みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

メス猫の恋愛は少し複雑だが、オス猫の恋愛は単純だ!?

 

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近所の黒猫を見ていると、恋愛も盛んなことに気づきます。

 

オス猫の恋愛は単純で、メス猫の恋愛は少し複雑であることがわかりました。

 

オス猫がメス猫を好きになる理由が、メス猫の発情フェロモンの量で決まります。単純ですね。

 

発情フェロモンの多いメス猫はモテて、少ないメス猫はモテないのです。

 

私の家の窓の外に、そのモテるメス猫とモテないメス猫がいました。

 

 

黒猫の母親がモテて、娘がモテない

 

モテるメス猫は、今年5匹の子猫を生んだ黒猫の母親で、モテないメス猫は、母猫の娘猫です。

 

母猫は、モテるから子猫を5匹、生むことができたわけです。成猫なので発情フェロモンも十分に分泌されているのでしょう。

 

一方、娘猫は生後4~5ヶ月ほどなので、発情フェロモンが十分に分泌されていないようです。

 

早いメスの子猫で生後4ヶ月ほどで発情することもあるそうです。

 

娘猫は、ウナギ猫の兄弟です。ウナギ猫とちがって内気でボーとしていることが多いです。

 

オス猫は社交的で、メス猫は内気な場合が多いいです。だからウナギ猫はオス猫かもしれません。

 

手前がウナギ猫で、後ろが娘猫です。

 

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娘猫は、すでに発情しているらしく、特定のオス猫がやってくると、「クルル、クルル」とうれしそうに鳴きます。

 

そして、オス猫にやさしい猫パンチをしたり、顔をなめたりしています。でも、オス猫は後ずさりしたり、逃げたりします。

 

オス猫は、娘猫が好きでないようです。発情フェロモンがたりないのが原因のようです。

 

娘猫が好きなオス猫は、茶トラのオス猫です。中年のおっさんみたいな顔のオッサン猫です。

 

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逆に娘猫は、いつもマンホールのフタの近くにいる、このオス猫がやってくると、「フーッ」と威嚇して追い払います。

 

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おそらく好みでないからだと思います。

 

オッサン猫は近くで見ると、意外に若くてハンサムです。娘猫は、この甘いマスクにほれたのでしょうかね?

 

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娘猫を嫌っていますが、オッサン猫は、母猫が好きです。よく母猫と仲良くしているところを見ます。

 

また、この髭を生やしたようなオスのヒゲ猫も母猫と仲がいいです。

 

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やはり母猫は、モテます。

 

5匹の子猫の父親であるオヤジ猫(黒猫)と、浮気相手のオッサン猫、ヒゲ猫が母猫の恋人(恋猫)です。

 

メス猫の場合、オス猫を選ぶ基準がわかりにくく、少し複雑ですね。

 

 

黒猫の母親がほかのメス猫を近づけない

 

家の窓からオス猫は、何匹も見るのですが、大人のメス猫は、黒猫の母親だけしか見たことがありません。

 

オス猫と違いメス猫は行動範囲がせまく、同じところにいることが多いです。なので、黒猫の母親を、屋根の上で、よく見るのかもしれません。

 

 

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おそらく黒猫の母親が、ほかのメス猫を追い払って、オス猫を独占しているようです。

 

すぐ近くの公園に、メス猫が何匹もいます。

 

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こんな美人のメス猫もいますが、一度も私の家の屋根にきたことがありません。

 

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間違いなく、黒猫の母親が威嚇して近づけないようにしているのです。

 

私は美人の三毛猫が好きなので、ぜひ、うちの屋根にきてほしいと思っています。

 

 

ひとこと

 

メス猫は、複数のオス猫の子を同時に生むことができます。

 

だから、同時に生まれた兄弟でも、父親が違う場合があるのです。

 

このような特殊な繁殖能力があるため、メス猫は、複数のオス猫とに落ちるのかもしれません(・∩・)

  

 

黒猫の性格は、甘えん坊で人懐っこいのは本当だった!?

 

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ウナギ猫の父親であるオヤジ猫は、とても強そうで獰猛そうです。近所の野良猫のボスでもあります。

 

最初、向いの屋根の上にいたオヤジ猫を見たときは、少し怖かったです。

 

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顔にもいくつもの傷があり、首や背中にも傷があります。まさに百戦錬磨の強者です。

 

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ウナギ猫が私の家の屋根の上でのんびりできるのも、このオヤジ猫が他の雄猫から縄張りを守っているからです。

 

でも、こんなオヤジ猫ですが、とても人懐こいです。外見に似合わず、オモチャで子猫みたいに遊びます。

 

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他の猫は、私の顔を見るだけで逃げてしまうのに、オヤジ猫は逃げるどころか、一緒に遊んでくれます。

 

家猫のなかで黒猫が一番、人懐っこくて甘えん坊だといわれていますが、目の前のオヤジ猫を見て本当だと思いました。

 

 

黒猫は、おとなしくて飼いやすい

 

初めて猫を飼う場合、黒猫が一番、おすすめだと言われています。

 

黒猫は、おとなしくて懐きやすいからです。また、飼い主の言うこともよく聞くそうです。社交的もおぼえるのが得意だとか。

 

私の実家に黒猫の雄がいますが、一緒に飼われている犬とも仲がいいです。私が近づいても逃げません。手をだすと、犬みたいにお手をしてくれます。

 

熱烈な黒猫ファンがいることも、うなずけます。

 

オヤジ猫の子供であるウナギ猫も、社交的で活発な性格です。

 

 

黒猫の雄は、子猫の面倒見も良いのか?

