みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

鎌倉武士は不動産投資家だった!?

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ていると、とても不思議に思うことがあります。

 

なぜ、金も家来もいない、貧乏人の源頼朝に多くの兵が集まり、平家を滅ぼすことができたのか(・・?)

 

ほかの天下を手中にした人物をみると、皆、金持ちで家来もたくさんいました。源頼朝の持っていたものは、「源氏の嫡流」という地位だけ。

 

嫡流ではありませんが、源氏の子孫は、当時の坂東(関東あたり)にはゴロゴロいました。しかも、その源氏の子孫たちは、金も家来も豊富だったのです。

 

しかし、金と家来がたくさんいることが、欠点だったのです。

 

金と家来がたくさんいるということは、それだけ大きな土地をもっていることになるからです。広大な土地をもっていれば、それだけ周囲の豪族からは脅威になります。

 

源頼朝は、絶好の神輿だった

平安末期の当時、現代のように警察も裁判所もありません。武力で土地を奪ったり、奪われたりが頻繁におこなわれていたのです。

 

だから、広大な土地をもつ源氏の子孫は、坂東武者からみれば、協力なライバルです。そんな者を立て、平家打倒のため一致団結しようなどと夢にも思いません。

 

下手したら、平家を打倒する前に、源氏の子孫から、自分の土地を奪われかねません。

 

 

ところが、源頼朝は、兵も土地も何ももっていないのです。これなら安心して、神輿として担ぎ上げ、平家打倒を目指すことができます(´^ё^`)

 

頼朝は、坂東武者を一致団結させるためのシンボルとして、使いやすかったわけですね。

 

当時の武士は、土地の所有権の安定を求めていた

 

当時の武士は、土地の奪い合いに疲れはてていました。権力者から土地の所有権を認めてもらい、安定した地位がほしかったのです。

 

そして、権力者から認めらた土地を増やしていきたいという欲望もありました。

 

つまり、鎌倉武士たちは、不動産投資家としても、投資対象の源頼朝に期待したわけです。

 

 

その不動産投資家(鎌倉武士)たちの目論みは見事に当たり、投資対象の流罪人・源頼朝を将軍にまでお仕立てることに成功したのでした。

 

もちろん、褒美の土地もたくさん与えられ、鎌倉武士は安定と莫大な不動産(土地)を手に入れることができました。

 

北条政子が演説しなくても、御家人は朝廷を倒していた

朝廷が鎌倉幕府を倒そうと計画した承久の乱のときの、北条政子の名演説が有名です。

 

しかし、なにも政子が演説しなくても、鎌倉武士たちは、幕府を裏切らず、朝廷を攻撃したと思います。

 

もし、幕府が滅びれば、鎌倉武士の土地も奪われてしまうか、とても不安定な状態になってしまうからです。

 

米をつくる土地が奪われることは、経済基盤の危機につながります。

 

 

幕府の恩に報いるというより、「自分たちの土地を守る」という意識が強かったことでしょう。

 

当時の武士たちは、朝廷の頼りなさと、いい加減さにウンザリしていたのです。

 

現代の世も、年々、税金が上がり、年金問題、円安、景気の後退など、ウンザリさせられることが多々、あります。

 

そろそろ、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝と鎌倉武士のような存在が現れてきてくれないかと、ボヤきたくなります。

 

いったい、いつになるのでしょうかね(-。-;)

 

ひとこと

空き家投資に興味をもち、不動産関連の本ばかり読んでいると、歴史というのは土地問題が大半占めていることに気づきました。

 

昔も今も不動産が私たちに与える影響は、とても大きいですね(^●∀●^)

 

 

歴史のワンパターンである一神教と多神教の関係??

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よく「歴史は繰り返す」といいますが、これは歴史がワンパターンであるからです。

 

 一神教と多神教の関係も、とてもワンパターンです。人類の歴史は、一神教と多神教が広まったり、融合した歴史であったといえるかもしれません。

 

環境が過酷な状態になると、一神教の神や人などを敬ったり、リーダーとしてたてたりします。

 

子供のころ、隣りのクラスのいじめっ子達がやってくると、クラス内でリーダーを決め、隣りのクラスに対抗しようとします。

 

それと同じです。

 

ヨーロッパの国々は、中国よりも狭い地域に多数の国がありました。隣りの国が攻めてくると、国内でリーダーを決め対抗します。

 

隣国に負けない、より強いリーダーをつくるためには、神格化してカリスマ化する必要がありました。そこから一神教が尊ばれるようになったのです。

 

そして、ヨーロッパ全体が一神教であるキリスト教を信仰するようになりました。

 

ヨーロッパに比較して東洋は、広い地域で自然環境に恵まれていました。ヨーロッパほど環境が過酷ではなかったのです。

 

だから一神教のような強力なリーダーを求めるような信仰は、ある時期まで必要性が低かったのです。

 

もともと多神教の国であった日本も、一時的に一神教が広まった時期が3回ほどありました。

 

いずれも過酷な状況におかれた時でした。

 

 

中国の一神教とは何か

 

中国の三大宗教は、儒教、仏教、道教といわれています。秦の法事国家を除いて、三大宗教が代わる代わる国教として信仰されていました。

 

この中国三大宗教は、神を信仰したりしないので、一神教とはいえない面もありました。

 

ところが、宋の時代、一神教が現れたのです。儒教から派生した朱子学です。中国は世界の中心という中華思想です。それまでの中国三大宗教と違い、たいへん求心力の強い教えでした。

 

西遼、金、西夏などの異民族に圧迫されていた宋は、国内の団結力を強めるため、朱子学を国教としたのでした。

 

しかし、ヨーロッパのように国同士の文明の戦いがおこらなかったため、朱子学のおかげで、進歩が遅れてしまいました。

 

 

日本にも一神教の時代があった

 

飛鳥時代、日本が大陸の唐や新羅の脅威を受けたとき、天皇が誕生しました。神話の時代から天皇は続いていいるのですが、天皇という呼称がつかわれたのが、この時代でした。

 

それまでは、大君とか大王とか呼ばれていたのです。天皇と呼ぶことによって権威を高め、唐や新羅に対抗しようとしたのです。

 

少し一神教に近いですね。

 

ほぼ完璧に一神教に近い時代がありました。戦国時代の浄土真宗です。宗主を生き仏として、阿弥陀仏を拝むことによって西方浄土にいけるとした教えです。

 

戦国の過酷な状況が、浄土真宗を一神教のような信仰に変貌させたのでした。浄土真宗の門徒は、日本のキリシタンとまでよばれています。

 

昭和初期は、天皇を信仰する国家神道なるものが生まれました。これは、まさしく一神教でした。

 

仏教を禁止する廃仏毀釈令がだされ、お寺が破壊されたのです。奈良の興福寺も、この時に壊されました。

 

アメリカやイギリス、中国などを敵にまわしていた日本は、一神教で国内を団結する必要があったのです。

 

いずれにしろ、過酷な状況におかれると、一神教が生まれる傾向にあるわけです。

 

 

ひとこと

 

日本人は、クリスマスはキリスト教、正月は神道、冠婚葬祭は仏教など、特定の宗教にこだわりません。

 

これも、日本が平和なおかげですね。

 

 

信長と光秀は、正直者がバカを見るの典型だった!?

