薩摩藩の島津斉彬と長州藩の毛利敬親は、まさに対照的な殿様でした。
島津斉彬は、カリスマ的なリーダーシップで薩摩藩を近代化せさ、幕府に対抗しようとしました。
一方、毛利敬親は家臣の言い成りで、リーダーシップのかけらもない人物でした。
あだ名も「そうせい候」といわれ、家臣が意見を述べると、「そうせい」と言って、自分の考えを入れず承諾していたのです。
幕末、斉彬は49歳で、突然、病死します。暗殺の疑いが濃いです。しかし敬親は、明治維新後も生きのびて、左近衛権中将に任ぜられました。
維新後、「そうせい」と家臣の言い成りになっていなければ、自分は暗殺されていただろう、と敬親は語っていたそうです。
まるでリーダーシップの有無が、この二人の殿様の運命を決めたかのようです?
毛利家の殿様は、なぜ権力が弱かったのか
戦国時代、安芸国高田郡吉田荘の3000石から5000石ほどだった毛利氏を、中国八カ国の約170万石まで領土を拡大させたのが、毛利元就です。
じつに数百倍に領土を拡大させたのですから、たいしたものです。
ところが元就の場合、戦で勝ち取ったというよりも、養子縁組や謀略をメインにして領土を拡大しました。
養子縁組で得た領土がやたらと多いので、当然、広大な領地を持つ親族の家臣が多くなりました。
元就の孫である輝元が毛利家を継いだときは、吉川と小早川の叔父が実権を握っていました。
また、輝元の叔母の嫁次先である宍戸家も重臣として、大きな力を持っていました。
だから輝元の代で、相対的に殿様の力が弱まっていきます。
そして関が原での敗戦が、さらに殿様の力を弱めました。約170万石から約36万石へと領地が削られたからです。
大勢の家臣を養うためには、殿様の直轄地も減らさざるおえません。殿様と家臣の領地の差が少なくなります。
それによって、毛利家の殿様は、ときには家臣の操り人形と化することもありました。
薩摩の殿様は強力な権力をもっていた
小領主の毛利家とは違い、戦国時代、島津家は大きな領地の大名としてスタートしました。
平安時代、九州の島津荘の荘官として、島津家の先祖・惟宗広言が下り勢力を拡大します。
鎌倉時代になると、初めて島津氏を称した島津忠久が、源頼朝から薩摩国・大隅国・日向国の3国の領地をもらったのです。
そして戦国時代も島津家の殿様は、由緒ある家柄と広大な直轄地を有していました。だから相対的に殿様の力が強かったのです。
強力な権力をもつ島津家の殿様は、いくつもの敵国を破り、領地をどんどん拡大すしました。
関が原での敗戦でも、島津家は強気の姿勢で徳川家康と対抗して、領土を減らされません。
九州の最南端で、徳川側の勢力が攻めにくいという地理的な利点にも恵まれていました。
だから優柔不断な殿様が多かった毛利家とは違い、「島津にバカ殿なし」と言われるぐらい、優秀で強力なリーダーシップをもつ殿様が代々、輩出されたのです。
ひとこと
表面的には操り人形の毛利敬親でしたが、裏では高杉晋作や伊藤俊輔(後の伊藤博文)など開国派の人材を登用し活躍させ、倒幕の功労者としても有名です。
能ある鷹は爪を隠すというコトワザがありますが、「そうせい候」として敬親は、爪を隠していたのかもしれませんね。
( ̄ー ̄)ニヤリッ