 

通常、雄猫は子猫の面倒を見ない、と言われていますが、オヤジ猫は、そうではないようです。

 

なぜならば、今年、生まれた5匹の子猫は、皆、このオヤジ猫を慕っているからです。オヤジ猫がくると、子猫はニャ~ン、ニャ~ンと鳴きながら後をついていきます。

 

オヤジ猫も子猫をペロペロなめたりして、かわいがっています。

 

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でも、そばに母猫がいると、母猫はオヤジ猫に猫パンチして唸り、子猫から引き離そうとします。

 

雄猫は子猫を殺してしまう場合があるため、母猫は本能的に子猫を父猫から遠ざけるのです。

 

いずれにしろ黒猫であるオヤジ猫は、子猫にやさしいことは間違いありません。

 

 

黒猫は、いろんな動物に似ていて愛嬌がある

 

近所の黒猫を見ていると、黒猫はいろんな動物に似ています。

 

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やせている黒猫はウナギに似ていますが、縮むとネズミに似ています。

 

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前足をなめている姿は、足をこすり合わせているハエを思い出させます。

 

 

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でも、背景が白っぽいと黒猫は、シュルエットが美しいです。

 

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丸くなると、オハギがオニギリみたいです。あるいはウズラが卵をあたためているみたいです。

 

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 木陰のなかでは、フクロウみたいです。

 

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黒猫って、ほんとうにユニークですね。

  

  

 ひとこと

 

ウナギ猫が母猫から冷たくされ、鳴いている動画を撮りました。

 

以前は、ニャ~ン、ニャ~ンと母猫の後をついていったのですが、今はついていかず、悲しそうに鳴いているだけです。

 

なぜか、私の顔を見ながら鳴いています。

 

「お母さんをつれ戻してきて」と言っているように聞こえます。

 

ここにも黒猫の甘えん坊なところが出ていて、かわいいです。

 


母猫に冷たくされた子猫が鳴いている

 

 

子猫が、うなぎ猫になってしまった!?でも、この子猫の将来が心配だ?

 

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ある日、二階の窓をあけると、そこに、あまり可愛くない黒い子猫がいました。

 

見覚えがあるので、もしやと思い指を差し出すと、逃げないで、ツンツンしようとします。

 

やはり2か月前、私の指を噛んだ子猫です。

 

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 ところが体がかなり細いです。黒猫なので、まるで、うなぎみたいです。なんで、こんなに細いのでしょうか。お腹に寄生虫でもいるのでしょうか。

 

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それにしては元気です。ほかの猫と一緒に屋根の上を走りまわっています。

 

また、体が細いせいか、ほかの猫が飛び降りない二階の高い屋根から、平気で飛び降ります。ケガもまったくしません。

 

元気な子猫をながめているのは楽しいですが、ふと、この子猫の将来が心配になりました。飼い主のいない野良の子猫だからです。

 

私は、一度は飼おうと思ったのですが、あきらめました。野良の子猫を飼ったり、保護するのは、かなり大変そうだったからです。

 

でも、もし飼っていたら、「ウナギネコ」としてYoutubeにデビューさせて、人気者になっていたかもしれませんね?

 

 

うなぎ猫の将来は、どうなるのだろうか?

 

うなぎ猫の2ヶ月前に生まれた三匹の子猫は、7月の中頃には、まったく姿を見せなくなりました。

 

いったい、どこへ行ったのか、まったくわかりません。

 

もともと近所には、10匹ほどの黒猫がすんでいますが、その中にまぎれこんだかどうかも不明です。

 

他の猫と違い、黒猫は見分けがつきにくいのが難点です。

 

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いずれにしろ、うなぎ猫も、いずれ私の家の近くから消えてしまうのではないかと思います。

 

一番の原因は、親猫が縄張りに、いつまでも子猫を置いとけないからです。子猫が生後6か月ぐらいになると、親猫は威嚇して追い出すそうです。

 

でも、子猫はたいへんです。生きていくためには、食べなければなりません。

 

実際、親猫もどこかでエサをもらって生きているようですが、エサをあげている家(飼い主?)は、まったくわかりません。

 

もし飼い主が分かれば、親猫の不妊や去勢手術をすすめることも可能なのですが、それもできません。

 

幸い、地域の猫ボランティアの方が、いろいろ野良猫の面倒をみているので、うなぎ猫もなんとか生きていけそうです。

 

 

母猫がまた子猫を生みそうだ!

 

この母猫は、今年2回、子猫を生みましたが、お腹が大きくなってきており、また子猫を生みそうです。

 

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子猫はかわいいので、大好きなのですが、増えすぎると問題になります。

 

うなぎ猫のときは、飼うことも保護することもあきらめましたが、もし、今度、子猫が生まれ、1階の窓から家に入ってきたら保護してやろうかと考えています。

 

屋根上の子猫やうなぎ猫のおかげで、私も猫のことを調べ、いろいろ詳しくなっています。いまなら保護して、うまく里親探しの手伝いができるのではないか、と思っています。

 

でも、里親探しというのは、想像していたより、かなり大変なことが分かりました。

 

里親詐欺に注意したりしなければなりません。だから里親の条件がとても厳しく、なかなか貰い手が見つからないのです。

 

また、野良の子猫の場合、里親さんに気に入ってもらえるまで、人間に懐かせなくてはなりません。

 