 

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明智光秀が本能寺で、織田信長を殺害した理由について、いろいろな説があります。

 

でも、信長の自殺願望、徳川家康や秀吉の陰謀など、いまいち説得力に欠けます。文書で証拠が残っていないので、しかたありません。想像するしかないのです。

 

しかし、ひとつ言えることがあります。信長が正直すぎたため、周囲から恐れられ、その結果、横死してしまったということです。

 

石山本願寺の宗祖や、キリスト教の宣教師みたいにウソばかり言っていれば、おそらく本能寺の変は起こらなかったでしょう。

 

信長のおこなった政策は、ヨーロッパより数百年、早いものがありました。当然、当時の人々には、理解できないことばかりです。

 

その信長が天下を手中の収めつつあったのです。人々が不安にならないわけがありません。その点を見誤ったといえるでしょう。

 

いや、信長は、そのことをわかっていながら、宗教家のうようなウソを嫌い、真っ正直に突き進んで、自滅したといえるかもしれません。

 

それと、「もう天下をとったも同然だ」というような慢心もあったと思います。

 

もし、信長がウソばかり言っていれば、本能寺の変はおこらなかったかもしれませんね。

 

 

ウソつきが天下をとる

 

権力をつかむためには、ウソが欠かせません。歴史や近年の政治家を見ても、ウソつきが天下をとっています。

 

信長も、もう何年かウソをつき続ければ、天下がとれたことでしょう。

 

当初、信長もウソの名人でした。没落した将軍家の子孫である足利義昭を、京につれていき将軍にしたころは、誰もが信長のウソに騙されました。

 

足利義昭も周囲の人々も、信長が本気で足利幕府を再興するために忠義をつくしたと思ったのです。

 

将軍擁立の大義名分を得た信長は、近畿一帯の広大な領土を手中にすることができました。その後、将軍に利用価値がなくなると、蔑ろにするようになります。

 

このころまでの信長は、ウソのかたまりのような人間でした。

 

ところが、ストレスがそうとう溜まっていたのでしょうか。あるいは油断だったのでしょうか。だんだんウソがつけなくなり、本音をだすようになります。

 

重臣の佐久間信盛や林道勝を追放したり、天皇を蔑ろにする態度をとります。敵や造反者をつくる行動ばかりします。

 

これまで天下をとった人間の行動を見ると、天下をとるまでは、周囲を信用させるため、極力、疑われたり、恐れられたりすることはしません。

 

後の豊臣秀吉や徳川家康をみてもそうです。

 

秀吉は、ギリギリまで織田家再興のために動いているふりをしていました。家康も、関ヶ原で勝利するまで豊臣家への忠義を装っていました。家康は後に「タヌキじじい」というあだなまでつきました。二人とも大ウソつきだったのです。

 

また、家康の場合、豊臣側の大名を信用させ味方にしています。しかし、天下をとった後、それらの大半の大名を取り潰しています。味方に対しても大ウソつきでした。

 

敵を増やさないためには、ウソが大事です。

 

信長も、秀吉や家康と同じようにしていれば、99パーセント天下をとっていたでしょうね。残念!

 

 

光秀もバカ正直だった

 

「走狗煮らる」という言葉があります。ウサギや鳥がいなくなると、猟犬が必要なくなるので、煮て食べしまう、という意味です。

 

光秀は、自分も猟犬のように殺されると思ったのです。

 

すでに佐久間信盛や林道勝が追放されていました。次は自分の番だと思ったのでしょう。

 

天皇を蔑ろにする態度にも反感をもつ人々も多かったのです。それらを味方に引き込み、さらに反織田勢力と手を組めば、もしかしたら謀反が成功するかも、と考えたのかもしれません。

 

しかし、結果的に秀吉に天下を譲ることになってしまいました。

 

本能寺の変は、光秀が天下に「私は謀反人です」と正直に宣言したのも同じです。つまり、正直なため、天下を敵にまわすことになります。

 

バカ正直に謀反をおこした光秀が、ウソつきの秀吉に漁夫の利をとられてしまったのでした。

 

秀吉は、毛利に、信長が生きているような大ウソをついて、逃げてきたのです。

 

ある意味、信長も光秀も、正直者がバカを見るの典型だったかもしれませんね。

 

 

ひとこと

 

心に思ったことを、考えもせず、そのまま言葉や行動に移すとろくなことがありません。

 

常に自分の心や感情をコントロールすることが大事です。・・・・と思っても、なかなか難しいですね。

 

「信長とフロイスの対話」を書いて、一神教と多神教の面白さがわかった!!

 

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 小説「信長とフロイスの対話」は、一神教であるキリスト教と多神教のような仏教(?)について、信長とフロイスが、議論をしている小説です。

 

一神教と多神教というと、とてもつまらない感じがしますが、そうではないのです。

 

私も、神に話は、つまらないと思っていたのですが、小説を書き終わった後、そうでもないと思いました。

 

一神教と多神教が歴史に与えた影響は、なかなか興味深いです。

 

歴史の教科書やうんちく本を読むと、いろいろ書かれています。しかし、私なりに一神教と多神教の関係をとらえることができたのです。

 

・・・・と、一人で自己満足して喜んでいます。

 

 

西洋は原理主義と現実主義のバランスが良かった

 

一神教の原理主義の欠点は、一度、決められた教えが間違っていても、それを認めないことです。

 

原理主義に陥ると、自己犠牲や他人を犠牲にすることを正義とする信念ができてしまいます。古い話ですが、浅間山山荘事件や地下鉄サリン事件など、まさにそうでした。

 

西洋の魔女裁判や地動説への迫害など、数え切れないほどあります。

 

近年でも、電気理論で有名な、オームが発見した「オームの法則」も、神への冒涜といわれ、迫害されたのです。

 

だから一神教の原理主義は、とてつもない悪だ、という気がしてきますが、ヨーロッパではそうでもなかったのです。

 

なぜならば、原理主義を修正する機能があったからです。その機能とは、西洋の狭い地域にある多数の国々です。

 

ある国が一神教の原理主義に陥り、国力が衰退すると、他国から攻められ、負けたりします。

 

つまり、痛い目に合うのです。

 

痛い目に合った国は、反省して、「一神教の原理主義」ではダメだとなります。原理主義から「現実主義」になるのです。そして改革がおこります。

 

西洋は、常に国同士で反省したり欠点を教えあったりすることができたのです。

 

なので西洋は、一神教の原理主義にもかかわらず、長期的には原理主義に陥らず、現実を改革して、やがて産業革命を成しとげます。大いに発展することができました。

 

