織田信長は、ひと言でいうと、どんな人物だったのでしょうか?
小説家の津本陽が「心に少しの偶像も持たない人物」と評しています。
信長は無神論者だった、と見られていますが、この「偶像」のようなものが嫌いなだけだったのかもしれません。
とくに「偶像」を「実像」のように言って、人々を惑わす人間が大嫌いでした。
また、偶像を実像のように信じることの危険性を理解していました。
火や水のように宗教を理解していた信長
信長が宗教に対して怒りを爆発させたのは、父の信秀が亡くなったときでした。このころ信長は、16歳とも19歳ともいわれています。
日蓮宗の僧、十数人が、信秀の病気を回復させるため祈りましたが、効果はなく、信秀は帰らぬ人となりました。
このとき、怒り狂った信長は、日蓮宗の僧、十数人を小屋に閉じ込め、外から銃で全員、射殺してしまったのです。
成人してからの信長は、石山本願寺の一向一揆、十万ちかい信徒を殺害しています。
その他、比叡山の焼き討、安土宗論など、やたらと宗教者を迫害しました。
ところが、宗教勢力との戦いに勝利すると、宗教を弾圧するのではなく、信仰の自由を許します。
もちろん、政治に口を出さない、という範囲内で、信仰の自由を認めたのです。
これは、現代でいう「政教分離」と「信仰の自由」にちかいかもしれません。
信長は気性が激しいですが、決して感情で物事を判断することを、しません。どんなことでも、火や水を見るかのごとく、理性で考えることができたのです。
火は、料理をつくったり、暖をとったり生活に欠かせません。
たとえ火事で大きな被害を人間に与えたとしても、「火は恐ろしい」とか言って、次の日から火を使わなくなることは、ありません。
「火」そのものに善悪はなく、使い方の良し悪しが大事だ、ということです。
宗教も同じだ、と信長は考えたのでしょう。
「政教分離」と「信仰の自由」を許容できる国づくりを、目指していたのかもしれません。
信長は「偶像否定論者」だった?
「孫子の兵法」と釈迦の「法華経」は、紀元前500年以上前に説かれた教えです。
どちらも偶像を、認めていません。合理性、あるいは理屈に重点がおかれた書です。
どちらも抽象的で、わかりにくいです。しかし、どちらも、たいへん評価の高い書です。
「孫子の兵法」は、兵法書の最高峰といわれ、釈迦の経文の中で「法華経」が一番に優れていると評価されています。
とくに偶像崇拝が不可欠な宗教の中で、「法華経」は、それを否定している特異な経文です。
偶像嫌いの信長が、好みそうな書物です。
そして、信長が「法華経」を、好んでいた痕跡があります。それは、安土桃山城です。
安土桃山城の地下には、「法華経」で説かれる宝塔があり、天主の屋根には仏舎利があります。
宝塔と仏舎利の間にある階に、信長の部屋があります。釈迦や孔子など古の聖人の絵が壁に描かれています。
いったい、どうゆう意図で宝塔と仏舎利を、安土桃山城に設けたのは不明ですが、「法華経」に強い関心があったことだけは間違いありません。
信長は「無神論者」ではなく、「偶像否定論者」と評した方が正しいかもしれません。
ひとこと
戦国時代、民衆の間でも法華経が一番、尊い教えであると思われていました。
だから、安土桃山城に「法華経」に関連する装飾をしたのは、民衆の支持を得るための手段とも考えられます。
偶像嫌いの信長と、民衆の好みがマッチしていたみたいですね。