いろいろ動画でも見ましたが、野良の子猫によっては、なかなか懐かなく、里子にだせない場合もあるようです。

 

里親さんは、生後3ヶ月ぐらいまでの子猫をほしがるので、その時期をすぎると引き取り手が少なくなります。

 

だから私の場合、家の入ってきた子猫を、なるべく早く保護して、猫ボランティアの人に引き渡そうと思います。

 

もし、飼えそうだったら、うちの猫にします。

 

 

ひとこと

 

うなぎ猫は、うなぎと同じように細いところが好きです。

 

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夜は、兄弟と一緒に寝ています。右側がうなぎ猫です。いつも一緒で、とても仲のいい兄弟です。

 

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でも性格が正反対です。うなぎ猫は社交的ですが、もう一匹は内気で他の猫や人間に威嚇することがあります。

 

猫にも個性があることを知り、面白いですヽ(●´ω`●)ノ

 

  

幕末、薩摩藩と関東の不思議な関係とは???

 

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九州の薩摩藩(鹿児島県)と、関東は、いくつか共通点があります。

 

まず、薩摩藩の鹿児島神宮と、関東の鹿島神宮です。名前が似ていますね。

 

偶然、名前が似たわけではなく、同じ国の先祖が建てた神宮だ、という説があります。

 

その先祖とは、現在の中国東北部にあった扶余(紀元前4世紀-494年)という国の人たちのことです。

 

扶余は国名ですが、鹿のことを扶余(プヨ)と呼びました。

 

 

扶余の子孫が日本にわたってきた

 

ロシア国内に住んでいるエベンキ族は、アマリカ・インディアンや東アジア人のルーツのひとつといわれています。

 

エベンキ族は、鹿の一種であるトナカイを主食にしていました。凍ったトナカイの肉を食べていたため、アゴが頑丈になり、エラのはった顔立ちになりました。

 

韓国にエラの張った顔の人が多いのも、エベンキ族の血が流れているせいかもしれませんね。

 

また、トナカイを崇拝するエベンキ族の習慣が、中国東北部の扶余という国に伝わりました

 

扶余は、古代、中国の漢王朝に攻められ、滅亡寸前のとき、鹿山という地で再起をはかり、漢の兵を追い払うことができたのです。

 

そして、鹿山の地から鹿をとって、扶余(鹿)という国を建国しました。また、鹿は神の使いとして尊び、好んで鹿を飼っていました。

 

また、扶余の子孫が日本にわたってきて、鹿児島神宮や鹿島神宮を建てた、といわれているのです。

 

つまり、扶余の子孫が鹿を尊んでいたから、「鹿」を神宮の名前に使ったわけです。

 

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春日大社にも、神の使いとして鹿が飼われています。春日大社を創建した藤原氏が、扶余の子孫だからだ、という説があります。

 

日本における扶余の影響力は、意外に大きいようです。

 

 

武の地であり、革命の地であった

 

扶余の人は、体が大きく、武術に優れた人が多く、中国の漢王朝に対する反骨精神が強かったのです。

 

そのせいなのかどうなのか、日本では、薩摩と関東から革命が起こっています。薩摩は幕末ですが、関東では、平安時代、平将門の乱、源頼朝の挙兵が勃発しました。

 

関東の水戸藩でも、御三家であるのにもかかわらず、幕末、討幕活動が盛んでした

 

中央政府に対して反発しやすい土地柄といえるかもしれません。 

 

朝廷や幕府に対する反骨精神にあふれていました。

 

 

薩摩と鹿島の不思議な因縁

 

薩摩と関東の鹿島は、距離的には遠く離れていますが、不思議な因縁で結ばれています。

 

それは、一撃必殺の剣術です。

 

日本は島国のためか、切腹とか一撃必殺という言葉が好きです。中国や朝鮮など大陸の国では、あまりもちいられません。

 

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大陸は広いので、逃げるところがたくさんあるが、島国の日本は狭いので、逃げる場所が少ないです。

 

だから、切腹とか一撃必殺という言葉が生まれたのかもしれません。

 

いずれにしろ一撃必殺の剣術が、幕末、大活躍するのです。

 

古来から、薩摩や関東(坂東)の武士は、扶余の人と同じく体格がすぐれていました。

 

その強靭な体躯から、一撃で相手をしとめる必殺の剣が、関東の鹿島香取の地で生まれたのです。

 

関東の鹿島で創始された天真正自顕流が、薩摩に伝わり、示現流や薬丸自顕流とに分かれました。

 

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とくに、薩摩、薬丸自顕流の志士は、幕末、大暴れします。「明治維新は、薬丸流でたたきあげた」といわれたほどです。

 

日本の南と東にわかれた扶余の子孫の影響が、幕末にまで及んだかのようです。

 

 

ひとこと

 

薩摩は芋、水戸は納豆が有名です。

 

これは、まったく関係がなさそうですね(*^▽^*)

 

 

織田信長は、本当に無神論者だったのか?

 

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織田信長は、ひと言でいうと、どんな人物だったのでしょうか?

