信長が建てた安土城は、それまでの日本には存在しない、奇想天外な城でした。
城というよりも博物館か宗教施設のような雰囲気でした。戦よりも、信長の権威を高めるためるための城といえます。
しかし信長は、もともと大阪の石山に安土城のような城を建てたい、と考えていたのです。
ところが石山には、本願寺(石山本願寺)が巨大な要塞を築いて、信長に反抗していました。
なので、しかたなく信長は安土に、巨大で絢爛豪華な城を建てたのです。
天正8年(1580年)、さしもの石山本願寺も織田軍に抵抗することができなくなり、信長と和議をむすび、全員が退去しました。
いよいよ安土城をもしのぐ、異次元の城を計画していた信長ですが、まったく着手することなく本能寺で生涯を終えます。
もし、信長が生きていたら、大阪の石山にどんな城をたてたのでしょうか。秀吉や家康がたてた大阪城のような、無骨な城は建てなかったでしょう。
おそらく信長らしい斬新なアイディアで、安土城以上の城を築いたと考えられます。
西洋風の城をつくろうとしていたのか?
当然ですが、信長のまわりには優れたブレーンがいました。
そのブレーンの中には、古代、日本がどのようにして天皇のもとに統一されたのか、詳しい者もいたはずです。
もちろん、古代も武力による争いが繰りひろげられました。
ある程度、日本が統一された後は、その政権の権威づけが必要です。邪馬台国の卑弥呼のように、宗教的な権威で治めることも多かったです。
巨大な古墳も権威を見せつけるものでした。
6世紀半ば(552年)に、中国の仏教が朝鮮半島を経由して、日本へ伝えられました。仏教とともに中国のすぐれた文明もやってきました。
日本の支配者は、政権の権威を強化するために、仏教や中華文明を利用しました。巨大な大仏や建造物を、たくさん建てたりしたのです。
・・・・それじゃ、俺の場合は、キリスト教や西洋文明を利用しようかな、と信長は考えたかもしれません。
もし、そうならば、石山本願寺跡にディズニーランドのような西洋風の城を、建てたかもしれませんね\(^○^)/
信長は、何になろうとしていたのか?
信長は晩年、朝廷からの官位はすべて返上しました。朝廷から将軍職をすすめられましたが、それも断わりました。
「上様」と家臣から信長はよばれていましたが、正式な身分を表す呼び名がなかったのです。
いったい信長は、何になろうとしていたのでしょうか。西洋の皇帝を名のろうとしていたのでしょうか。
天皇と皇帝は同じような意味があるので、それも考えられません。
もしかしたらスペイン語で宰相を意味する「Primeiro ministro(発音は不明です)」を名のろうとしていたかもしれません(*´д`)??
ひとこと
明治初期、やたらと洋風建物が増えたことを考えれば、信長も似たようなことをしていた気がします(´∀`*)