昔から人気のある戦国の対戦カード(?)は、上杉謙信VS武田信玄ですね。しかし、どちらかというと武田信玄は押され気味でした。
平地でのガチンコ勝負では、信玄は謙信になかなか適いません。川を挟んで対峙したり、信濃の山中で互角に戦うのがやっとでした。
あるいは、謙信が雪で動けない時期に、謙信に奪われた領土を、信玄は取り戻していたりしていました。
逃げ腰の信玄を誘き寄せた謙信
そんな逃げ腰の武田信玄に、業を煮やした上杉謙信は決戦に踏み切りました。自軍を媒鳥(おとり)にして、信玄の首をとろうとしたのです。第4次川中島の戦です。
謙信は1万2千の兵を率い妻女山に陣を敷きます。善光寺には別働隊5千を残しています。
対する信玄は、海津城に3千の兵を残し、1万2千を妻女山の後方から攻めさせ、八幡原に8千の兵を置き、謙信の退路を絶つ作戦でした。
ところが、信玄の別働隊1万2千が妻女山に到着したら、もぬけのカラでした。霧にまぎれて上杉軍は、密かに八幡原の武田軍に迫っていたのです。激戦になりました。
この戦いでは、謙信と信玄ともに生き延びており、互いに勝利を宣言しています。しかし、作戦を見破られ、本陣まで攻め込まれた信玄が危うかったことは間違いありません。
信玄を上手く誘い出した謙信の判定勝ちといったところでしょうか?
籠城していた家康を誘い出した信玄
戦国武将は、敵から戦を学ぶことが多かったようです。武田信玄もそうです。第4次川中島の戦で、上杉謙信から、敵を誘き出す方法を学んだのかもしれません。
なぜならば、その後、浜松城に籠城(ろうじょう)していた徳川家康に対して、謙信と似たようなやり方で、うまく家康を城から誘い出し、完膚なきまでに叩きのめしたからです。三方ヶ原の戦いです。
家康は浜松城に籠城していたほうが有利だったにもかかわらず、信玄の作戦にのせられてしまったのです。武田軍にはまったく歯が立たず、這う這うの体で家康は浜松城に逃げ帰りました。恐怖のあまり、途中で大のお漏らしもしています。
ところがその後、今度は家康が武田信玄をマネたような戦をして、数倍の豊臣秀吉軍に勝利するのです。秀吉の軍は10万を超え、家康・信雄の軍は2万を超える程度でした。
しかし、信玄から教えてもらった(?)誘導作戦を応用して、局地的ではありますが勝利を収めました。
じっと動かない家康・信雄軍に痺れを切らした豊臣方の池田恒興が、岡崎城を攻めようと動いた隙を突き、勝利しました。家康は最初から狙っていたとおりの勝ちを得たのです。小牧・長久手の戦いです。
上杉謙信から武田信玄、徳川家康と、まるで誘導作戦ノウハウが伝授されてしまったみたいですね?
現代と同じく、戦国時代もライバルのマネをして、大きく成果をあげていたようです。
ひとこと
その後、家康は豊臣秀吉から、城攻めの方法と商業を学びました。そのほか源頼朝からも影響を受けたともいわれています。家康は、いろんな人から学んでいたみたいですね。やはり偉い! (●^U^●)