以前、ペットショップでサルがカゴに入れられて販売されているのを、見たことがあります。
そのとき、晩年の豊臣秀吉を思い出しました。
天下というカゴに入れられ、苦悶する秀吉が浮かんできました。
天下をとったあたりまでの秀吉は、まさに絶好調で、自然のなかでたくましく生きる野猿のようでした。
ところが関白となった天下人から、だんだんサエない老人になっていきます。
まるで目に見えない天下というカゴが秀吉を、かんじがらめにしていたみたいです。
天下人として行き詰まりを感じていた秀吉は、人が変わったように残忍で衝動的な行為をおこないます。
何者かに「猿」と石に落書きされただけで怒り、多くの民や家来を処刑したりします。茶道の師である千利休や、甥の秀次とその家族も大勢、殺害しました。
そして無謀な明攻めで、多くの犠牲者をだしました。
ほころびだらけの秀吉の天下
なぜ、秀吉は晩年、おかしくなってしまったのでしょうか。
理由は簡単です。天下をとった後のことを考えないで、天下をとってしまったからです。
といっても、別に秀吉が好きこのんで、手抜きして天下をとったわけではありません。
信長亡き後、内外の敵に囲まれた秀吉は、「手抜き天下」をとるしかなかったのです。
そうしなければ、他の勢力に秀吉は滅ぼされていたでしょう。
とても信長が目指した強固な天下をつくることは無理だったのです。
だから、島津や毛利、上杉、徳川などに大きな領土を与えてしまいました。また、時代に逆行するような行為である、朝廷の官位である関白になってしまいました。
これでは秀吉一代限りの天下になってしまうのは、目に見えてしまいます。
急いで、棚からぼたもち天下をとったため、ほころびだらけの天下となってしまったのです。
織田信長は天下の運営にも重点を置いた
信長は、少年のころから日本の様子がわかっていたようでした。
なぜ、戦が起こり、国が乱れるのか、その原因を、信長なりに理解していたようです。
富の不平等によって、争いが起きる、と考えていたのかもしれません。米経済の限界が争いを生じさせているとも思っていたかもしれません。
そのためには、すぐれた中央集権的な体制が必要です。島国の日本ならば、可能です。
だから信長は、最大の敵、石山本願寺を十年もかけて倒しました。
石山本願寺と戦わないで、天下を目指すことも可能だったのですが、それでは宗教勢力と妥協した軟弱な天下しかとれません。
同じように他の戦国大名と、妥協してつくる天下も望みませんでした。
島津や毛利、上杉などの大きな勢力は、武田と同じように滅ぼすつもりでした。同盟関係の徳川も、いずれ領地を削り家臣にするつもりでした。
そこまでしなければ、真の天下人として、力が発揮できなったことでしょう。
しかし秀吉は、軟弱な体制の天下人ではありましたが、信長亡き後、戦乱に終止符をうつことに成功しました。
そして、軟弱で混乱した秀吉の天下を家康が継承して、250年の戦乱のない時代がやってきたのです。
秀吉は、つなぎ役としての仕事を、みごとにこなしたと言えましょう。
ひとこと
晩年の秀吉は、カゴのすき間から手をだして、とれない果実である明(中国)をとろうとしていたみたいですね。
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