一神教の原理主義の長所は、ひとつの目標にむけて多くの人々を糾合できる点です。

 

西洋は、原理主義と現実主義のバランスが絶妙にコントロールされていたといえましょう。

 

 

多神教の東洋は、長期的には一神教の原理主義になった

 

西洋と逆の発展をしたのが東洋です。

 

中国や朝鮮は、もともとは多神教の国です。しかし、最後は、「中華思想」という一神教みたいな原理主義に陥ります。

 

具体的には、中華思想を賛美する朱子学の原理主義国家となります。

 

19世紀、中国、朝鮮は、自分達は世界の中心であるという原理主義から抜け出せなかったのです。西洋と違い、現実に目をむけることができなかったのです。

 

だから、当時の西洋列強に対抗することができず、領土を蚕食されました。

 

この原因は、中国、朝鮮は、西洋のような原理主義を修正する機能がなかったからです。西洋に比べると、平野が多く、多くの国が併存しにくい環境にあったことも一因でしょう。

 

現実主義よりも原理主義が優勢なまま、19世紀をむかえてしまい、西洋に大きく遅れをとってしまったのです。

 

日本は、島国だったので、中国や朝鮮の影響を受けず、原理主義よりも現実主義が優勢でした。なので明治維新をなしとげ、西洋の侵略を防ぐことができたのでしょう。

 

 

ひとこと

 

小説やブログ書いたり、本を読んだりすると、どんどん書きたいテーマが浮かんできます。

 

時間ができたら書きまくろうと思います。

 

こうしてブログに書くと、備忘録や小説を書くときの資料にもなります。ブログと小説の併用って、なかなか便利です。

  

小説を書くコツが少しわかった!?信長とフロイスの対話を小説にしてみた!!

 

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六冊目の小説「信長とフロイスの対話」をAmazon電子書籍に出版しました。

 

13ページしかないので、超短編小説です。長い物語にしたかったのですが、やはり無理でした。途中で力つきてしまいました。

 

プロの小説家は、膨大な書籍や資料を集めてから小説を書くそうです。私の場合、ネットでちょこちょこ調べる程度なので、長く書けるわけがありません。

 

あくまで仕事の合間の趣味として書いているので、仕方ありません。

 

でも、電子書籍のいいところは、後から書き足したり修正ができる点です。六冊の電子書籍を、暇なときに書き足していきたいと思います。

 

 

ヘタウマ小説を書くコツがわかった

 

よく紙に書いたことが実現するといわれています。私の場合、書いていると、いろいろなことに気づき、あれも書きたい、これも書きたいというアイデアが生まれます。

 

不思議なものです。

 

しかし、文章は、自分ながらにとても下手くそだと思っています。最初は、恥ずかしくて、Amazonに出版する気にはなれませんでした。

 

ところが、コツがあったのです。

 

それは、下手くそでもとにかく書いてみて、何度も読み返すことです。他人の文章を読む感覚であら探しをします。そして、修正をします。

 

時間がかかりますが、これをやると、かなり、まともな文章になっていきます。もちろん、自己満足の範囲でですが。

 

昔の小説家は、紙の原稿用紙に書いていましたから、こんなことはできません。今は、ワードか一太郎で簡単にできてしまいます。

 

ブログで書くのもいいですが、電子書籍は違った意味での楽しさがあります。

 

 

売れる工夫をしてみたい

 

しかし、たくさんの人に読んでもらわなければ楽しくありません。

 

一冊目を無料キャンペーンで出版したら、何千人もの人が読んでくれました。二冊目からは数百人が数十人という落ち込みようです。

 

電子書籍を出版する人が増えているせいかもしれません。あるいは、私の小説の内容が不評のせいかもしれません。

 

二冊目からは極端に短い小説になってしまったので、それが原因かもしれません。徐々にページ数を増やして、他の小説HP、「KOBO」や「小説家になろう」にも投稿したいと思います。

 

今は更新が休みがちなブログですが、ブログで宣伝するのもよさそうです。時間ができたら挑戦したいです。

 

 

ひとこと

 

電子書籍は、ブログを書くよりも時間がかかりますが、楽しいです。今後も続けていきたい趣味です。

 

 

   

鑑真の使命とは何か!?天台宗を伝えるために日本にきたのか?

  

 

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ブログは長いことお休みしていましたが、短編歴史小説を三冊書きました。

 

その中の一つ「鑑真の使命」は、我ながらに斬新な内容だと自己満足しています。でも、他人からみたら、アホだと思われるかもしれません。

 

鑑真は、戒律を説く律宗を日本に伝えたことで有名ですが、私は、絶対に天台宗を伝えにきたと思っています。

 

ところがネットや書籍を見てみると、律宗をメインに伝えにきて、天台宗はオマケで日本に持ち込んだ感じで書かれています。

 

絶対に違うと思います。

 

なぜならば、律宗は、会社でいえば就業規則のような教えだからです。勤務時間や休日、無断欠勤はいけない、セクハラもいけない、などというような細々とした規則が説かれているからです。

 

就業規則のような、つまらない教えを、命をかけてまで鑑真が日本へ伝えようとするでしょうか。

 

やはり社運をかけた極秘事項のようなものでないと、なかなか、あそこまで頑張れないと思います。

 

ちなみに仏教の代表的な戒律の五戒は、不殺生戒(生き物を故意に殺してはならない)、不偸盗戒(他人のものを盗んではいけない)、不邪婬戒(不道徳な性行為を行ってはならな)、不妄語戒(嘘をついてはいけない)、不飲酒戒(酒類を飲んではならない)・・・・・・などです。

 

お酒を飲んではいけないというのは、ちょっといやですね。実際は、酒のことを般若湯といってお坊さんはガブガブ飲んでいたそうです。

 

不道徳な性行為もかなり行っていました。これはあまり気持ちよくないので書かないことにします。

 

 

律宗よりも天台宗のほうが歴史に与えた影響が大きい

 

そうなんです。律宗は、比較的、影響力が非常に小さい宗派とも言えます。私の家の付近はおろか、どこへ行っても律宗の寺を見たことがありません。

 

それに比べると、天台宗と天台宗から派生した浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺院の数はメチャクチャ多いです。

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それだけ天台宗の影響力が強かったことを物語っています。織田信長が争った宗派も天台宗、浄土真宗、日蓮宗などです。

 

戦国時代、この三宗派は巨大な暴力集団と化していました。ときに戦国大名以上の軍事力をもち、恐れられていました。

 

天台宗は、良い面でも悪い面でも歴史に大きな影響を与えたのです。

 

 

宗教は水や火と同じだ

 

水や火と同じで、利用の仕方で善にも悪にもなります。

 

火を誤って利用すると火傷や火事の災難を起こします。暖防や灯り、料理、風呂などに利用すれば恩恵をもたらします。

 

宗教もおなじではないか・・・・・と思っているのですが、これがなかなか難しい。

 

というのも宗教は、とても抽象的だからです。人によって、どのようにでも、とらえることができます。だいたい自分の都合のよいように解釈することが多いのではないでしょうか。

 

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だから天台宗からも土宗、浄土真宗、日蓮宗などの宗派が派生して、さらに孫やひ孫の宗派まで派生していきました。

 

あらゆる面で日本の宗教界に大きな影響を与えた天台宗は、それだけ価値のある教えなんだといえるのではないでしょうか。

 

そう考えると、やはり鑑真は天台宗を日本に伝えにきたと思ってしまいます。

 

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ひとこと

 

そもそも人間の心自体が、とても抽象的ですね。

幕末、薩摩藩と関東の不思議な関係とは???

