家臣にとって、生殺与奪の力を持った権力者ほど恐ろしいものはありません。虎と一緒にいるようなものです。
「狡兎死して走狗烹らる」は、古代中国・越の范蠡(はんれい)が残した言葉です。
兎(うさぎ)がいなくなれば、猟犬も必要がなくなるので、猟犬は釜で煮られて食べられてしまう・・・・という意味です。
権力者が、必要がなくなった家臣を殺害したり、追放する、ということですね。粛清(しゅくせい)と言われたりもします。
この言葉に当てはまる権力者のなかで、とくに有名なのが漢王朝を興した劉邦です。
漢の三傑である韓信(かんしん)をはじめ、従兄弟の盧綰(ろわん)、彭越(ほうえつ)、英布(えいふ)など多くの功臣が犠牲になりました。
逆に相国の蕭何(しょう か)は、高い身分を保ったまま、劉邦のもとで粛清されることもなく、生涯を終えます。
過去、日本でも、このような粛清は、たくさんありました。
織田信長が天下統一に近づいたころには、家臣の佐久間信盛や林秀貞が追放されました。
もし、信長が本能寺の変で横死しなかったならば、粛清された家臣は多大な数になったかもしれません。
そんな中で、サル顔の羽柴秀吉は、漢の蕭何と同じように、権力者の逆鱗をうまく避け大活躍しました。
信長の性格を理解していた秀吉
信長は独裁者でした。家臣は、信長を恐れ敬い、仕えていました。
古参で勇猛な柴田勝家でさえ、信長の前では、ただの従順な家臣でしかありません。
ところが秀吉は、信長の性格をこまめに分析して、まるで刃(やいば)の上を歩くような危険なことも、平気でやってのけました。
「気配りの達人」である秀吉は、信長の性格を深く理解することができたからです。
信長に対する秀吉の仕え方は、他の家臣とは別次元です。まるで信長を、うまくコントロールしていたようにみえます。
軍令違反をしても許された秀吉
秀吉は、通常なら死罪や蟄居になるような命令違反を犯したことがあります。
加賀平定のため、秀吉が与力(よりき)として、柴田勝家の配下になったときでした。
勝家とケンカ別れした秀吉は、信長の許可を貰わず、勝手に引き上げてしまいます。軍令違反は、切腹を免れない重罪です。
しかし、秀吉は、「信長が自分を殺すわけがない」という自信がありました。
居城の長浜城に戻ると、城内に役者を呼んで芝居見物したり、ドンチャン騒ぎをしました。役者やまわりの人間に金銭を惜しげもなくばら撒いたのです。
それを使者から聞いた信長は、「あの猿めが」と苦笑いして、秀吉を許します。
主君から疑われたり、命を奪われそうになると、謀反(むほん)を起こす者もいます。
だから秀吉は、ドンチャン騒して金をばら撒くことにより、謀反の意思がないことを、信長にアピールしたのです。
また、松永弾正が反旗を翻したり、中国の毛利家が必死の抵抗を続けています。そんなときに、秀吉のような優秀な将を失うわけにはいきません。
信長の性格と、取り巻く戦況を計算して、秀吉はうまく復帰することに成功したのです。
備前の宇喜多直家を勝手に許した秀吉
備前を攻め、大名の宇喜多直家を殺害するように、秀吉は信長から命じられていました。
しかし、これも信長に許可を貰わず、勝手に許してしまします。
信長は激怒しますが、またもや秀吉のあの手この手を尽くした計略によって、信長は許してしまうのです。
そして、宇喜多家の兵一万をそっくり味方にできた秀吉は、毛利氏を降伏寸前まで追い込むことに成功します。
「気配り」で信長をコントロールした
このように信長が秀吉を許してしまうのは、秀吉の実力と信用のおかげでもありますが、それだけではありません。
秀吉の信長への「気配り」が、半端ではなかったからです。
軍師の竹中半兵衛とも相談して、より信長から気に入られるために、綿密な作戦をたてました。
信長の四男を養子にしたり、「日本の領土は上様(信長)に返して、唐天竺までのために攻めにいきます」とか大法螺を吹きます。
信長の子を養子にすることで、秀吉の領土は信長の子が相続することになります。つまり信長の子に、領土が戻ってくるわけです。
「唐天竺」まで攻めに行くという大法螺も、将来、起こりうる粛清の危険から免れるためのものです。
戦で忙しい最中でも、総大将である秀吉自信が信長のもとへ出向き、報告しました。これは謀反を疑われないためと、ご機嫌をとるための「気配り」です。
しかし、本能寺の変で信長が地上から消えると、この「気配り」が天下統一のために使われたのでした。
ひとこと
織田信長は、すばらしい人ですが、この人の下で働くのはイヤです。
秀吉の下で働きたいですね(●^U^●)