 

小説家の津本陽が「心に少しの偶像も持たない人物」と評しています。

 

信長は無神論者だった、と見られていますが、この「偶像」のようなものが嫌いなだけだったのかもしれません。

 

とくに「偶像」を「実像」のように言って、人々を惑わす人間が大嫌いでした。

 

また、偶像を実像のように信じることの危険性を理解していました。

 

 

火や水のように宗教を理解していた信長

 

信長が宗教に対して怒りを爆発させたのは、父の信秀が亡くなったときでした。このころ信長は、16歳とも19歳ともいわれています。

 

日蓮宗の僧、十数人が、信秀の病気を回復させるため祈りましたが、効果はなく、信秀は帰らぬ人となりました。

 

このとき、怒り狂った信長は、日蓮宗の僧、十数人を小屋に閉じ込め、外から銃で全員、射殺してしまったのです。

 

成人してからの信長は、石山本願寺の一向一揆、十万ちかい信徒を殺害しています。

 

その他、比叡山の焼き討、安土宗論など、やたらと宗教者を迫害しました。

 

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ところが、宗教勢力との戦いに勝利すると、宗教を弾圧するのではなく、信仰の自由を許します。

 

もちろん、政治に口を出さない、という範囲内で、信仰の自由を認めたのです。

 

これは、現代でいう「政教分離」と「信仰の自由」にちかいかもしれません。

 

信長は気性が激しいですが、決して感情で物事を判断することを、しません。どんなことでも、火や水を見るかのごとく、理性で考えることができたのです。

 

は、料理をつくったり、暖をとったり生活に欠かせません。

 

たとえ火事で大きな被害を人間に与えたとしても、「火は恐ろしい」とか言って、次の日から火を使わなくなることは、ありません。

 

「火」そのものに善悪はなく、使い方の良し悪しが大事だ、ということです。

 

宗教も同じだ、と信長は考えたのでしょう。

 

「政教分離」と「信仰の自由」を許容できる国づくりを、目指していたのかもしれません。

 

 

信長は「偶像否定論者」だった?

 

「孫子の兵法」と釈迦の「法華経」は、紀元前500年以上前に説かれた教えです。

 

どちらも偶像を、認めていません。合理性、あるいは理屈に重点がおかれた書です。

 

どちらも抽象的で、わかりにくいです。しかし、どちらも、たいへん評価の高い書です。

 

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「孫子の兵法」は、兵法書の最高峰といわれ、釈迦の経文の中で「法華経」が一番に優れていると評価されています。

 

とくに偶像崇拝が不可欠な宗教の中で、「法華経」は、それを否定している特異な経文です。

 

偶像嫌いの信長が、好みそうな書物です。

 

そして、信長が「法華経」を、好んでいた痕跡があります。それは、安土桃山城です。

 

安土桃山城の地下には、「法華経」で説かれる宝塔があり、天主の屋根には仏舎利があります。

 

宝塔と仏舎利の間にある階に、信長の部屋があります。釈迦や孔子など古の聖人の絵が壁に描かれています。

 

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いったい、どうゆう意図で宝塔と仏舎利を、安土桃山城に設けたのは不明ですが、「法華経」に強い関心があったことだけは間違いありません。

 

信長は「無神論者」ではなく、「偶像否定論者」と評した方が正しいかもしれません。

 

 

ひとこと

 

戦国時代、民衆の間でも法華経が一番、尊い教えであると思われていました。

 

だから、安土桃山城に「法華経」に関連する装飾をしたのは、民衆の支持を得るための手段とも考えられます。

 

偶像嫌いの信長と、民衆の好みがマッチしていたみたいですね。

 

 

 

Windows10へ無料でアップデートできた!2年前は失敗したが・・・

 

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今でもWindows10へ無料でアップデートできることを知り、早速、やってみました。

 

結果、Windows7からWindows10へ無事に更新できました。

 

2年前の無償アップデート期間に、同じことやったら、見事に失敗しました。

 

Windows10に更新してから、ディスプレイの表示がおかしくなり、画面が真っ黒になってしまったのです。

 

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マイクロソフトのサポートセンターに電話して、Windows7に戻しました。

 

失敗の原因は、ディスプレイのドライバーと適合しないため、と説明されました。

 

だから今回も失敗するのではないかと思いましたが、ディスプレイは正常に表示されています。

 

Windows10は、春と秋の年2回、大幅なアッデートをするので、改善されたのではないかと思います。

 

あと2年ほどでWindows7のサポートが終了しますから、アッデートができてよかったです。

 

 

32ビット版は、動きが遅いので64ビット版にアップグレートする

 

Windows7(8、8.1も)やWindows10の32ビット版は、メモリが3G余りしか認識しません。

 

私のパソコンは、Windows7の32ビット版だったので、Windows10も32ビット版にしかアップデートできませんでした。

 

さらにWindows10の64ビット版でクリーンインストールすれば、64ビット版にできるので、今度、試してみます。

 

クリーンインストールすると、それまでのアプリやデーターは、すべて消えてしまいます。バックアップをとる面倒な作業も必要です。

 

しかし、メモリをかなり増やせるので、パソコンの動きが快適になります。

 

実際に秋葉原で安い、Windows7(64ビット版)の中古パソコンを買ってきて、Windows10の64ビット版にアップグレートしました。

 

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ハードディスクをSSDに交換して、メモリを12Gにしました。

 

すると、速い、速い。とても快適にパソコンが動きます。

 

また、ディスプレイを1台、増設したのですが、接続したら、すぐ使えました。Windows7のときのような、面倒くさいドライバーのインストールをしなくてすみました。

 

 

Windows10の無料アップグレートに必要なものとは

 

Windows10の無料アップグレートは、下記のサイトでできました。ツールをダウンロードして、展開するとアップグレートできます。

 

Windows 10 のダウンロード

  

