九州の薩摩藩(鹿児島県)と、関東は、いくつか共通点があります。
まず、薩摩藩の鹿児島神宮と、関東の鹿島神宮です。名前が似ていますね。
偶然、名前が似たわけではなく、同じ国の先祖が建てた神宮だ、という説があります。
その先祖とは、現在の中国東北部にあった扶余(紀元前4世紀-494年)という国の人たちのことです。
扶余は国名ですが、鹿のことを扶余(プヨ)と呼びました。
扶余の子孫が日本にわたってきた
ロシア国内に住んでいるエベンキ族は、アマリカ・インディアンや東アジア人のルーツのひとつといわれています。
エベンキ族は、鹿の一種であるトナカイを主食にしていました。凍ったトナカイの肉を食べていたため、アゴが頑丈になり、エラのはった顔立ちになりました。
韓国にエラの張った顔の人が多いのも、エベンキ族の血が流れているせいかもしれませんね。
また、トナカイを崇拝するエベンキ族の習慣が、中国東北部の扶余という国に伝わりました
扶余は、古代、中国の漢王朝に攻められ、滅亡寸前のとき、鹿山という地で再起をはかり、漢の兵を追い払うことができたのです。
そして、鹿山の地から鹿をとって、扶余(鹿)という国を建国しました。また、鹿は神の使いとして尊び、好んで鹿を飼っていました。
また、扶余の子孫が日本にわたってきて、鹿児島神宮や鹿島神宮を建てた、といわれているのです。
つまり、扶余の子孫が鹿を尊んでいたから、「鹿」を神宮の名前に使ったわけです。
春日大社にも、神の使いとして鹿が飼われています。春日大社を創建した藤原氏が、扶余の子孫だからだ、という説があります。
日本における扶余の影響力は、意外に大きいようです。
武の地であり、革命の地であった
扶余の人は、体が大きく、武術に優れた人が多く、中国の漢王朝に対する反骨精神が強かったのです。
そのせいなのかどうなのか、日本では、薩摩と関東から革命が起こっています。薩摩は幕末ですが、関東では、平安時代、平将門の乱、源頼朝の挙兵が勃発しました。
関東の水戸藩でも、御三家であるのにもかかわらず、幕末、討幕活動が盛んでした
中央政府に対して反発しやすい土地柄といえるかもしれません。
朝廷や幕府に対する反骨精神にあふれていました。
薩摩と鹿島の不思議な因縁
薩摩と関東の鹿島は、距離的には遠く離れていますが、不思議な因縁で結ばれています。
それは、一撃必殺の剣術です。
日本は島国のためか、切腹とか一撃必殺という言葉が好きです。中国や朝鮮など大陸の国では、あまりもちいられません。
大陸は広いので、逃げるところがたくさんあるが、島国の日本は狭いので、逃げる場所が少ないです。
だから、切腹とか一撃必殺という言葉が生まれたのかもしれません。
いずれにしろ一撃必殺の剣術が、幕末、大活躍するのです。
古来から、薩摩や関東(坂東)の武士は、扶余の人と同じく体格がすぐれていました。
その強靭な体躯から、一撃で相手をしとめる必殺の剣が、関東の鹿島や香取の地で生まれたのです。
関東の鹿島で創始された天真正自顕流が、薩摩に伝わり、示現流や薬丸自顕流とに分かれました。
とくに、薩摩、薬丸自顕流の志士は、幕末、大暴れします。「明治維新は、薬丸流でたたきあげた」といわれたほどです。
日本の南と東にわかれた扶余の子孫の影響が、幕末にまで及んだかのようです。
ひとこと
薩摩は芋、水戸は納豆が有名です。
これは、まったく関係がなさそうですね(*^▽^*)