徳川慶喜(最後の将軍)と戦国の毛利輝元の共通点とは?

徳川慶喜と毛利輝元の共通点とは、優柔不断なところです。

味方と敵の間で、どのように戦うのか、あるいは降伏するのか悩み抜いたところが似ています。

この二人は、本音では早く降伏して国、あるいは家の存続を守りたい、と思わせるような行動が目立ちます。

降伏するために、重臣や家来からの不満を押さえるために、苦心していた感じです。

しかし、優柔不断と決めつけるのは偏った見かたではないでしょうか。

良い方にとらえれば、先見の明があった、といえます。

勝てる確率が非常に低い戦をして、国や家を滅ぼすよりも、降伏してそれを避ける道を選択したのです。

『孫子の兵法』に「勝算なきは戦わず」とあります。

武田信玄や織田信長、古代中国の劉邦などの名将は、負けて逃げることが得意でした。

しかし、徳川慶喜と毛利輝元は、おかれた状況が複雑だったため、後に優柔普段の印象を残すことになりました。

昭和初期の日本の軍が、どこかの時点で上手く負けていれば、太平洋戦争の悲劇はおこらなかったでしょう。

そう考えると、徳川慶喜と毛利輝元は、「偉大な負けリーダー」と賞賛されるべきかもしれません?

官軍よりも外国に負けることを恐れた徳川慶喜

幕末、兵の数では圧倒的に幕府は官軍を圧倒していました。しかし、士気と軍備、大義名分では官軍の方が優れていました。

幕府が本気になって攻め、勝てたとしても、欧米列強の植民地になるリスクも高いです。

幕府が官軍に勝ったにせよ負けたにせよ、日本が外国に負ける確率は非常に高くなるのです。

つまり、幕府と官軍との内乱を早く終決させて、日本が外国に対抗できる体制をつくろう、と考えていたのです。

といっても三百年近く続いた幕府を簡単に終わらせては、家臣が納得しません。

家臣を納得させ、徳川幕府の名誉を守りながら降伏するために、徳川慶喜は散々、苦労したのでした。

まわりからは「二心殿」とか、「優柔不断」とか罵られましたが、早期に降伏して、みごと江戸無血開城を成功させ、外国からの侵略の隙をつくりませんでした。

清水宗治の切腹で家臣を納得させた毛利輝元

戦国時代、羽柴秀吉に負けた毛利方の清水宗治は、数万人の見ている前で切腹して、はてました。

水攻めで、湖に浮かぶ高松城から船であらわれ、船上で敵味方、数万の前で自害しました。

普通、切腹は部屋の中か庭でおこないます。数万人の前で腹を切るのは、日本史上、清水宗治だけです。

このとき、本能寺で信長が亡くなったことは、毛利にも家来にも知られていません。

たとえ家来に信長の死去が知られても、負け戦ではなく、勝ち戦であることをアピールするために、こんな前代未聞の切腹大イベントを、秀吉は、おこなったのです。

これは負けた側である毛利輝元にとっても、好都合でした。家臣や家来に降伏することを納得させられるからです。

毛利軍は、三方を敵に囲まれ、強力な織田軍団との戦に兵力財政が限界にきていたのです。

だから天下を制す勢いの織田家に降伏したほうが生き残れる確立が高いと考えていました。

清水宗治の切腹は、降伏をしなければならない状況を、自軍にアピールするための最高の演出です。

これが切っ掛けで、毛利家は江戸末期まで続き、幕末、大活躍することができたのでした。

ひとこと

第二次世界大戦で、無差別爆撃や原爆が投下される前に降伏していれば、日本本土で、あれほど大きな犠牲者はでなかったでしょう。

ですから、徳川慶喜と毛利輝元のように、犠牲を最小減にするための上手い負け方は、優柔不断どころか、やはり賞賛されるべきことと言えそうです。