中国を初めて統一した秦(しん、紀元前778年 - 紀元前206年)は、戦国時代に周辺の六ヶ国(楚、韓、斉、魏、趙、燕)と戦いを繰り広げていました。
六ヶ国が同盟して、強国・秦に対抗しましたが、なかなか優勢に立つことができません。
この六ヶ国が同盟することを「合従(がっしょう)」と呼びました。
秦は、六ヶ国の合従を切り崩そうと、六国の間を対立させるように仕向けました。これを「連衡(れんこう)」といいます。
結局、合従は失敗に終わり、連衡が成功して、秦が中国を統一します。
なかなか足並みが揃わない合従(同盟)
ある時、六ヶ国の合従が効果をもたらして、秦に大打撃を与えます。
しかし、六ヶ国は互いに疑心暗鬼になり、漁夫の利を得ようと団結にヒビが入りました。
追い詰められた秦からの反撃で、自国の兵の損害をできるだけ少なくしたい、と逃げ腰になったのです。
真っ向から戦い、秦を滅亡させたとしても、他の五ヶ国から攻撃されては、自国が次に滅ぼされてしまいます。
これは秦の連衡の策が功を奏し、六ヶ国が互いに疑うようになったのです。
具体的には論客を特定の国に向かわせ、秦との同盟のメリットを説いて、六ヶ国同盟(合従)から離反させます。
また、間者(かんじゃ、スパイ)を潜入させ、六ヶ国が互いに疑いたくなるような噂を広めます。
何を考えているかわからない他の五ヶ国と組むより、強国・秦と同盟(連衡)したほうが無難と思わせたのです。
秦は、分裂した六ヶ国を次々に撃破して、滅ぼしていきました。
日本では信長包囲網が似ている
中国と比べたら、日本は国の面積がとても狭いですが、「合従連衡」に似たようなことがありました。
その代表的なのが「織田信長の包囲網」です。
浅井や朝倉、武田、毛利、三好三人衆、雑賀衆、将軍・足利義昭、比叡山延暦寺、石山本願寺などが同盟して、織田信長に対抗したのです。
実際には、第一次、第二次、第三次と包囲網の時期があり、敵対勢力も入れ替わっています。
しかし、古代中国・秦のように、「連衡」の策で包囲網(合従)を崩せたわけではありません。
信長は、「連衡」のようなことをやりましたが、あまり効果がなかったようです。
それよりも、日本で唯一、信長だけが構築した「兵農分離・楽市楽座」を基本とするシステムが功を奏し、「信長包囲網」は徐々に崩壊に向かっていきます。
また、「連衡」よりも、遠方の敵を味方にして、近隣の国を攻撃する「遠交近攻」の策が成功したようです。
ひとこと
最近、テレビのニュースや報道番組などで、現在の「合従連衡」が見れます。
どうゆう結果になるのか、たいへん気になります。
日本がよい方向にむかってくれると、いいですね(●^□^●)