羅針盤、火薬、紙、印刷は、中国の四大発明と呼ばれています。
古代、この四大発明は東洋だけでなく、西洋にまで伝わりました。
東アジアの中国の周辺国は、中国を師の国として、文化・文明を学びました。もちろん、日本も含まれます。
ところが19世紀、中国(清)は、欧米の列強に領土を蚕食(さんしょく)されます。
あれほど中華文明を誇った中国が、なぜ、19世紀に西洋に手も足もでない状況に陥ったのでしょうか?
競争原理が活発でなかった中国
17世紀ごろまでは、中国と西洋の間で、工業技術に大きな差はなかったといわれています。
しかし、徐々に中国と西洋の差がひらいてきます。その主な原因は、競争原理の活性化の差でした。
つまり、中国は国内での工業や様々な技術の競争が活発でなかったため、発展が停滞したのです。
一方、西洋は、中国より狭い面積の地域で、いくつもの国がしのぎを削り、競争が活発になりました。
数十カ国(現在50カ国)から成る西洋は、当時、国と国との争いが絶えません。
すると、敵国に勝つために、工業や科学をはじめ、様々な文明の技術が発達しました。
要するに西洋の国同士で、切磋琢磨して文明を成長させることができたのです。
ところが中国(清)は、切磋琢磨できるライバル(敵国)がいなかったのです。
ライバルがいないため、「中華文明は偉大だ!」とか、「中国は世界の中心だ!」と過大な自信を抱き続けてしまったのです。
その結果、19世紀、中国の清帝国は、西洋文明の前に歯が立たず、滅亡します。
中国と西洋の差を生んだ原因とは?
中国は西洋(ヨーロッパ)より、広い領土でありながら、統一王朝が支配していた時代が長く続きました。
中国が一つの国として成立できた理由は様々ありますが、比較的、平地が多かったことが挙げられます。
平地は攻めやすく守りにくいので、一つの国として、まとまりやすいのです。
逆に国と国が山岳地帯で隔てられていると、攻めにくく守りやすいので、いくつかの国の並存が可能になります。西洋がそうですね。
また、中国の北方の草原や森林地帯には、騎馬民族が住んでおり、常に中国を侵犯していました。
中国は、いくつかの王朝に分裂している時代でも、北方の騎馬民族に対抗するために、ふたたび統一王朝として、一つの国にまとまることがあったのです。
統一王朝として、まとまることは良いことですが、競争原理が不活発になりがちです。
官僚化した中国の大帝国では、民間の技術者が努力して創り上げたものや発明を、ないがしろにする傾向がありました。
そうなると、中国内でライバルが互いに技術の切磋琢磨する環境が、乏しくなります。
ところが西洋では、敵国に勝つために、ときには懸賞金までかけて、工業や様々な技術の向上に力をいれたのです。
民間の技術者が、先を争って技術を競い合う環境が整い、近代テクノロジーが発展していきました。
そして、18世紀には、イギリスで産業革命が始まります。
この差が19世紀の敗者と勝者となって、現われたのでした。
ひとこと
当時の西洋は、中国北方・騎馬民族のような敵が存在しなかったことも、一国に統一しなかった原因かもしれません(*゚∀゚)