 

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九州の薩摩藩(鹿児島県)と、関東は、いくつか共通点があります。

 

まず、薩摩藩の鹿児島神宮と、関東の鹿島神宮です。名前が似ていますね。

 

偶然、名前が似たわけではなく、同じ国の先祖が建てた神宮だ、という説があります。

 

その先祖とは、現在の中国東北部にあった扶余(紀元前4世紀-494年)という国の人たちのことです。

 

扶余は国名ですが、鹿のことを扶余(プヨ)と呼びました。

 

 

扶余の子孫が日本にわたってきた

 

ロシア国内に住んでいるエベンキ族は、アマリカ・インディアンや東アジア人のルーツのひとつといわれています。

 

エベンキ族は、鹿の一種であるトナカイを主食にしていました。凍ったトナカイの肉を食べていたため、アゴが頑丈になり、エラのはった顔立ちになりました。

 

韓国にエラの張った顔の人が多いのも、エベンキ族の血が流れているせいかもしれませんね。

 

また、トナカイを崇拝するエベンキ族の習慣が、中国東北部の扶余という国に伝わりました

 

扶余は、古代、中国の漢王朝に攻められ、滅亡寸前のとき、鹿山という地で再起をはかり、漢の兵を追い払うことができたのです。

 

そして、鹿山の地から鹿をとって、扶余(鹿)という国を建国しました。また、鹿は神の使いとして尊び、好んで鹿を飼っていました。

 

また、扶余の子孫が日本にわたってきて、鹿児島神宮や鹿島神宮を建てた、といわれているのです。

 

つまり、扶余の子孫が鹿を尊んでいたから、「鹿」を神宮の名前に使ったわけです。

 

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春日大社にも、神の使いとして鹿が飼われています。春日大社を創建した藤原氏が、扶余の子孫だからだ、という説があります。

 

日本における扶余の影響力は、意外に大きいようです。

 

 

武の地であり、革命の地であった

 

扶余の人は、体が大きく、武術に優れた人が多く、中国の漢王朝に対する反骨精神が強かったのです。

 

そのせいなのかどうなのか、日本では、薩摩と関東から革命が起こっています。薩摩は幕末ですが、関東では、平安時代、平将門の乱、源頼朝の挙兵が勃発しました。

 

関東の水戸藩でも、御三家であるのにもかかわらず、幕末、討幕活動が盛んでした

 

中央政府に対して反発しやすい土地柄といえるかもしれません。 

 

朝廷や幕府に対する反骨精神にあふれていました。

 

 

薩摩と鹿島の不思議な因縁

 

薩摩と関東の鹿島は、距離的には遠く離れていますが、不思議な因縁で結ばれています。

 

それは、一撃必殺の剣術です。

 

日本は島国のためか、切腹とか一撃必殺という言葉が好きです。中国や朝鮮など大陸の国では、あまりもちいられません。

 

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大陸は広いので、逃げるところがたくさんあるが、島国の日本は狭いので、逃げる場所が少ないです。

 

だから、切腹とか一撃必殺という言葉が生まれたのかもしれません。

 

いずれにしろ一撃必殺の剣術が、幕末、大活躍するのです。

 

古来から、薩摩や関東(坂東)の武士は、扶余の人と同じく体格がすぐれていました。

 

その強靭な体躯から、一撃で相手をしとめる必殺の剣が、関東の鹿島香取の地で生まれたのです。

 

関東の鹿島で創始された天真正自顕流が、薩摩に伝わり、示現流や薬丸自顕流とに分かれました。

 

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とくに、薩摩、薬丸自顕流の志士は、幕末、大暴れします。「明治維新は、薬丸流でたたきあげた」といわれたほどです。

 

日本の南と東にわかれた扶余の子孫の影響が、幕末にまで及んだかのようです。

 

 

ひとこと

 

薩摩は芋、水戸は納豆が有名です。

 

これは、まったく関係がなさそうですね(*^▽^*)

 

 

毛利敬親と島津斉彬は、まるで正反対だった?

 

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薩摩藩の島津斉彬と長州藩の毛利敬親は、まさに対照的な殿様でした。

 

島津斉彬は、カリスマ的なリーダーシップで薩摩藩を近代化せさ、幕府に対抗しようとしました。

 

一方、毛利敬親は家臣の言い成りで、リーダーシップのかけらもない人物でした。

 

あだ名も「そうせい候」といわれ、家臣が意見を述べると、「そうせい」と言って、自分の考えを入れず承諾していたのです。

 

幕末、斉彬は49歳で、突然、病死します。暗殺の疑いが濃いです。しかし敬親は、明治維新後も生きのびて、左近衛権中将に任ぜられました。

 

維新後、「そうせい」と家臣の言い成りになっていなければ、自分は暗殺されていただろう、と敬親は語っていたそうです。

 

まるでリーダーシップの有無が、この二人の殿様の運命を決めたかのようです?

 

 

毛利家の殿様は、なぜ権力が弱かったのか

 

戦国時代、安芸国高田郡吉田荘の3000石から5000石ほどだった毛利氏を、中国八カ国の約170万石まで領土を拡大させたのが、毛利元就です。

 

じつに数百倍に領土を拡大させたのですから、たいしたものです。

 

ところが元就の場合、戦で勝ち取ったというよりも、養子縁組謀略をメインにして領土を拡大しました。

 

養子縁組で得た領土がやたらと多いので、当然、広大な領地を持つ親族の家臣が多くなりました。

 

元就の孫である輝元が毛利家を継いだときは、川と小早川の叔父が実権を握っていました。

 

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また、輝元の叔母の嫁次先である宍戸家も重臣として、大きな力を持っていました。

 

だから輝元の代で、相対的に殿様の力が弱まっていきます。

 

そして関が原での敗戦が、さらに殿様の力を弱めました。約170万石から約36万石へと領地が削られたからです。

 

大勢の家臣を養うためには、殿様の直轄地も減らさざるおえません。殿様と家臣の領地の差が少なくなります。

 

それによって、毛利家の殿様は、ときには家臣の操り人形と化することもありました。

 

 

薩摩の殿様は強力な権力をもっていた

 

