曹操の活躍は、日本の文化にも影響を与えた!?

三国志といえば、蜀の諸葛孔明と劉備玄徳が主人公のような感じです。

そして悪役が曹操ですね。

しかし、歴史に与えた影響から見たら、曹操は悪役どころか英雄です。

そして、その影響は、中国だけではなく、時代を経て古代の日本にも及んだのです。

後漢が衰退していたころ、曹操は、蜀や呉と戦うため、兵力の増強の策を考えます。

その策は、それまでの古代中国のどの王朝も、あまり積極的にやらなかったことですが・・・・?

曹操は、騎馬民族を配下にした

なんと曹操は、中国北方の騎馬民族を、積極的に自軍に加えたのです。

秦の始皇帝が建設した万里の長城は、中国北方の騎馬民族の侵入を防ぐためのものです。

中国の王朝は、北方の騎馬民族の略奪に、いつも頭を悩ませてしました。

しかし、後漢が衰退して天下が乱れると、中国北方の袁紹(えん しょう)や董卓(とう たく)が、北方の騎馬民族とともに、勢力を増大させます。

当初、曹操は、敵対勢力の側の騎馬民族と戦いましたが、みごと勝利することができました。

そして、騎馬民族の強さや有用性を見抜いた曹操は、その後、積極的に騎馬民族を配下に置いたのです。

蜀や呉も、曹操のマネをして近くの異民族を、配下に加えました。

漢民族から騎馬民族(異民族)の王朝へ!

蜀、呉、魏の三国時代は、魏の皇位を簒奪した(しん、265年 – 420年)によって、統一されます。

しかし、曹操が多くの騎馬民族を配下にしたため、その影響は後々まで続き、晋は、漢民族と異民族が混在した王朝になりました。

ところが、290年に晋の武帝が無くなると、王室の紛争が発生します。

反乱を起こした諸王は、兵力の不足を補うため、匈奴、鮮卑、氏、羌、羯の五つの異民族を配下に引き入れます。

そして、この五つの異民族と漢民族が混在して争う、五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)がやってきます。

その後、南北朝時代をへて、ふたたび統一王朝が出現します。

隋と唐は、鮮卑族(異民族)の王朝だ!

日本史の教科書にもでてくる(ずい、581年 – 618年)と(とう、618年 – 907年)は、鮮卑族の興した王朝です。日本の飛鳥、奈良、平安時代にあたります。

漢民族は、鮮卑族を野蛮人と蔑んでいましたが、鮮卑族が建てた隋と唐の時代に、科挙律令制度が整備されました。

その先進的な制度が功を奏して、唐王朝は領土拡大とともに文化も発展させます。

なかでも唐の9代皇帝・玄宗(げんそう)の時代、「開元の治」と謳われた、唐の絶頂期が訪れます。

日本は、隋と唐から文化を学んだ

日本は、隋と唐から科挙や律令制度を取り入れました。儒教や仏教も学び、飛鳥文化、白鳳文化、天平文化が花開きました。

曹操が異民族の兵士を率いたことが発端となって、漢民族と騎馬民族の混在文化が

数百年後、日本にも取り入れられたわけです。

奈良や京都にいくと、その面影を感じさせてくれます(^_^)

ひとこと

こうゆう因果関係を考えると切りがありませんが、興味が尽きないで~す♪

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