幕末の薩摩藩は、現在の鹿児島県あたりです。
活火山の桜島から降りそそぐ火山灰のため、土地は保水性が悪く痩せていて、稲作に適しません。
平安時代に薩摩の土地を与えられた島津氏の先祖は、低い米の収穫高にたいへん苦労します。
島津氏の家臣や領民を養うためには、北方の稲作に適した豊かな土地を得る必要がありました。
もちろん、そこには他の勢力がいます。戦って土地を奪い取るしかなかったのです。そのため、島津氏は自然に武力に力を入れるようになりました。
1万足らずの兵で20万の明の兵に勝利した朝鮮での戦など、島津氏には多くの武功があります。
幕末には、当時、世界最強といわれたイギリス軍にも負けません。
このように戦に強い薩摩が生まれたのは、厳しい環境のなかで生まれた「現実主義」のおかげだといわれています。
この「現実主義」の薩摩藩で生まれた剣術流派のひとつに「薬丸自顕流」があります。
「明治維新は薬丸流でたたきあげた」と言われるほど、幕末に大活躍した剣法です。また、幕府軍との戦いで実践的な強さが証明された剣術流派でもあります。
合理的に工夫された薬丸自顕流
薬丸自顕流の長所は、なんといってもシンプルな技と修行方法です。他流のような難しい技や練習は、ありません。
何本かの木の枝を束ねた横木を木刀で打ち続けるのが主な修行です。練習相手も、ほとんど必要ないので、好きな時間に修行ができます。
修行がやりやすいため、薬丸自顕流は薩摩の郷士に広まりました。
薩摩藩には上士と郷士がいましたが、上士は身分が高く郷士は身分が低かったのです。
そのため郷士は農業も兼業する武士でした。農業があるため、剣術道場に通う時間もありませんが、横木を木刀で、ただ打ちつける修行ならできました。
しかも農作業で鍬を振るい、燃料として使う巻き割りで鍛えられています。薬丸自顕流の刀の振り方と同じような筋肉の使い方をしていたのです。
そのように鍛えあげられた鋼鉄のような筋肉から、ほぼ上段から振り下ろされる刀の破壊力は、想像を絶するものでした。
薬丸自顕流の剣士の攻撃を受けると、刀で受けても受けきれず、自分の刀の峰を自分の額にめり込ませてしまいます。あるいは刀ごと切られてしまいました。
京都の浪士を震え上がらせた新鮮組でさえ、薬丸自顕流をたいへん恐れていました。
斜めからに振る刀より、垂直に振る刀の方が強いのか?
幕末、桜田門で井伊直弼を護衛する幕府側の武士と、水戸藩と薩摩藩の武士が壮絶な切り合いをしました。
護衛する武士と襲撃する武士は、いずれも達人がそろっていました。達人といっても道場での達人であって、実践の経験がほとんどなかったのです。
初めて遭遇した実践での切りあいのため、極度に緊張して道場では使える高度な技も何もできません。
ただ斜めの袈裟切りをメチャクチャ繰り返す剣士がほとんどだったそうです。
そんななかで、薩摩藩士で、薬丸自顕流の達人・有村次左衛門は、高い上段(八相)から腰を低く落としながら切り落とす技で、何人もの護衛剣士を切りました。
塚原卜伝の「一つの太刀」や、新陰流の「合撃打ち(がっしうち)」も、垂直に刀を打ち下ろす技といわれています。垂直に切り下ろす刀の威力が強力だからです。
薬丸自顕流は、高い八相から腰を低く落とすので、体重がのり威力が増します。
また、腰を低く落とすと、相手の体当たりや足への攻撃、鍔迫り合い(つばぜりあい)も防ぐことも容易いです。
本当に合理的に考え出された武術だと思います。
薬丸野太刀自顕流 薩摩藩最強の剣 Yakumaru Nodachi Jigen ryu
ひとこと
厳しい環境におかれると、無駄のない合理的な技術が高まるようですね(●^皿^●)。