多くの功臣を粛清しました。明の朱元璋、中華人民共和国の毛沢東は、数百万から数千万人以上を粛清したことで知られています。
ところが信長は、この陰惨な「粛清」など、あまり考えていなかった節があります。
天下統一で停滞する戦による成長体質を、商業による成長体質に転換させようとしていたのです。
一番、可能性があるのがスペインやポルトガルなど西洋との交易です。そして、西洋の最先端の知識、技術、国家運営などを日本に輸入することを目指していたとされています。
古代日本が唐や百済から、最先端の文明を取り入れていたのと、考えていることが似ていますね。
経済成長のために独裁国家が必要だった!
惜しくも志なかばで、信長は横死します。しかし、その後、豊臣秀吉、徳川家康が天下を手中に収めますが、経済発展どころか逆行するような政策を行います。
これは簡単にいうと、秀吉や家康の天下政権は基盤が弱いため、経済の成長戦略どころではなかったのです。政権を維持するのがやっとだったのです。
強力な天下政権を築きつつあった信長と違い、秀吉と家康は、妥協だらけの軟弱な政権を運営せざるおえませんでした。
そのため、いつも国内の反乱や外国からの侵略に怯えていました。
信長が敵の降伏を許さない過激な方針をとったのも、経済成長のできる強力な天下政権を構築するために必要だったのでしょう。
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ひとこと
秀吉が朝鮮半島に出兵したのも、戦闘的成長体質を抑えることができなかったからだといわれています。また、粛清が行えるほど豊臣政権が安定していなかったことも一因です。
家康は、大河の橋を取っ払い、船は帆が一つか張れなくし、国内交通を不便にしてまで、徳川幕府を守ろうとしました。また、鎖国で貿易での経済発展の芽も摘んでしまいした。
もし、信長の強固な天下政権ならば、こんな非効率なことはやらないで、日本を西洋並みの先進国へと導いたことでしょう(●^□^●)