子供のころ両親につれられて、正月、東京から奈良県の奈良公園に観光に行きました。たくさんの鹿が放し飼いされているのに驚きました。
でも、本当は飼われているのではなく、意外なことに野生の鹿です。手厚く保護されているのです。国の天然記念物でもあります。
売店で鹿せんべいを買い、鹿に食べさせました。鹿がいっぱい集まってきて楽しかったです。鹿の丸くてコロコロしたフンも可愛いかったです。
そんな幼いときのことなど忘れていたのですが、韓国歴史ドラマ「朱蒙」を見て思い出しました。
また、奈良公園で鹿が多くいる理由を、自分勝手に想像してみました。
「扶余」は鹿を意味する
朱蒙は朝鮮半島北部に高句麗を建国した人物ですが、もともとは中国東北部(満州)にあった「扶余」という国の王子でした。
「扶余」は、ツングース語(中国東北部の言語)で鹿を意味します。日本語に訳せば「鹿」という国名になります。
古代(紀元前107年頃)、中国東北部(朝鮮半島北部?)あたりにいた民族の政権が、前漢に攻められ滅亡寸前でした。しかし、鹿山に逃げ、そこから再起を図り「扶余」を建国したのです。
「鹿山」から再起ができたので、国名が鹿を意味する「扶余」になったのです。そして鹿をトーテムとしました。
扶余が高句麗に併合されたとき、扶余の一部の人々が日本にも渡って、常陸の国(茨城県あたり)も治めたといわれております。
鹿は神の使いとされていた
扶余の子孫の影響を受け、鹿島神宮(茨城県鹿島市)で鹿が飼われるようになったという説があります。扶余では、鹿は聖獣とされていました。
奈良の春日大社が創建されたとき、鹿島神宮の祭神である武甕槌命をを分社するため、鹿島神宮の鹿が春日大社に送られました。
鹿が使者・神鹿(しんろく)となり、武甕槌命を乗せ、伝えたとされています。
途中、下総国の国府にほど近いあたりで、亡くなった鹿がいました。その場所は、今でも東京都江戸川区に「鹿骨」という町名で名が残っています。
その鹿島神宮の子孫の鹿が、現在の奈良公園の鹿たちです。
逆に鹿島神宮の鹿は、なんらかの理由でいなくなりました。現在いる鹿島神宮の鹿は、春日大社から逆に送られた鹿です。
ひとこと
古代朝鮮半島の国・百済は、「扶余」の末裔であることを誇りにしていました。
百済の王の姓は、扶余です。韓国に現在でも扶余という都市がありますが、百済時代に建てられた都です。百済が滅ぶ寸前には、国名を「南扶余」に変えました。
それほど扶余(鹿)という国の子孫であることに誇りを持っていたわけです。
白村江の戦で百済が滅亡した後、日本に多くの百済人が逃げてきました。
日本にきた百済人は、高度な先進知識と技術を持っていたため、たいへん大事にされました。
このあたりも、古くから鹿が大事にされていた理由かもしれません(●^□^●)