小領主の毛利家とは違い、戦国時代、島津家は大きな領地の大名としてスタートしました。

 

平安時代、九州の島津荘の荘官として、島津家の先祖・惟宗広言が下り勢力を拡大します。

 

鎌倉時代になると、初めて島津氏を称した島津忠久が、源頼朝から薩摩国・大隅国・日向国の3国の領地をもらったのです。

 

そして戦国時代も島津家の殿様は、由緒ある家柄と広大な直轄地を有していました。だから相対的に殿様の力が強かったのです。

 

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強力な権力をもつ島津家の殿様は、いくつもの敵国を破り、領地をどんどん拡大すしました。

 

関が原での敗戦でも、島津家は強気の姿勢で徳川家康と対抗して、領土を減らされません。

 

九州の最南端で、徳川側の勢力が攻めにくいという地理的な利点にも恵まれていました。

 

だから優柔不断な殿様が多かった毛利家とは違い、「島津にバカ殿なし」と言われるぐらい、優秀で強力なリーダーシップをもつ殿様が代々、輩出されたのです。

 

 

ひとこと

 

表面的には操り人形の毛利敬親でしたが、裏では高杉晋作や伊藤俊輔(後の伊藤博文)など開国派の人材を登用し活躍させ、倒幕の功労者としても有名です。

 

能ある鷹は爪を隠すというコトワザがありますが、「そうせい候」として敬親は、爪を隠していたのかもしれませんね。

 

( ̄ー ̄)ニヤリッ

 

 

豊臣秀吉の晩年は、カゴの中のサルみたいだった(´∀`)??

 

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以前、ペットショップでサルがカゴに入れられて販売されているのを、見たことがあります。

 

そのとき、晩年の豊臣秀吉を思い出しました。

 

天下というカゴに入れられ、苦悶する秀吉が浮かんできました。

 

天下をとったあたりまでの秀吉は、まさに絶好調で、自然のなかでたくましく生きる野猿のようでした。

 

ところが関白となった天下人から、だんだんサエない老人になっていきます。

 

まるで目に見えない天下というカゴが秀吉を、かんじがらめにしていたみたいです。

 

天下人として行き詰まりを感じていた秀吉は、人が変わったように残忍で衝動的な行為をおこないます。

 

何者かに「猿」と石に落書きされただけで怒り、多くの民や家来を処刑したりします。茶道の師である千利休や、甥の秀次とその家族も大勢、殺害しました。

 

そして無謀な明攻めで、多くの犠牲者をだしました。

 

 

ほころびだらけの秀吉の天下

 

なぜ、秀吉は晩年、おかしくなってしまったのでしょうか。

 

理由は簡単です。天下をとった後のことを考えないで、天下をとってしまったからです。

 

といっても、別に秀吉が好きこのんで、手抜きして天下をとったわけではありません。

 

信長亡き後、内外の敵に囲まれた秀吉は、「手抜き天下」をとるしかなかったのです。

 

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そうしなければ、他の勢力に秀吉は滅ぼされていたでしょう。

 

とても信長が目指した強固な天下をつくることは無理だったのです。

 

だから、島津や毛利、上杉、徳川などに大きな領土を与えてしまいました。また、時代に逆行するような行為である、朝廷の官位である関白になってしまいました。

 

これでは秀吉一代限りの天下になってしまうのは、目に見えてしまいます。

 

急いで、棚からぼたもち天下をとったため、ほころびだらけの天下となってしまったのです。

 

 

織田信長は天下の運営にも重点を置いた

 

信長は、少年のころから日本の様子がわかっていたようでした。

 

なぜ、戦が起こり、国が乱れるのか、その原因を、信長なりに理解していたようです。

 

富の不平等によって、争いが起きる、と考えていたのかもしれません。米経済の限界が争いを生じさせているとも思っていたかもしれません。

 

そのためには、すぐれた中央集権的な体制が必要です。島国の日本ならば、可能です。

 

だから信長は、最大の敵、石山本願寺を十年もかけて倒しました。

 

石山本願寺と戦わないで、天下を目指すことも可能だったのですが、それでは宗教勢力と妥協した軟弱な天下しかとれません。

 

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同じように他の戦国大名と、妥協してつくる天下も望みませんでした。

 

島津や毛利、上杉などの大きな勢力は、武田と同じように滅ぼすつもりでした。同盟関係の徳川も、いずれ領地を削り家臣にするつもりでした。

 

そこまでしなければ、真の天下人として、力が発揮できなったことでしょう。

 

しかし秀吉は、軟弱な体制の天下人ではありましたが、信長亡き後、戦乱に終止符をうつことに成功しました。

 

そして、軟弱で混乱した秀吉の天下を家康が継承して、250年の戦乱のない時代がやってきたのです。

 

秀吉は、つなぎ役としての仕事を、みごとにこなしたと言えましょう。

 

 

ひとこと

 

晩年の秀吉は、カゴのすき間から手をだして、とれない果実である明(中国)をとろうとしていたみたいですね。

(○●^▽^●○)./

   

 

徳川慶喜(最後の将軍)と戦国の毛利輝元の共通点とは?

 

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徳川慶喜と毛利輝元の共通点とは、優柔不断なところです。

 

味方と敵の間で、どのように戦うのか、あるいは降伏するのか悩み抜いたところが似ています。

 

この二人は、本音では早く降伏して国、あるいは家の存続を守りたい、と思わせるような行動が目立ちます。

 

降伏するために、重臣や家来からの不満を押さえるために、苦心していた感じです。

 

しかし、優柔不断と決めつけるのは偏った見かたではないでしょうか。

 

良い方にとらえれば、先見の明があった、といえます。

 

勝てる確率が非常に低い戦をして、国や家を滅ぼすよりも、降伏してそれを避ける道を選択したのです。

 

『孫子の兵法』に「勝算なきは戦わず」とあります。

 

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武田信玄や織田信長、古代中国の劉邦などの名将は、負けて逃げることが得意でした。

 

しかし、徳川慶喜と毛利輝元は、おかれた状況が複雑だったため、後に優柔普段の印象を残すことになりました。

 

昭和初期の日本の軍が、どこかの時点で上手く負けていれば、太平洋戦争の悲劇はおこらなかったでしょう。

 

そう考えると、徳川慶喜と毛利輝元は、「偉大な負けリーダー」と賞賛されるべきかもしれません?

