お正月になると、新撰組や鞍馬天狗がテレビで放送されていましたが、今年はどうなんでしょうか?
新撰組の物語も見飽きていますが、今でも疑問に思うことがあります。薩摩・薬丸自顕流との戦いについてです。
新撰組の剣士は腕利き揃いです。その剣士が集団で少人数の敵を襲うのですから、襲われたほうは敵うわけがありません。逃げるか切られてしまうかのどっちかです。
鎖帷子(くさりかたびら)という防具を着込み、防具を身につけていない敵を襲うこともありました。
京都で暗躍する不逞浪士や倒幕志士を見つければ、狂犬のように切りかかる新撰組は、人々に恐れられていました。
近藤勇も恐れていた薬丸自顕流
そんな新撰組も薩摩・薬丸自顕流の使い手には、逆に恐れを抱いていました。
「薩摩の初太刀は、外せ」
と新撰組・局長の近藤勇が隊士に指示するほど恐れていたのです。
薩摩藩には示現流と薬丸自顕流があります。京都では薬丸自顕流の使い手が主でした。示現流は身分の高い城下士が多く、薬丸自顕流は身分の低い郷士が多かったのです。
ここで新撰組隊士が薬丸自顕流の剣士に、勝てたのかどうか疑問がでます。
近藤勇の指示どおり、隊士が薩摩の初太刀を外して勝ったことがあるのか、ということです。
小説や漫画、テレビや動画でもその点について、はっきりと描いているものを見たことがありません。
沖田総司が突きで薬丸自顕流の剣士に勝つ小説がありました。
その他にも、薬丸自顕流の剣士が切りかかった瞬間に、しゃがみ込み、その剣士の脛を切る、という小説もありました。
いずれの小説もフィクションで、小説を面白くするために書かれたという感じです。
薬丸自顕流は、明治維新で大活躍した剣術流派です。幕末のさまざま戦いで突出した強さが目立ちました。
薬丸自顕流の初太刀を受けた者は、刀を折られたり、受けた自分の刀を額にめり込まして倒されました。幕府方の高名な剣士が薬丸自顕流の無名剣士に敗れたともいわれています。
だから、新撰組が初太刀をうまく外して、本当に勝ったことがあるのか疑問です。もちろん、勝ったこともあるでしょうが、確率はかなり低かったような気がします。
薬丸自顕流は合理的な剣法だと思う?
まず、薬丸自顕流の修行方法がすごいです。師から技法を学べば、自分一人で、ほとんど修行ができるのです。高い月謝を払って道場に通う必要がありません。
横に置いた数本の細い木を、木刀で打つのが主な修行です。その他に走りながら数本の柱を打ったり、居合いみたいな技などもあります。
薬丸自顕流の剣士は身分が低く、農作業もやっていた郷士が多かったので、これは非常に修行がやりやすかったはずです。
農作業や巻き割りなどで鍛えた郷士が、似たような動作で横木打ちの修行をします。筋肉が集中的に鍛えられ、ものすごいパワーが発揮できそうです。
そのパワーを梃子(てこ)の原理で最大限に発揮させます。
右側面に高く刀を構え、稲妻のような俊足で間合いを詰め、刀を振り落とします。
切りかかられた相手は、体をかわすことができず、刀で受けるしかありません。
刀で受けても、刀を折られるか刀ごと切られてしまいます。
切りかかられたときに、斜めや後方に体を移動して、相手の刀をかわす動きよりも、切りかかった腕の方向を変える動きの方がはるかに速いはずです。
俊足で間合いを詰められているので、逃げようがなく刀で受けて防ぐしかないわけです。
・・・・というのが私の勝ってな見解です。専門家方お許しください(*´Д`)
薬丸自顕流を解説した動画がありましたので共有しました。
ちょっと気合が激し過ぎますが、わかりやすいです。
ひとこと
幕末、江戸にはたくさんの剣術道場がありました。なかには実践の役に立たない剣術を教えている道場も多かったそうです。なるべく長く道場に通わせ月謝を多くとるのが目的です。
千葉周作は、そんな流派や道場に嫌気がさし、実践的で早く上達することができる「北辰一刀流」を創始します。江戸の於玉ヶ池に玄武館を開くと、たちまち人気道場となり、江戸一番の入門者数になりました。
薩摩の薬丸自顕流は、創始以来、一環して実践性を失わず幕末まで続き、明治維新で大活躍したわけですね(●^□^●)