織田信長が美濃の斉藤氏を滅ぼして、100万石の大名になったとき、隣国の信濃は、武田信玄に支配されていました。
当時、戦国時代最大の大名といわれていた武田信玄は、最強の戦国武将でもありました。
もし、信長が信玄と戦えば、ほとんど勝ち目がありません。信玄の兵は、一人で三人の敵を倒せる、といわれるほど強かったからです。
逆に、信長の尾張兵は、弱いことで有名でした。戦で少しでも不利になると、逃げだす臆病者が多かったのです。
だから信長は、信玄にやたらとゴマをすります。贈り物を届けたり、自分の養女を信玄の息子に嫁がせます。
弱肉強食の戦国時代は、ゴマをすったからと安心できるわけではありません。ゴマすりは、単なる時間稼ぎといえましょう。
ところが、信長に幸運が舞い込みます。それは上杉謙信という化け物みたいに強い戦国大名が、武田信玄と戦い続けたからです。
信玄は信長の領土を狙う余裕がなくなりました。上杉謙信に常に脅かされるようになったからです。
謙信は天下に野心がなく、関東の平定を目指していた
関東管領である上杉謙信は、関東を平定することに熱心で、天下をとる野望がありません。
なので、関東の大勢力・北条氏とも戦い続けました。これも信長に幸いしました。
謙信に常に領土を踏みにじられていた北条氏は、信長の同盟者・徳川家康を攻撃する余裕がありません。
謙信、あるいは信玄から領土を守るのが精一杯でした。
上杉謙信が武田氏と北条氏の大勢力を抑えてくれたおかげで、信長は西へ領土を拡大していくことができたのです。
まるで信長のために、上杉謙信は戦っていたような気さえしてきます。
後に、武田氏や上杉氏、北条氏が信長や秀吉に敵対しましたが、時すでに遅く、天下の大半を制した上方の兵に打ち負かされます。
信長と正反対の上杉謙信
上杉謙信の戦い方は、織田信長と対照的です。
信長は戦術では謙信に劣り、戦略で勝っていた。信長は恥も外聞も気にしないが、謙信は気にした。信長はウソが言えたが、謙信は正直だった・・・・などといわれています。
信長は、天下とりのために合理的な戦いをしましたが、謙信は義のために戦うことが多く、合理的とはいえない面があったのです。
謙信は、雪の降らない季節に出兵して、関東の大半を支配しますが、雪が降る前に本拠地の越後に帰ります。
謙信が去った後、北条氏が謙信の支配地を奪い返します。北信濃でも、謙信が去った後、武田信玄が領地を奪い返しています。
また、謙信が自ずから兵を率いて、あちこち出兵します。
謙信の兵の強さ、戦の頻度の割りには、領土を拡大できなかったようです。
これとは逆に信長は、骨折損になるような戦は極力避け、着実に領土が拡大できるよう戦った、といえましょう。
ひとこと
織田信長にとって上杉謙信は、ある時期まで「敵の敵は友」の典型でした。
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