中国の女性皇帝・則天武后(そくてんぶこう)は、唐王朝から政権を簒奪して周王朝を建国しました。
そして、則天武后が弥勒菩薩の生まれ変わりである、という教えを国中に広めます。ずいぶんメチャクチャで支離滅裂なことをするな、と思わざるを得ません。
しかし、権力者が自らを神格化することは、珍しいことではありません。あるいは高貴な人物の子孫であることを強調したりします。
権力者が味方を増やし、勢力拡大するための不可欠な行為です。
戦には大儀名分が必要だった
争は利害がら生じますが、争いの規模が大きくなると大儀名分が必要になります。大儀名分に勝る勢力のほうが味方をより多く集め、有利になるのです
日本の戦国時代、仏教十八宗派の一つ浄土真宗の教えを大儀名分にした一向一揆が、大勢力となりました。
数十万以上(数百万の説もあり)の民衆が浄土真宗・石山本願寺の門徒になり、一部が武装して一向一揆になりました。門徒の多くが農民です。武装した門徒は、ときに数万から数十万になります。
石山本願寺は、現在の大阪(石山)の石山本願寺を中心に、全国に拠点が広げました。
当時の戦国大名は、この石山本願寺の一向一揆をたいへん恐れました。石山本願寺と対立しないように和睦した戦国大名もいます。
ところが、この石山本願寺と真っ向から戦い、叩き潰した戦国大名がいます。織田信長です。
信長にとっても石山本願寺は最大の敵でした。宗教を中心にして結束する民衆の恐ろしさを、骨身に染みて感じました。また、民衆の支持を集めることの重要さを、より強く感じました。
琵琶湖東岸の安土山に築かれた安土桃山城は、民衆の支持を得ようとする信長の苦心の跡がうかがえます。
安土桃山城を民衆に有料で見学させた?
安土桃山城が完成したとき、信長は、入場料をとって城内を民衆に見学させました。信長が受付で入場料を受け取っていたそうです。
料金をもらって建物内を見学させるイベントは、このとき日本で初めて開かれたとのこと。このため安土桃山城は、日本初の博物館ともいわれております。
それにしても信長が受付係りをやるなんて、面白いですね。
天主の内部には絢爛豪華で、それまでの日本の城には存在しないインテリアが施されていました。天主からの眺望も素晴らしかったことでしょう。
釈迦や孔子など聖人が壁に描かれた部屋があり、その中心に信長の席が置かれていました。まるでそれらの聖人より信長のほうが偉いんだ、と表現しているみたいです。
安土桃山城の敷地には、信長自身をご神体(本尊)として祭る総見寺があります。信長も他の権力者と同じように、自分を神格化してしまったのか、と思ってしまいます。
自分をご神体(本尊)を祭った理由について、信長は何も書き残していないので、その真意はわかりません。
しかし、「俺は神だ!」と言って喜ぶほど信長は、単純な人間とは思えません。
石山本願寺の門徒の例からみても、民衆には何らかの神や仏のような存在が必要だと考えて、とりあえず自分が神(?)になったのかもしれませんね。
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ひとこと
信長は、石山本願寺だけでなく、比叡山延暦寺、日蓮宗とも対立しました。
しかし、権力に干渉さえしなければ、信教の自由を認めていました。石山本願寺との戦が終焉した後、信長は石山本願寺の存在を許しています。
政教分離と信教の自由を、この時代、すでに信長は実行していたのかもしれませんね。
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