 

 

官軍よりも外国に負けることを恐れた徳川慶喜

 

幕末、兵の数では圧倒的に幕府は官軍を圧倒していました。しかし、士気と軍備、大義名分では官軍の方が優れていました。

 

幕府が本気になって攻め、勝てたとしても、欧米列強の植民地になるリスクも高いです。

 

幕府が官軍に勝ったにせよ負けたにせよ、日本が外国に負ける確率は非常に高くなるのです。

 

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つまり、幕府と官軍との内乱を早く終決させて、日本が外国に対抗できる体制をつくろう、と考えていたのです。

 

といっても三百年近く続いた幕府を簡単に終わらせては、家臣が納得しません。

 

家臣を納得させ、徳川幕府の名誉を守りながら降伏するために、徳川慶喜は散々、苦労したのでした。

 

まわりからは「二心殿」とか、「優柔不断」とか罵られましたが、早期に降伏して、みごと江戸無血開城を成功させ、外国からの侵略の隙をつくりませんでした。

 

 

清水宗治の切腹で家臣を納得させた毛利輝元

 

戦国時代、羽柴秀吉に負けた毛利方の清水宗治は、数万人の見ている前で切腹して、はてました。

 

水攻めで、湖に浮かぶ高松城から船であらわれ、船上で敵味方、数万の前で自害しました。

 

普通、切腹は部屋の中か庭でおこないます。数万人の前で腹を切るのは、日本史上、清水宗治だけです。

 

このとき、本能寺で信長が亡くなったことは、毛利にも家来にも知られていません。

 

たとえ家来に信長の死去が知られても、負け戦ではなく、勝ち戦であることをアピールするために、こんな前代未聞の切腹大イベントを、秀吉は、おこなったのです。

 

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これは負けた側である毛利輝元にとっても、好都合でした。家臣や家来に降伏することを納得させられるからです。

 

毛利軍は、三方を敵に囲まれ、強力な織田軍団との戦に兵力財政が限界にきていたのです。

 

だから天下を制す勢いの織田家に降伏したほうが生き残れる確立が高いと考えていました。

 

清水宗治の切腹は、降伏をしなければならない状況を、自軍にアピールするための最高の演出です。

 

これが切っ掛けで、毛利家は江戸末期まで続き、幕末、大活躍することができたのでした。

 

 

ひとこと

 

第二次世界大戦で、無差別爆撃や原爆が投下される前に降伏していれば、日本本土で、あれほど大きな犠牲者はでなかったでしょう。

 

ですから、徳川慶喜と毛利輝元のように、犠牲を最小減にするための上手い負け方は、優柔不断どころか、やはり賞賛されるべきことと言えそうです・

(●>∀<)!!!

 

 

幕末、なぜ日本は開国して西洋の侵略を防げたのか?

 

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幕末、日本が外国の植民地にならず、明治維新を成功させました。

 

東南アジアや東アジアの中で、唯一、日本だけが近代化を成し遂げたのです。

 

中華文明を誇る清や朝鮮も西洋から領土を蚕食、あるいは植民地化されました。鎖国が大きな原因と言われています。

 

ところが日本も、当初、圧倒的な西洋との軍事力の差を知りながら、なかなか開国することができませんでした。

 

もちろん、開国派の勢力もいましたが、鎖国派(攘夷派)から比較すると、僅かでした。

 

「攘夷だ!」という声が圧倒していたのです。

 

「攘夷」とは、「尊王攘夷」を略した言葉です。天皇を尊び、夷人(外国人)を攘(はら)うという意味です。

 

つまり西洋列強を、やっつけて追い払え、ということです。

 

幕府も攘夷派でした。しかし、当時の幕府は、西洋に武力で脅されて不平等な条約を結んでしまいました。

 

幕府が部分的に開国していましたが、朝廷や薩摩藩、長州藩などを中心として、攘夷派が圧倒的多数だったのです。

 

幕府の西洋列強に対する弱腰にも、不満が日本中に鬱積していました。

 

 

薩摩藩とイギリスの戦争で、開国へ向かった日本

 

当時、長州藩は西洋4カ国艦隊にボロクソに負けていたのにもかかわらず、熱狂的に攘夷をおこなっていました。

 

また、もともと薩摩藩も攘夷派でした。

 

朝廷も攘夷派なので、朝廷と薩摩藩は、西洋の脅しに屈して、弱体化した幕府を倒そうと画策していました。

 

しかし、薩摩藩は、ある日、突然、開国派になってしまったのです。

 

切っ掛けは、イギリスとの戦争で、西洋の軍事力の凄さを知ったからです。

 

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イギリスと講和に持ち込むことができましたが、薩摩藩の被害は甚大でした。

 

薩摩藩主の父で実権を握っていた島津久光の命(めい)により、薩摩藩は開国派となったのです。

 

そして、長州藩も開国派が実権を握り、薩摩藩と同盟します。薩長同盟(さっちょうどうめい)です。

 

薩摩藩と長州藩の二大勢力が中心となり、日本は開国の方向へ舵を切ることができたのです。

 

開国によって日本は、西洋の高度な武器やノウハウを輸入して、西洋列強に対抗できるようになりました。

 

 

人材と運に恵まれていた日本

 

日本を植民地、あるいはそれに近い状態にしようとして、西洋列強は、日本にやってきました。

 

しかし、武器やノウハウを日本に与えることによって、結局、それができなくなったのです。

 

ある意味、西洋列強は間が抜けているようですが、日本に優秀な人材がいたことと、運にも恵まれていたおかげ、とも言えます。

 

西郷隆盛や勝海舟による江戸城の無血開城や、マイナスの英雄といわれる将軍・徳川慶喜など多くの人材の活躍がありました。

 

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日本があまりにも早く倒幕をして、明治維新を成功させたので、西洋列強はなにもできなかったのです。

 

また、アメリカは国内で南北戦争が勃発して、日本にかまっていられなくなりました。

 

他の西洋列強もそれぞれ事情をかかえるようになり、遠い極東の日本に力が入れられなくなります。

 

幕末、日本は人材に恵まれていた、と言えましょう。

 

 

ひとこと

 

当時、日本が他のアジアの国と違うことに、西洋列強はとても驚いていたそうです。

 

変わった国だと思っていたらしいです(●^□^●)

 

 

チンギス・ハンも仮想通貨のようなお金を使っていた???

 

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最近、仮想通貨のことばかり書くようになりました。

 

別に仮想通貨がそれほど好きなわけではありません。

 

まわりが「ビットコインだ。仮想通貨だ」と騒いでいるから、知らないうちに影響されたみたいです?

 

でも、人類の歴史は、通貨とともに発展した、とも言えます。

 

日本の縄文時代は、自給自足と物々交換をしていましたが、弥生時代から少しずつ米が通貨の役割をするようになります。

 

やがて金や銀、銅銭が通貨として利用され、経済活動が活発化して、生活が便利になります。

 

そして、デジタル暗号でつくられた仮想通貨が現われ、今後、どうなるのでしょうか?

 

 

モンゴル人はヒツジをお金にしていた?