また、別に無くてもいいのですが、万が一のトラブル時に便利なものがあります。

 

私の場合、2年前、アップグレートに失敗しても、無事にWindows7に戻せました。

 

しかし、パソコンが起動しなくなった人も多かったそうです。

 

そのときにデーターを救出するのに、リナックubuntuライブUSBがあると、簡単にデーターを取り出せます。

 

リナックス入りのUSBと、データーを取り込んで保存するUSBが、あると望ましいです。

 

リナックubuntuライブUSBの作り方は、下記の動画で解説しています。

 


簡単に作れる!ubuntu LiveUSB(ライブUSB) 作成手順紹介 動画

 

そして、ハードディスクからSSDに交換するとき、OSやアプリ、データーを、そっくりコピーしてくれるソフトが下記です。

 

freesoft-100.com

  

私は、このソフトの無料版を使って、上手くできました。とても簡単です。

 

 

ひとこと

 

毎日、使うパソコンが快適に動いてくれると、本当に助かります。

 

 

子猫に指を噛まれて血が出た!治療に3,500円もかかった!?

 

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ある日、一階の窓を開けると、そこに可愛い黒の子猫がいました。

 

屋根の子猫の約二ヶ月後に生まれた半野良の子猫です。生後1ヶ月半ぐらいでしょうか?

 

 

www.mizue338.net

 

 

4月下旬ごろに3匹、6月下旬ごろに2匹の子猫が、同じ母猫から生まれ、合計5匹の子猫が、私の家のまわりに住んでいます。

 

4匹の子猫は、私が指を差し出しても逃げてしまいますが、この末っ子の子猫だけは近寄ってきてくれます。

 

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そして、ツンツンと鼻をくっつけ挨拶してくれます。

 

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また、時々、ネコのオモチャで遊んでくれ、という感じで窓の外から、ニャ~ン、ニャ~ンとやってきます。

 

家の中に入ってくることもあります。

 

黒くて小さいので、大きなネズミみたいです。

 

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ある日、私はイタズラ心が出て、窓を閉め、子猫を閉じこめてしまいました。

 

ニャ~ン、ニャ~ンと悲しそうに鳴きながら、窓を開けようとします。かわいそうなので、すぐ窓を開け逃がしてやりました。

 

その仕返しなのでしょうか。翌日、普段よりも激しく指でツンツンしたら、薬指を噛まれてしまいました。

 

子猫なので、たいした傷ではないのですが、が出たので、あせりました。

 

 

迷ったが病院でワクチンを注射してもらった

 

猫に噛まれて、何もしないで、ほっとく人も多いらしいですが、重い病気になることもあるそうです。

 

私は子供のころ猫を飼っていて、ひっかかれたり噛まれたりしたことがあります。しかし、血が出たのは初めてでした。

 

猫に噛まれて、狂犬病や破傷風、パスツレラ病、カプノサイトファーガ・カニモルサス感染症、猫ひっかき病(バルトネラ症)に感染してしまうことがあるとのこと。

 

だから念のため病院に行きました。

 

最初に行った病院(外科)は、ワクチンを置いていないので、ワクチンのある少し大きな病院を紹介されました。

 

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そこでワクチンを注射したのですが、痛かったです。保険が使えないので、2,000円もかかりました。

 

その他、診察や薬代を含め、合計3,500円ほどかかりました。けっこうな出費でした。

 

猫と遊ぶときは、注意したほうがいいですね。

 

 

子猫を飼いたいけど飼えない

 

5匹の子猫を見ていると、かなり性格の違いあることに気づきます。

 

私を噛んだ子猫は、かなり気が強いです。

 

2ヶ月先に生まれて、体が二回りも大きい兄や姉の子猫を、猫パンチで追いはらったりします。

 

体の大きい年上の子猫はタジタジです。

 

だから、もし、この子猫を飼ったら、たいへんかもしれません。あるいは意外と楽しいかも?

 

でも、やはり飼うことはできません。家に閉じこめたとき、ニャ~ン、ニャ~ンと鳴き声が激しかったので、無理です。

 

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鳴き声で近所から苦情がきたり、夜、眠れなくなりそうです。

 

野良や放し飼いの猫を室内で飼うのは、難しいようです。

 

迷い猫や遠くから連れてきた野良猫なら、家の中でおとなしくなるそうですが・・・・。

 

近所の野良や放し飼いの猫は、臭いや家族の猫の声を聞き、激しく鳴いたり脱走しようとするのです。

 

だから、ペットショップや家の中で育てられた子猫は、飼いやすそうですね。

 

 

ひとこと

 

私の家のまわりには、不思議と黒猫が多いです。どうしてでしょうか?

 

近くに古い商店街があるからかもしれません。

 

金運をもたらす猫として、江戸時代から黒猫は、商家で好んで飼われていました。黒猫の「まねき猫」もあります。

 

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現代でも古い商家では、代々、黒猫が飼われているそうです。

 

昔から日本で黒猫は、幸運をもたらす猫なんですね。

 

 

子猫が屋根から下りられないので、エサと水をやって1週間!?

