日本が中央集権化された時期は、奈良時代の律令制と、明治維新の後に成立した明治政府が代表的です。
明治維新は、薩摩藩や長州藩、土佐藩などの官軍が江戸幕府を倒して、武士の世から近代中央集権国家を成立させました。
江戸幕府側の強い抵抗勢力を排除して、明治政府は誕生したのです。
ところが奈良時代の律令制の成立時に、抵抗勢力がいたのかどうかが明確ではありません。多少の反対派はいたのでしょうが、明治維新の時のように激しく抵抗した勢力は存在したのでしょうか。
物部氏が抵抗したという説があります。正確には、律令制が成立する過程で発生した公地公民制に抵抗したといわれています。当時、物部氏は日本で最大の領地を保有していたからです。
公地公民制とは、日本の土地はすべて天皇のものである、という制度です。つまり貴族や豪族の土地を取り上げることでもあります。代わりに官位を与えたりしました。
明治政府の成立後、武士の内乱が起きた
明治維新は、薩摩藩や長州藩、土佐藩などの官軍が江戸幕府を倒して幕を閉じました。
幕府側の激しい抵抗があったわけですが、明治政府の成立後も武士による抵抗や内乱が起きています。
長州藩では「萩の乱」、佐賀藩では「佐賀の乱」、そして最大の反乱が薩摩藩が起こした「西南戦争」です。
武士にとってみれば、自分たちの身分が奪われるわけですから、激しく抵抗し続けたのです。
古代の公地公民制が成立するときも、同じような抵抗が起きていたかもしれません。
曽我氏と物部氏の争いは、どうして起きた?
古代、朝鮮半島の百済から仏教が伝来して、仏教を国教にするかどうかで朝廷は争っていました。
とくに仏教派の曽我氏と神道派の物部氏が争い、ついに武力衝突して曽我氏が勝利しました。
しかし、曽我氏と物部氏は、仏教の国教化に関する対立だけではなく、公知公民制をめぐって争ったのではないかという説もあります。
物部氏が倒された後、藤原氏が曽我氏を倒し、朝廷で権力を握るようになります。
藤原氏は、曽我氏が物部氏を排除した功績を隠すために「聖徳太子」という人物を創作して、聖徳太子の功績にしてしまったとか。
実際に聖徳太子の実在を疑う説もあります。たしかに聖徳太子は、超人みたいな能力が強調され過ぎていたりして、信じ難い点もあります。
曽我氏と物部氏の戦いが、仏教をめぐってのものか、公知公民制が原因なのかは明確ではありませんが、両者の勢力争いであったことは間違いなさそうです。
藤原氏は、漁夫の利を得たのでしょうかね?
スポンサードリンク(アマゾン電子書籍)
ひとこと
最近では、公地公民制もあいまいで、私地私民制と混在していたという説もあります。
歴史はいろいろな説があり、わからないことだらけですね(●´∀`●)