 

大帝国を築いたチンギス・ハンのモンゴル国は、税金をヒツジで徴収していました。

ヒツジ100頭につき2頭が税金として、ハン(王)に収められていたのです。

 

つまり税金が2パーセントだったのです。ずいぶん安いですね。

 

でも、考えてみれば当時のモンゴル人は、ほとんど遊牧民です。公共施設や福祉で多額の金を使うこともなかったと考えられます。税金が2パーセントでも十分だったのでしょう。

 

ヒツジが通貨として利用されていたので、まさに「生きたお金」ですね。

 

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生きたヒツジの他にも、毛皮や干し肉、胡椒、鉄などの物々交換もありました。

 

ところが、チンギス・ハンがモンゴル高原を統一して、領土が拡大していくと、生きたヒツジや物々交換では、経済がまわらなくなります。

 

当然、金や銀、銅などを通貨として使うようになりました。

 

紙のお金である不換紙幣を発明した?

 

金や銀、銅などの通貨は量に限りがあります。とくに金は採掘できる量が少ないため、価値が高かったのです。現在も金は貴重品ですね。

 

だから、金を基準に貨幣はつくられていました。銀や銅の貨幣は金と交換できる単位で発行されていたのです。

 

しかし、金や銀、銅の貨幣は製造コストがかかり、重いため不便です。

 

そこで、モンゴル帝国が滅ぼした金国や宋国でつかわれていた「交鈔(こうしょう)」という紙幣を発行しました。

 

紙幣は、文字どおり、紙でつくられてお金です。しかし、金や銀と交換できることがモンゴル帝位国によって保障されています。これを「兌換紙幣」といいます。

 

しかし、中東やヨーロッパまで領土が広がると、交換できる金や銀の量が不足するようになりました。

 

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そこで考え出されたのが、「不換紙幣」です。金や銀と交換できない紙幣です。モンゴル帝位国の信用だけで発行された紙幣です。

 

この不換紙幣で、税金の支払いやあらゆる取引ができるようになりました。

 

当時の人々は、この不換紙幣を、現在の仮想通貨のような感じで利用していたかもしれません。

 

最初のころは、とても不安だったことでしょう(´Д`q汗)。

 

実際、モンゴル帝国が内乱などで不安定になると、たちまち不換紙幣の信用は落ち、紙くずとなりました。

 

ふたたび、金や銀を貨幣として使うか、金や銀との交換が保障された兌換紙幣が使われるようになったのです。

 

 

ひとこと

 

日本では1942年に不換紙幣が発行されました。しかし世界では、兌換紙幣が主流でした。

 

不換紙幣が世界の主流になったのは、1971年のニクソン・ショックあたりからだといわれています。

 

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それまで金との兌換(交換)が保障されたアメリカドルでしたが、金との兌換(交換)が廃止され、不換紙幣となったのです。

 

それからプラザ合意をへて、アジア通貨危機や日本のバブル崩壊など、大きな経済変動がありました。

 

ビットコインなどの仮想通貨も、なにかやらかしそうですね(●´∀`●)

 

 

幕末の米(こめ)経済終焉と仮想通貨(*´д`)??

 

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私は自営業なので会計事務所のお世話になっています。昨年の秋から自分でも多少処理ができるよう、会計の勉強に力を入れたため、ブログ更新を休んでいました。

 

会計ソフトや簿記の勉強が一段落したので、また記事を、時々、更新します。

 

その手始めに、NHK大河ドラマ「西郷どん」に少し関連することを書きました。

 

あたり前ですが、「西郷どん」の時代は幕末なので、刀を差し、ちょんまげ、着物姿の人がいます。欧米に遅れをとっていた日本が、近代化を成し遂げた大変革の時代でした。

 

また、古来から続いた「米の経済」が終焉し、本格的な「貨幣経済」が始まった時代ではないかと思いました(・・?)。

 

昨年は「仮想通貨元年」と騒がれたりしましたが、「西郷どん」の時代と今の時代が似通っている気もしました。

 

「世界の基軸通貨になる」とか「大暴落する」、「投資のマネーだ」、「決済や書類の電子ツールだ」、「そのうち規制が厳しくなる」とかいろいろいわれており、仮想通貨はこの先、どのようになるのでしょうか?

 

でも、やはり興味があるので、私は、いくつかの仮想通貨販売所(取引所)に登録をしました。お小遣いも稼ぎたいです。

 

 

幕末、米(こめ)経済で武士は困窮していた

 

加賀100万石や伊達60万石とかいわれていたように、江戸時代は米(こめ)経済が主流でした。武士の給料も米で払っていたのです。

 

江戸時代初期までは米の経済で問題はなかったのですが、だんだん、おかしくなってきました。

 

徳川幕府が日本を治めてから戦のない平和な時代が続きました。農民は農作業に専念できるようになったため、米の生産量が増えていきます。

 

一方、鉱山の開発が盛んになり、銅銭の寛永通寶が発行されるようになりました。これによって貨幣による取引も活発になったのです。

 

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米の生産量は増えたおかげで、米の価値が下がります。米で給料をもらっていた武士は、貧しくなり、傘張りのアルバイトに手を染める侍(さむらい)もいました。

 

家臣の武士だけではありません。大名も商人から借金をしたりして、困窮していました。

 

江戸時代の後半は、米(こめ)経済の欠点により、国の体制時代がガタガタになりかけていたのでした。

 

 

鎖国のため貨幣経済が発達しなかった?

 

江戸幕府は、このような日本の経済状況に手をこまねいて見ていたわけではありません。米経済から貨幣経済への移行に取り組んだりもしました。

 

しかし、鎖国のおかげで、工業や貿易も未発達な日本では、完全な貨幣経済は無理でした。

 

貨幣の価値を下げて米の価値を上げよう、という試みも行われました。金の量を減らした小判を大量に発行して、貨幣の価値を下げようとしたのです。つまりインフレにしようとしたわけです。

 

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また、先物取引で米の価格を上げようともしました。

 

しかし、狙いどおりに米の価値は上がりません。ちなみに先物取引は、日本で生まれた商取引です。

 

米と貨幣が混在した経済体制が、やがて江戸幕府を崩壊へと導きます。

 

「西郷どん」の西郷隆盛は、この、くたびれた江戸幕府を倒すことによって、新しい日本をつくった大功労者ですね(^0^)。

 

 

ひとこと

 

 

過去、明治の貨幣経済の始まり、戦後の不換紙幣(金や銀と交換できない紙幣)の発行などにより、大きな経済変動がありました。

 

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仮想通貨の未来は、いったいどのようになるのか、とても興味深いです(●´▽`●)

 

 

本能寺の変の後、なぜ秀吉は滅亡しなかったのか?

 

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本能寺で織田信長が横死した後、羽柴秀吉は瞬く間に天下人まで駆け上がった印象を受けます。

 

でも、「本能寺の変」直後の状況をみると、秀吉が滅亡しなかったのが不思議なくらいです。

 

本能寺の変の知らせを聞いたとき、秀吉は備中(岡山県西部)で毛利の大軍と対峙していました。

 

このとき、秀吉の軍は、宇喜多勢1万を含め合計約3万です。毛利は約4万の大軍で陣を張っていました。

 

信長の死を知ったならば、兵力で勝る毛利は、猛然と秀吉軍に襲いかかるはずです。

 

また、信長の死が広まれば兵士の逃亡が相次ぎ、軍は崩壊します。農民も土寇(どこう)と化し、秀吉に襲いかかるはずです。

 

まさに、秀吉の命は風前の灯・・・・となるところでしたが(゚□゚;)

 

 

広範な情報網を敷いていたのか?