 

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4月1日に痛めた腰は、一ヶ月ほどで治りましたが、ヒザが痛くて困っていました。

 

家の二階でヒザのストレッチをしていたら、外から「ニャーニャー」という鳴き声が聞こえます。

 

窓をあけたら黒の子猫が一階の屋根にいました。屋根から下りられなくなって鳴いていたのです。

 

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親の黒猫が下ろそうとしても、子猫は怖がって下りません。

 

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私は子猫をつかまえようと思いましたが、すぐ隣の屋根に逃げてしまうので、無理でした。

 

しかたがないので、エサと水をやりました。

 

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あれから一週間がたちましたが、子猫も健康で過ごしています。

 

でも、黒の子猫は、とても可愛いです。飼ってみたくなりますね。

 

また、黒猫って意外と人気があることを知りました。

 

私の家の裏は、毎日、数匹の黒猫の親子がやってきて、黒猫の庭みたいになっています。

 

闇夜の黒猫は、なんか小悪魔みたいです。

 

夜、黒猫の親子を見て、気味が悪いと思っていましたが、とても魅力的な猫であることがわかり、興味深々です。

 

 

目ヤニで屋根から下りられなくなった

 

子猫が屋根から下りられなくなった原因は、目ヤニではないかと思いました。目が赤く充血もしていました。

 

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目ヤニで視界が悪くなり、下りるのが怖くなったのではないでしょうか。

 

子猫の目ヤニは、ほっておくと重症化することもあります。でも、一週間が過ぎたら、治っていました。目の充血もなくなっていました。

 

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逆に子猫の兄弟(3匹)を裏の塀で見たら、目やにだらけでした。また、親猫も目ヤニがありました。

 

家族と離れたおかげで、屋根の子猫は、目ヤニが治ったのかもしれません。

 

目ヤニが治り、視界が良くなったら、子猫は自力で屋根から下りるかも。そうなったら、少しさびしいです。

 

最初は、私を怖がって逃げていた子猫ですが、最近は手渡しでエサを食べるようになりました。

 

だから、とても可愛いです。

 

 

黒猫は、人に懐きやすく賢い

 

保護された猫の中で、黒猫は一番、引き取り手がないそうです。黒い色が敬遠されるとのこと。

 

しかし猫好きの間では、黒猫カフェや黒猫専門誌があるほど黒猫は人気者です。

 

一度、黒猫の魅力を知ると、とりこになるそうです。

 

まず、性格がおとなしく、飼い主に懐きやすい点です。大人になっても子猫のように甘えてくるところが、たまらいとのこと。

 

頭も良く、しつけやすいのも黒猫の魅力だそうです。犬のように芸をおぼえることも得意だとか。

 

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また、黒の色が部屋のインテリアとしてマッチします。三毛猫やトラ猫はコタツを連想しますが、黒猫はモダンな雰囲気がありますね。

 

小悪魔のような家裏の黒猫が、そんな魅力的な猫だと知って驚きました。

 

 

ひとこと

 

屋根の子猫にエサをやっていたら、近所の方が通報したのか、猫ボランティアの方がやってきました。

 

エサをやっている訳を説明して、納得してもらいました。

 

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屋根の子猫の兄弟(3匹)が近所をうろつき困っているので、里子に出しますとか言っていました。

 

屋根の子猫は、いつまでいるのかわかりませんが、当分、面倒をみてやるつもりです。

 

 

毛利敬親と島津斉彬は、まるで正反対だった?

 

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薩摩藩の島津斉彬と長州藩の毛利敬親は、まさに対照的な殿様でした。

 

島津斉彬は、カリスマ的なリーダーシップで薩摩藩を近代化せさ、幕府に対抗しようとしました。

 

一方、毛利敬親は家臣の言い成りで、リーダーシップのかけらもない人物でした。

 

あだ名も「そうせい候」といわれ、家臣が意見を述べると、「そうせい」と言って、自分の考えを入れず承諾していたのです。

 

幕末、斉彬は49歳で、突然、病死します。暗殺の疑いが濃いです。しかし敬親は、明治維新後も生きのびて、左近衛権中将に任ぜられました。

 

維新後、「そうせい」と家臣の言い成りになっていなければ、自分は暗殺されていただろう、と敬親は語っていたそうです。

 

まるでリーダーシップの有無が、この二人の殿様の運命を決めたかのようです?

 

 

毛利家の殿様は、なぜ権力が弱かったのか

 

戦国時代、安芸国高田郡吉田荘の3000石から5000石ほどだった毛利氏を、中国八カ国の約170万石まで領土を拡大させたのが、毛利元就です。

 

じつに数百倍に領土を拡大させたのですから、たいしたものです。

 

ところが元就の場合、戦で勝ち取ったというよりも、養子縁組謀略をメインにして領土を拡大しました。

 

養子縁組で得た領土がやたらと多いので、当然、広大な領地を持つ親族の家臣が多くなりました。

 

元就の孫である輝元が毛利家を継いだときは、川と小早川の叔父が実権を握っていました。

 

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また、輝元の叔母の嫁次先である宍戸家も重臣として、大きな力を持っていました。

 

だから輝元の代で、相対的に殿様の力が弱まっていきます。

 

そして関が原での敗戦が、さらに殿様の力を弱めました。約170万石から約36万石へと領地が削られたからです。

 

大勢の家臣を養うためには、殿様の直轄地も減らさざるおえません。殿様と家臣の領地の差が少なくなります。

 

それによって、毛利家の殿様は、ときには家臣の操り人形と化することもありました。

 

 

薩摩の殿様は強力な権力をもっていた

 

小領主の毛利家とは違い、戦国時代、島津家は大きな領地の大名としてスタートしました。

 

平安時代、九州の島津荘の荘官として、島津家の先祖・惟宗広言が下り勢力を拡大します。

 

