幕末、日本が外国の植民地にならず、明治維新を成功させました。
東南アジアや東アジアの中で、唯一、日本だけが近代化を成し遂げたのです。
中華文明を誇る清や朝鮮も西洋から領土を蚕食、あるいは植民地化されました。鎖国が大きな原因と言われています。
ところが日本も、当初、圧倒的な西洋との軍事力の差を知りながら、なかなか開国することができませんでした。
もちろん、開国派の勢力もいましたが、鎖国派(攘夷派)から比較すると、僅かでした。
「攘夷だ!」という声が圧倒していたのです。
「攘夷」とは、「尊王攘夷」を略した言葉です。天皇を尊び、夷人(外国人)を攘(はら)うという意味です。
つまり西洋列強を、やっつけて追い払え、ということです。
幕府も攘夷派でした。しかし、当時の幕府は、西洋に武力で脅されて不平等な条約を結んでしまいました。
幕府が部分的に開国していましたが、朝廷や薩摩藩、長州藩などを中心として、攘夷派が圧倒的多数だったのです。
幕府の西洋列強に対する弱腰にも、不満が日本中に鬱積していました。
薩摩藩とイギリスの戦争で、開国へ向かった日本
当時、長州藩は西洋4カ国艦隊にボロクソに負けていたのにもかかわらず、熱狂的に攘夷をおこなっていました。
また、もともと薩摩藩も攘夷派でした。
朝廷も攘夷派なので、朝廷と薩摩藩は、西洋の脅しに屈して、弱体化した幕府を倒そうと画策していました。
しかし、薩摩藩は、ある日、突然、開国派になってしまったのです。
切っ掛けは、イギリスとの戦争で、西洋の軍事力の凄さを知ったからです。
イギリスと講和に持ち込むことができましたが、薩摩藩の被害は甚大でした。
薩摩藩主の父で実権を握っていた島津久光の命(めい)により、薩摩藩は開国派となったのです。
そして、長州藩も開国派が実権を握り、薩摩藩と同盟します。薩長同盟(さっちょうどうめい)です。
薩摩藩と長州藩の二大勢力が中心となり、日本は開国の方向へ舵を切ることができたのです。
開国によって日本は、西洋の高度な武器やノウハウを輸入して、西洋列強に対抗できるようになりました。
人材と運に恵まれていた日本
日本を植民地、あるいはそれに近い状態にしようとして、西洋列強は、日本にやってきました。
しかし、武器やノウハウを日本に与えることによって、結局、それができなくなったのです。
ある意味、西洋列強は間が抜けているようですが、日本に優秀な人材がいたことと、運にも恵まれていたおかげ、とも言えます。
西郷隆盛や勝海舟による江戸城の無血開城や、マイナスの英雄といわれる将軍・徳川慶喜など多くの人材の活躍がありました。
日本があまりにも早く倒幕をして、明治維新を成功させたので、西洋列強はなにもできなかったのです。
また、アメリカは国内で南北戦争が勃発して、日本にかまっていられなくなりました。
他の西洋列強もそれぞれ事情をかかえるようになり、遠い極東の日本に力が入れられなくなります。
幕末、日本は人材と運に恵まれていた、と言えましょう。
ひとこと
当時、日本が他のアジアの国と違うことに、西洋列強はとても驚いていたそうです。
変わった国だと思っていたらしいです(●^□^●)