 

秀吉は運に恵まれた、とも言えます。しかし、秀吉が信長から学んだ「情報戦略」も見逃せません。

 

秀吉は、独自の緻密な情報網を敷いていたのではないでしょうか。

 

戦国時代、一人の人間が持っていた手紙を信用することは、ありえません。敵が放ったワナであることも多いからです。

 

秀吉は、京都に潜伏させていた間者からも、信長の死を知らされた可能性があります。

 

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主君の側に間者を潜ませることは、あらぬ疑いをかけられるので、公(おおやけ)にはできません。

 

だから、光秀が毛利に送った密使が間違えて秀吉の陣に入った、ということにしたのかもしれません。

 

そうでなければ、あのような思い切った決断をくだすのは難しいでしょう。

 

 

軍の崩壊を防ぐ策が功を奏した!

 

秀吉は、高松城の城主・清水宗治を湖面の船上で自害させます。秀吉や毛利の数万の兵が見ていました。

 

数万人の前で切腹したのは、日本史上で唯一、清水宗治だけでしょう。

 

当初、毛利は、清水宗治の切腹に反対でした。毛利の支配する5カ国割譲を条件で、秀吉との講和を切望していたのです。

 

しかし秀吉は、5カ国割譲を3カ国割譲にゆるめて、清水宗治の切腹を承諾させました。

 

このとき、秀吉にとって、2カ国よりも清水宗治の切腹の方が何倍も重要だったのです。清水宗治が切腹することで、秀吉軍の勝利が明確に配下の兵に伝わるからです。

 

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清水宗治の切腹によって、撤退ではなく「光秀討滅」の出陣であることを、全軍にアピールできます。

 

そして講和の成立後、本能寺で信長が光秀に殺されたことを、秀吉は配下の兵に公表します。信長の仇討ちのため、京へ向かう軍令を出しました。

 

さらに、信長の仇である光秀を滅ぼしたら、足軽は組頭に、組頭は大将に、大将は諸侯になれる、と秀吉は大声で全軍に訴えかけます。

 

軍の士気は一気に高まります。誰もが逃亡など考えもせず、出世を夢見て一丸となって、京へ向かったのでした。

 

秀吉の演出とタイミングの良さは抜群です(`▽´)

 

参考:備中高松城の戦い-ウィキペディア

 

  

ひとこと

 

本能寺の変の後、神戸にいた丹羽長秀と織田信孝の軍は、瞬く間に崩壊しました。2万の兵が3千ほどに減ってしまったのです。

 

神戸は京都に近いため、信長の死がすぐに全軍に知られたため、といわれています。

 

しかし、京都に情報網を敷いておけば、兵より早く知ることができたはずです。そして、「仇討ち」を大儀名分に掲げ、軍の崩壊を防げたかもしれません。

 

両者は情報戦については、秀吉のように上手くなかったようですね。

(●^U^●)

 

 

なぜ、武士が生まれたのか?

 

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日本には、弥生時代から戦う兵士が存在しました。しかし、武士が生まれたのは、平安時代ごろからです。

 

そもそも兵士と武士の違いとは、何なのでしょうか。どちらも同じような感じがします。

 

まずが違いますが、「兵」と「武」にどんな違いがあるのでしょうか?

 

兵士は、軍隊に属して敵と戦う者のことです。

 

武士も敵と戦う点では同じですが、主に反乱を収めるために戦うという説があります。

 

「武」は、「戈(力、ほこ)」と「止」を組み合わせた合意文字です。

 

「戈」とは、長棒の先にピッケル状の穂先がついた武器です。古代中国で使われていました。

 

武器である「戈」の中に「止」という文字が入って、争いを止める、という意味があるといわれています。

 

他にもいろいろな説がありますが、「兵士」と区別するためにつけられた呼び方であることは間違いありません。

 

兵士は身分の低い者が多かったので、天皇の子孫など身分の高い者が戦をする場合、「兵士」とか「兵」とか呼ぶわけにはいかず、「武士」と呼んだのかもしれません。

 

また、孔子が編纂した注釈書の一つと伝えられる「春秋左氏伝」の「戈を止める」から「武」の文字を解釈して、権威付けしたとも考えられます(^_^)

 

 

平氏と源氏が武士の始まりだった?

 

天皇の一族である皇族から臣籍降下(しんせきこうか)した平氏源氏の中には、武士となった一族がいます。

 

桓武平氏と清和源氏です。この両氏は、反乱を鎮圧するために、坂東(関東)に下りました。しかし役目が終わった後も、坂東の地に居座る者もいました。

 

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それらの武士団が国衙や荘園領主と結びついて、領地を増やし坂東で地盤を固めたのでした。平将門や、平清盛の祖先でもある平貞盛が有名です。

 

地元の農民も配下に入れて、坂東の武士団は次第に勢力を増していきます。

 

都の貴族は、武士は戦などの汚れ仕事をする集団として、見下していました。後に武士から政権が奪われるとは、夢にも思っていなかったのです。

 

 

農民も武士になった?

 

次第に、平氏と源氏の配下以外にも、武装していた農民も武士と呼ばれるようになりました。

 

武装した農民の中には、勝手に平氏や源氏の子孫であると自称する者が現われます。正確な戸籍簿のない時代でしたから、言ったもん勝ちでした。

 

つまり農民と武士を兼ねる者が増えていったのです。この武士たちは、都の貴族などに年貢を納めていました。

 

しかし、自分達が命がけで土地を守り、汗水たらして収穫した米を、貴族など権力者の言われるままに、年貢として払うことへの不満が高まっていきました。

 

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その不満の高まりが、貴族が日本を支配する時代から、武士が支配する時代へと向かわせたのです。それが鎌倉幕府(1185年頃-1333年)の始まりです。

 

鎌倉幕府の滅亡後、室町幕府(1338年-1573年)、江戸幕府(1603年-1867年)が開かれ、明治維新まで武士の時代が続きました。

 

江戸時代は身分制度が整い、農民と武士を兼ねる者は、原則、いなくなりました。でも、「郷士」といわれる農民と武士を兼ねる身分も存在していたのです。

 

この郷士の中から幕末、明治維新で活躍した人材が多くあらわれました。

 

 

ひとこと

 

お隣の朝鮮半島では、高麗時代に武臣政権(1170年-1270年)という武人が支配する時代がありました。

 

ちょうど日本の武士政権・鎌倉幕府と同じような時代です。

 

日本のように武士(軍人)が支配する政権が長期に続いた国は、世界の中でも珍しいそうです。

 

そのせいなのか、日本の武士は、海外から人気がありますね(●^д^●)