鎌倉時代になると、初めて島津氏を称した島津忠久が、源頼朝から薩摩国・大隅国・日向国の3国の領地をもらったのです。

 

そして戦国時代も島津家の殿様は、由緒ある家柄と広大な直轄地を有していました。だから相対的に殿様の力が強かったのです。

 

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強力な権力をもつ島津家の殿様は、いくつもの敵国を破り、領地をどんどん拡大すしました。

 

関が原での敗戦でも、島津家は強気の姿勢で徳川家康と対抗して、領土を減らされません。

 

九州の最南端で、徳川側の勢力が攻めにくいという地理的な利点にも恵まれていました。

 

だから優柔不断な殿様が多かった毛利家とは違い、「島津にバカ殿なし」と言われるぐらい、優秀で強力なリーダーシップをもつ殿様が代々、輩出されたのです。

 

 

ひとこと

 

表面的には操り人形の毛利敬親でしたが、裏では高杉晋作や伊藤俊輔(後の伊藤博文)など開国派の人材を登用し活躍させ、倒幕の功労者としても有名です。

 

能ある鷹は爪を隠すというコトワザがありますが、「そうせい候」として敬親は、爪を隠していたのかもしれませんね。

 

( ̄ー ̄)ニヤリッ

 

 

豊臣秀吉の晩年は、カゴの中のサルみたいだった(´∀`)??

 

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以前、ペットショップでサルがカゴに入れられて販売されているのを、見たことがあります。

 

そのとき、晩年の豊臣秀吉を思い出しました。

 

天下というカゴに入れられ、苦悶する秀吉が浮かんできました。

 

天下をとったあたりまでの秀吉は、まさに絶好調で、自然のなかでたくましく生きる野猿のようでした。

 

ところが関白となった天下人から、だんだんサエない老人になっていきます。

 

まるで目に見えない天下というカゴが秀吉を、かんじがらめにしていたみたいです。

 

天下人として行き詰まりを感じていた秀吉は、人が変わったように残忍で衝動的な行為をおこないます。

 

何者かに「猿」と石に落書きされただけで怒り、多くの民や家来を処刑したりします。茶道の師である千利休や、甥の秀次とその家族も大勢、殺害しました。

 

そして無謀な明攻めで、多くの犠牲者をだしました。

 

 

ほころびだらけの秀吉の天下

 

なぜ、秀吉は晩年、おかしくなってしまったのでしょうか。

 

理由は簡単です。天下をとった後のことを考えないで、天下をとってしまったからです。

 

といっても、別に秀吉が好きこのんで、手抜きして天下をとったわけではありません。

 

信長亡き後、内外の敵に囲まれた秀吉は、「手抜き天下」をとるしかなかったのです。

 

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そうしなければ、他の勢力に秀吉は滅ぼされていたでしょう。

 

とても信長が目指した強固な天下をつくることは無理だったのです。

 

だから、島津や毛利、上杉、徳川などに大きな領土を与えてしまいました。また、時代に逆行するような行為である、朝廷の官位である関白になってしまいました。

 

これでは秀吉一代限りの天下になってしまうのは、目に見えてしまいます。

 

急いで、棚からぼたもち天下をとったため、ほころびだらけの天下となってしまったのです。

 

 

織田信長は天下の運営にも重点を置いた

 

信長は、少年のころから日本の様子がわかっていたようでした。

 

なぜ、戦が起こり、国が乱れるのか、その原因を、信長なりに理解していたようです。

 

富の不平等によって、争いが起きる、と考えていたのかもしれません。米経済の限界が争いを生じさせているとも思っていたかもしれません。

 

そのためには、すぐれた中央集権的な体制が必要です。島国の日本ならば、可能です。

 

だから信長は、最大の敵、石山本願寺を十年もかけて倒しました。

 

石山本願寺と戦わないで、天下を目指すことも可能だったのですが、それでは宗教勢力と妥協した軟弱な天下しかとれません。

 

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同じように他の戦国大名と、妥協してつくる天下も望みませんでした。

 

島津や毛利、上杉などの大きな勢力は、武田と同じように滅ぼすつもりでした。同盟関係の徳川も、いずれ領地を削り家臣にするつもりでした。

 

そこまでしなければ、真の天下人として、力が発揮できなったことでしょう。

 

しかし秀吉は、軟弱な体制の天下人ではありましたが、信長亡き後、戦乱に終止符をうつことに成功しました。

 

そして、軟弱で混乱した秀吉の天下を家康が継承して、250年の戦乱のない時代がやってきたのです。

 

秀吉は、つなぎ役としての仕事を、みごとにこなしたと言えましょう。

 

 

ひとこと

 

晩年の秀吉は、カゴのすき間から手をだして、とれない果実である明(中国)をとろうとしていたみたいですね。

(○●^▽^●○)./

   

 

織田信長はディズニーランドのような城を、つくろうとしていたのか(*´д`)??

 

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信長が建てた安土城は、それまでの日本には存在しない、奇想天外な城でした。

 

城というよりも博物館宗教施設のような雰囲気でした。戦よりも、信長の権威を高めるためるための城といえます。

 

しかし信長は、もともと大阪の石山に安土城のような城を建てたい、と考えていたのです。

 

ところが石山には、本願寺(石山本願寺)が巨大な要塞を築いて、信長に反抗していました。

 

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なので、しかたなく信長は安土に、巨大で絢爛豪華な城を建てたのです。

 

天正8年(1580年)、さしもの石山本願寺も織田軍に抵抗することができなくなり、信長と和議をむすび、全員が退去しました。

 

いよいよ安土城をもしのぐ、異次元の城を計画していた信長ですが、まったく着手することなく本能寺で生涯を終えます。

 

もし、信長が生きていたら、大阪の石山にどんな城をたてたのでしょうか。秀吉や家康がたてた大阪城のような、無骨な城は建てなかったでしょう。

 

おそらく信長らしい斬新なアイディアで、安土城以上の城を築いたと考えられます。

 

 

西洋風の城をつくろうとしていたのか?

