みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

堀を埋めなければ勝てたかもしれない大阪城?

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先週、NHK大河ドラマ「真田丸」を見ました。

敗色が濃い豊臣方がなんとか勝利をつかもうと、悪戦苦闘していました。

 

誰が言ったか忘れましたが、

「秀頼様は出陣しないのか?」というセリフが印象に残りました。

実際に秀頼は城の中にこもって出陣しません。

 

大阪城の堀も埋められ、兵の数も圧倒的に不足している中で、

いくら豊臣秀頼が出陣しても、まず勝ち目はないと思いました。

 

大阪夏の陣より15年ほど前の関が原の戦で、豊臣秀頼が出陣していたら、かなりの確率で大阪方が勝ったと思います。しかし、大阪夏の陣で豊臣秀頼が出陣しても勝利の確率は、奇跡でも起こらない限り、かなり低いでしょう。

 

関が原の戦のときは、豊臣恩顧の大名が東軍・西軍にも多かったので、秀頼が出陣したら徳川方の東軍は負けていた可能性が強いです。

 

大阪夏の陣では豊臣恩顧の大名も少ないので、秀頼が陣頭に現われても効果は少なかったでしょう。逆に「秀頼の首をとれ」とばかりに東軍の指揮を高めてしまいそうです。

 

 

秀頼の最大の武器は若さだったのか?

 

大阪冬の陣のころには、徳川体制が固められ、逆らう大名や勢力は、一見、存在しないように思われます。

 

しかし、家康は自分の死後も秀頼が生きていれば、江戸幕府は揺らぎかねないと思っていたのは間違いないでしょう。

 

そうでなければ、家康は、ウソや難癖をついたりして、振り構わず豊臣家を潰そうとしないはずです。後に家康は、タヌキ爺といわれるほど評判が悪くなりました。それだけ豊臣家に対して危機感を抱いていたわけです。

 

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家康は自分の老いに焦りを感じていたのだから、大阪方をそこを突けばよかったのではないでしょうか。事実、大阪城の落城後、約二年後、家康は亡くなっています。大阪城は最低でも5年以上は食べていける兵糧(食料)があったといわれています。

 

だから、冬の陣で講和して堀を埋められずに大阪城にこもっていれば、豊臣が勝たないまでも、負けることはなかったかもしれません。そうなると、ふたたび乱世に逆戻りです。秀頼と大阪城が健在のうちに家康が亡くなれば、軟弱な徳川秀忠では難局をのり越えることは難しいからです。

 

秀頼は20代前半の若さです。寿命の戦いでは、家康は秀頼に敵うわけがありません。

 

 

鉄砲のおかげで、力攻めで落ちた城はわずか

 

戦国時代は、鉄砲の普及とともに城は簡単に落城しなくなりました。それまで、功城側の兵数は、城兵の3倍あれば城を落とすことができました。しかし、鉄砲を備えた城は、城兵の10倍以上の兵数が必要といわれています。

 

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そのため、城を落とすためには兵糧攻めかハッタリや威しによる心理作戦が主になりました。城攻めの名人といわれた豊臣秀吉のやり方は、その方法がメインです。秀吉から城攻めのやり方も学んだ家康は、ハッタリや威しによる心理作戦で大阪城を落としたわけです。

 

食料が豊富にある大阪城は、心理作戦に屈せず城とともに死ぬつもりで頑張ったなら、数年は持ち堪えたことでしょう。家康が倒れるまで耐えていればよかったのです。

 

でも、日本が乱世に逆戻りしないためには、大阪城の落城は必要だったのかもしれません。

 

 

ひとこと

 

幕末は、砲弾が爆発する大砲のおかげで、城は無用の長物になりました。高性能の大砲の前では、堀も石垣、城壁も防御の役に立たなったのです。

 

武器の技術の向上とともに戦争の方法が変わっていったわけですが、戦争の起こらない技術のほうを、もっと向上させてほしいですね(●^U^●)