天皇(てんのう)の称号が成立した時期と理由は諸説ありますが、唐の則天武后(624年-705年)から影響を受けた説も有力です。
則天武后(そくてんぶこう)は、中国史上で唯一の女帝です。皇后でありながら実権を握り、後に唐王朝を廃し周王朝を建国したバイタリティーあふれた女性です。
則天武后は、夫であり皇帝の高宗の称号を、皇帝から天皇、皇后の自分を天后に改めさせました。
これは、皇后である則天武后が権力を握りたいための称号改変といわれています。
天后は皇后と違い、国政にも深く介入できる・・・とかの理屈をつけ実際に則天武后は実権を得ました。
唐の天皇の呼称が日本にも影響を与えた?
この時期の日本は、朝鮮半島の白村江で唐・新羅との戦いに敗れ、意気消沈していた頃です。また、いつ唐・新羅に日本が攻め込まれるかと、戦々恐々としていました。
唐・新羅に対抗するためには、日本が君主の元に一致団結しなければなりません。
そこで、大王、あるいは天王と呼ばれていた日本の君主の称号を、天皇に改めたのです。そのときの天皇が天武天皇(672年 - 686年)です。
時期も重なるため、唐の天皇の呼称が日本にも影響を与えたといわれています。
その他にも推古天皇(593年-628)の時代、聖徳太子が隋の煬帝に宛てた「日出づる処の天子、書を日没する 処の天子に致す・・・」の書簡から、この時代に既に天子の称号をつかっていた説もありますが、詳しいことはわかりません?
天武天皇が最初に天皇の称号を用いた説が、具体的でわかりやすいですね。
日本の国分僧尼寺も則天武后の影響?
則天武后は、唐(周)の全国諸州の各地に大雲経寺という官寺を設けました。大雲経を納めさせ、その教えを広めたのです。
大雲経は、則天武后が弥勒菩薩の生まれ変わりである、と説いた教えだそうです。自分の権力を強化するためにつくった教えみたいですね。
日本の国分寺は、唐の大雲経寺に影響されて設けられたといわれています。当時、日本の各国(地域)に国分僧寺と国分尼寺が、官寺として建てられました。
聖武天皇の詔により、国分寺が全国に建てられたのですが、則天武后の建てた大雲経寺のように、国や君主の権威を主に高めるだけが目的ではありませんでした。
国分僧寺には金光明最勝王経を納め、国分尼寺には法華経を納めました。いずれも釈迦の説いた仏教経典です。則天武后が大雲経寺に納めさせた、ウソくさい大雲経とは訳が違います。
国分僧寺と国分尼寺は、仏教の教えで日本国を守るために建てられた官寺なのでした。
その点で日本は唐より、優れていたのかもしれませんね・・・?(〃^∇^)
ひとこと
則天武后のガンバリにより、百済や高句麗が滅び、それらの沢山の人々が日本に逃げてきました。
百済や高句麗の人たちの優れた知識や技術も一緒に伝わり、さまざまなところで貢献しました。
やはり則天武后は、良いも悪いもメチャクチャ古代日本に影響を与えた女傑です。
(●´∀`●)