豊臣秀吉は、明を攻めるための足掛かりとして、朝鮮半島で戦を繰りひろげました。
その結果、寸土の領地も得られず、多大な人命と戦費を失いました。
そもそも島国から大陸の明に攻め込むこと自体、無謀な行為です。それまでの秀吉らしくない、無計画な戦でした。
もし、織田信長が本能寺で亡くならず、天下統一をしたら、秀吉と同じように、明に侵攻したでしょうか?
おそらく攻めこまなかったのではないかと思います・・・・。
秀吉の大阪城が建つ前は、その土地に石山本願寺がありました。
信長は、石山本願寺に何年もかけ猛攻を加えました。その地域が天下を治めるためと、海外進出のために必要だったからです。
信長の計画していた海外進出とは、どんなものだったのでしょうか?
計画マニアだった信長
信長は周到に計画をねり、何年もかけて目標を達成するタイプの人間でした。
とても短気そうなイメージがある信長ですが、わずかな例外を除いて衝動的な行動は極力、避けました。
「孫子の兵法」でも、孫子は衝動的な行動を一番、嫌っています。理屈で考え抜いた行動を奨励しています。
まさに信長は、理屈で考え抜いた計画を実行して、領土を増やした見本のような戦国大名です。
そして、美濃を獲るのに七年、石山本願寺を倒すのに五年の年月を費やしたのです。
美濃と石山本願寺の何百倍もありそうな、明の領土と城を攻めようとしたら、当然、七年や五年どころではありません。まったく見当がつきません。
それどころか失敗する確率のほうが高いと考えるのが、自然です。
だから信長は、明攻めなど眼中になかったはずです。
西洋の文明を輸入しようとしていた信長
古代から大阪城の付近の難波あたりに都がおかれ、朝鮮半島や中国大陸との貿易で利用されていました。
瀬戸内海ルートによる船での行き来がとても便利な地だったのです。
朝鮮や中国、国内勢力と敵対関係になると、海が近い平地のため、防御力の弱い、難波の付近をさけ、奈良盆地や大津などへ都を移したりしました。
しかし戦国時代、鉄砲の出現によって、平地の砦や城でも防御力が強くなり、石山本願寺や秀吉の大阪城がたてられたのです。
信長は、その地に西洋文明を輸入するための、巨大で絢爛豪華な城を築こうとしていた可能性があります。
ひとこと
尾張一国の領主だったころの信長は、武田信玄にペコペコして、ご機嫌をとっていました。
同じようにスペインやポルトガルに対しても、キリスト教の教会を建ててあげたり、布教をゆるしたりして、ご機嫌をとっていました。
これは西洋文明をどんどん取り入れるためのご機嫌とりです。
そして、西洋に負けないぐらいの西洋文明が日本に根付いたとき、海外の領土を狙うつもりだったのでしょう。
武田氏を滅ぼしたのと同じように、最後はスペインやポルトガルが領有している東アジアの植民地を、信長は、すべて奪ってやろうと考えていたかもしれません。
(●`□´●)???