みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

おんな城主 直虎の先祖は、後醍醐天皇の味方だった?

 

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大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎の先祖は、後醍醐天皇と深い関わりがありました。

 

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒したことで有名です。

 

しかし、討幕軍の武将の一人、足利尊氏に反旗を翻されました。都を追われた後醍醐天皇は、奈良の吉野に南朝政権を打ち立てます。

 

足利尊氏は新しい天皇(北朝)を京都に立て、足利幕府を開き、着々と勢力を広げました。

 

足利尊氏に対抗するため、後醍醐天皇は、自分の息子たちを全国に派遣して、勢力を挽回しようとはかります。その中のひとつに井伊家が支配する井伊谷がありました。

 

後醍醐天皇の息子の一人、第四皇子の宗良親王を井伊谷へ送りました。井伊家の第12代当主の道政は、宗良親王を大歓迎。後醍醐天皇は井伊谷を、倒幕のための南朝の核にしようと目論んだのです。

 

もともと井伊谷は、南朝方の荘園が多かったこともあり、井伊家も南朝方に入ったわけです。

 

足利尊氏はそのことを知り、足利一族の今川範国を遠江に送り込み、井伊家の勢力拡大を抑えようとしました。

 

ここから、井伊家と今川家の対立が始まったのです。しかし、駿河の名門・今川家には適わず、やがて井伊家は今川家の傘下に入りました。

 

ドラマ第1回は、井伊谷が今川家に治められて間もないころの話です。

 

 

後醍醐天皇は朱子学に影響された?

 

江戸時代、徳川幕府が朱子学を推奨して、全国の諸藩にも朱子学が広まりました。後に広まった武士道も、朱子学の影響を大きく受けているといわれています。

 

朱子学は、中国・南宋王朝の朱熹(しゅき)によって創始された儒教の新しい学問体系です。

 

日本に伝わったのは、鎌倉幕府が国を治めていた鎌倉時代の終わりごろです。後醍醐天皇は、朱子学を夢中になって読み漁りました。

 

(そうだ。そのとりだ!この国の主は武士ではなく、天皇だ!)

というふうに、いたく感銘をうけたのです。

 

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朱子学には「尊王賎覇」や「尊王攘夷」が記されており、天皇が国政を担う正当性が説かれていました。

 

後醍醐天皇は、皇位継承なども含めて幕府の干渉を受けることに嫌気がさしていました。

 

朱子学で説かれた教えが大きな起爆剤となり、後醍醐天皇を倒幕へと向かわせたのです。

 

 

武士から反感を買った後醍醐天皇

 

その後、後醍醐天皇は、鎌倉幕府を滅亡させることに成功しました。150年ぶりに政権が京都に戻ったのです。元号を「建武」としました。後醍醐天皇の行った政治を「建武の新政」とよびます。

 

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建武とは、古代中国・新王朝から政権を奪い返した後漢が、漢王朝を復興させたときに使った年号でもあります。後醍醐天皇の思いがこもった年号ですね。

 

しかし、武士に対する領地の扱いで、後醍醐天皇は猛反発され、窮地に陥ります。後醍醐天皇の親しい人間が出世して、鎌倉幕府討滅に功のあった者も含め、武士を冷遇したからです。

 

大混乱が起こります。それに乗じて足利尊氏が後醍醐天皇の新政権を倒し、足利幕府を開きます。

 

ふたたび武士の世にもどってしまったわけですね。朱子学の「尊王賎覇」や「尊王攘夷」の教えどおりにはなりませんでした(´Д`;)

 

 

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ひとこと

 

井伊家と今川家が敵対したのは、後醍醐天皇と足利尊氏の対立に遠因があったといえます。

 

幕末、安政の大獄が起こります。井伊家の子孫、大老の井伊直弼が行なった尊王攘夷派に対する弾圧です。

 

そして、井伊直弼は桜田門の変で、尊王攘夷派の水戸と薩摩の浪士に討たれますが、不思議な因縁を感じますね(●^□^●)