戦国時代、大友宗麟は九州の大半を制した戦国大名です。勇猛で知られる島津氏も、ある時期まで大友氏に敵いませんでした。
大友宗麟と織田信長の共通点は、両者ともキリスト教の宣教師を大事にして、西洋の進んだ技術を積極的に取り入れたところです。
しかし、宗教に対する基本的な考えには、大きな違いがありました。その違いが宗麟と信長の運命にも現われてくるのです。
仏教寺院を破壊した宗麟
大友宗麟は、キリスト教に対する信仰心が厚かったのかどうかは不明ですが、洗礼まで受けました。洗礼を受けた後の「耳川の戦い」で大敗します。
耳川の戦いは、大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)で激戦をくりひろげた戦です。
この大敗の後、大友宗麟の勢力は急速に衰退していきます。後に臼杵城に籠城して、滅亡寸前になりますが、豊臣秀長の軍によって救われます。
大敗の原因はいろいろあります。足利義昭の工作による毛利や龍造寺氏、長宗我部氏、薩摩氏の包囲網の影響ともいわれています。
また、大勢の大友家臣団が離反という説があります。
家臣団の離反の原因の一つがキリスト教をめぐる対立です。日本に古来がら存在する仏教を信仰する家臣が、キリスト教を大切にして仏教を見限った宗麟に反発したのです。
主君の宗麟が、領内のキリスト教の布教を許し、神社仏閣の徹底的な破壊を行っています。寺院の破壊だけでなく、経典や仏像の破壊までしました。
仏教の僧にあるまじき贅沢や退廃を嫌っての破壊行為でもありますが、これには多くの家臣が憤慨したのです。
結果として、多数の家臣団の離反を招き、大友氏が衰退する大きな原因となったのです。
信長は、どの宗教の存在も認めていた
領土拡大のため、仕方なく石山本願寺門徒や延暦寺の僧兵と戦いましたが、信長は宗教そのものを否定したわけではありません。
権力に口出しさえしなければ、どの宗教も認めていました。強制的に特定の宗教の信仰を強制したり、その逆もしません。
民衆から信教の自由を奪う権力者は、民衆から支持されないと、信長は考えていたようです。
合理的に事を進める信長は、そんな非効率なことはしません。もちろん、家臣に対してもです。
むしろ、民衆が安心して自由に信仰ができる世を目指してしたのかもしれません。
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ひとこと
追い詰められた大友宗麟は、後に信長の助けを求めるようになります。
このとき信長は、日本の中央部の大半を支配していました。片や宗麟は、限りなく滅亡に近い状態でした。
権力で信仰の自由を奪った宗麟と、奪わなかった信長との差が大きく開いてしまったようですね。
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