NHK大河ドラマの真田丸が最終回に近づいています。
真田幸村の最後は、徳川軍の本陣を突破して、徳川家康を追い詰めます。
あと少しのところで家康の首がとれる寸前に、徳川軍に行く手を阻まれ、失敗に終わります。
非常に残念に思う場面ですが、もし、徳川家康が死んでいたら、日本はどうなっていたのでしょうか?
ふたたび乱世に逆戻りして、大混乱に陥っていたでしょう。
おそらく日本の歴史は今とは異なり、江戸は、日本の中心地として、あまり発展してなかったかもしれません。
東京も現在の姿ではなかったかもしれません。
・・・・と考えると、大阪で家康が幸村に倒されなくてよかったのか、なんて思ったりします?
東京は人と建物が多すぎますが、いろいろなものが揃っていて便利です。
家康さんのおかげでもあります。
古代からさびれた土地だった江戸?
日本の歴史の中で、徳川家康以外で江戸の土地に、目をつけた人はいるのでしょうか。いなかったと思います。
古代、武蔵野の国府は現在の東京都国分寺市にありました。
江戸に近い下総国府は千葉県市川市にありました。
中世に鎌倉幕府を開いた源頼朝は、神奈川県鎌倉市に幕府を置きました。
戦国時代、関東の大半を支配していた北条氏は、神奈川県小田原市の小田原城を本拠地にしました。
古代から江戸の土地は人気がなかったようです。
そんな中で、徳川家康だけが江戸に魅力を感じたのです。
丘が多いため江戸は人気がなかった?
高層ビルが多いため、あまり目立ちませんが、東京は丘や坂が多いです。
坂のつく地名は740ぐらいあるそうです。
参考:東京23区の坂道
丘の上では川から水を多量に引くことが困難なため、稲は育てにくいです。
平地は海に近く塩水を含んだ土壌のため、稲作に向いていませんでした。
関東ローム層のため土の質もよくありません。
米以外の作物はつくれますが、当時の経済の中心は米でした。
なので、米の石高の上がらない江戸は敬遠されていたようです。
当時の江戸の範囲は、現在の東京23区よりもかなり狭いです。
江戸の境界・範囲は曖昧です。
織田信長と豊臣秀吉から影響を受けた家康
家康は好きこのんで関東に移ったのではありません。
豊臣秀吉が国替えを命じたから、それに従ったのです。
関東移封の前の家康は、三河・遠江・駿河・信濃。甲斐の5カ国で約150万石の領主でした。
関東に移封された家康は、武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国で、約250万石の石高になりました。
約100万石の加増です。
都から遠く離れた関東に、すんなり家康が移封してくれるよう秀吉が気を使ったようです。
関東に本拠地を置く場合、普通なら北条氏の本拠があった小田原城に置きそうな気がしますが、家康は以前からあったオンボロの江戸城を修復して、本城にしました。
山を削り海を埋め立て江戸の町をつくりました。
井戸を掘ると塩水が出てくるので、後に多摩川から水を引く水道工事も行いました。
たいへんな土木事業を行ったわけですが、地獄のような戦に比べれば、それほど苦労とは思わなかったようです。
家康が江戸に固守した理由は、大阪城と大阪の町をモデルにしたからだ、という説が有力です。
大阪城を中心とした大阪の経済発展を目の辺りにした家康は、江戸の地こそ大阪のような発展が望めると考えたのです。
地図でみると、大阪と江戸は少し似ています。湾の奥にあり、いくつかの大河があります。
湾と大河、これによって船舶による交通を活発にすることができます。
各地からの物産を江戸に運んだり、逆に届けることが容易になります。
経済の発展が可能になります。
大阪城のできる前は、その土地に石山本願寺がありました。
織田信長は、長年にわたり石山本願寺を攻め、最後にその地を勝ち取りました。
信長が大阪の土地に固守したのは、経済発展して日本を統一、あるいは海外へ出て行くために、絶対に必要な地と考えたからです。
信長の死後、秀吉が石山本願寺跡に大阪城を建てました。
信長の発想が、秀吉、家康と伝わり、江戸の発展につながり、東京の基礎ができたといえるのではないでしょうか。
ひとこと
こうゆうことを書くと切りがないですね。
最後までお読みくださいまして、ありがとうございます(●´▽`●)