 

当然ですが、信長のまわりには優れたブレーンがいました。

 

そのブレーンの中には、古代、日本がどのようにして天皇のもとに統一されたのか、詳しい者もいたはずです。

 

もちろん、古代も武力による争いが繰りひろげられました。

 

ある程度、日本が統一された後は、その政権の権威づけが必要です。邪馬台国の卑弥呼のように、宗教的な権威で治めることも多かったです。

 

巨大な古墳も権威を見せつけるものでした。

 

6世紀半ば(552年)に、中国の仏教が朝鮮半島を経由して、日本へ伝えられました。仏教とともに中国のすぐれた文明もやってきました。

 

日本の支配者は、政権の権威を強化するために、仏教中華文明を利用しました。巨大な大仏や建造物を、たくさん建てたりしたのです。

 

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・・・・それじゃ、俺の場合は、キリスト教や西洋文明を利用しようかな、と信長は考えたかもしれません。

 

もし、そうならば、石山本願寺跡にディズニーランドのような西洋風の城を、建てたかもしれませんね\(^○^)/

 

 

信長は、何になろうとしていたのか?

 

信長は晩年、朝廷からの官位はすべて返上しました。朝廷から将軍職をすすめられましたが、それも断わりました。

 

「上様」と家臣から信長はよばれていましたが、正式な身分を表す呼び名がなかったのです。

 

いったい信長は、何になろうとしていたのでしょうか。西洋の皇帝を名のろうとしていたのでしょうか。

 

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天皇と皇帝は同じような意味があるので、それも考えられません。

 

もしかしたらスペイン語で宰相を意味する「Primeiro ministro(発音は不明です)」を名のろうとしていたかもしれません(*´д`)??

 

 

ひとこと

 

明治初期、やたらと洋風建物が増えたことを考えれば、信長も似たようなことをしていた気がします(´∀`*)

 

 

徳川慶喜(最後の将軍)と戦国の毛利輝元の共通点とは?

 

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徳川慶喜と毛利輝元の共通点とは、優柔不断なところです。

 

味方と敵の間で、どのように戦うのか、あるいは降伏するのか悩み抜いたところが似ています。

 

この二人は、本音では早く降伏して国、あるいは家の存続を守りたい、と思わせるような行動が目立ちます。

 

降伏するために、重臣や家来からの不満を押さえるために、苦心していた感じです。

 

しかし、優柔不断と決めつけるのは偏った見かたではないでしょうか。

 

良い方にとらえれば、先見の明があった、といえます。

 

勝てる確率が非常に低い戦をして、国や家を滅ぼすよりも、降伏してそれを避ける道を選択したのです。

 

『孫子の兵法』に「勝算なきは戦わず」とあります。

 

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武田信玄や織田信長、古代中国の劉邦などの名将は、負けて逃げることが得意でした。

 

しかし、徳川慶喜と毛利輝元は、おかれた状況が複雑だったため、後に優柔普段の印象を残すことになりました。

 

昭和初期の日本の軍が、どこかの時点で上手く負けていれば、太平洋戦争の悲劇はおこらなかったでしょう。

 

そう考えると、徳川慶喜と毛利輝元は、「偉大な負けリーダー」と賞賛されるべきかもしれません?

 

 

官軍よりも外国に負けることを恐れた徳川慶喜

 

幕末、兵の数では圧倒的に幕府は官軍を圧倒していました。しかし、士気と軍備、大義名分では官軍の方が優れていました。

 

幕府が本気になって攻め、勝てたとしても、欧米列強の植民地になるリスクも高いです。

 

幕府が官軍に勝ったにせよ負けたにせよ、日本が外国に負ける確率は非常に高くなるのです。

 

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つまり、幕府と官軍との内乱を早く終決させて、日本が外国に対抗できる体制をつくろう、と考えていたのです。

 

といっても三百年近く続いた幕府を簡単に終わらせては、家臣が納得しません。

 

家臣を納得させ、徳川幕府の名誉を守りながら降伏するために、徳川慶喜は散々、苦労したのでした。

 

まわりからは「二心殿」とか、「優柔不断」とか罵られましたが、早期に降伏して、みごと江戸無血開城を成功させ、外国からの侵略の隙をつくりませんでした。

 

 

清水宗治の切腹で家臣を納得させた毛利輝元

 

戦国時代、羽柴秀吉に負けた毛利方の清水宗治は、数万人の見ている前で切腹して、はてました。

 

水攻めで、湖に浮かぶ高松城から船であらわれ、船上で敵味方、数万の前で自害しました。

 

普通、切腹は部屋の中か庭でおこないます。数万人の前で腹を切るのは、日本史上、清水宗治だけです。

 

このとき、本能寺で信長が亡くなったことは、毛利にも家来にも知られていません。

 

たとえ家来に信長の死去が知られても、負け戦ではなく、勝ち戦であることをアピールするために、こんな前代未聞の切腹大イベントを、秀吉は、おこなったのです。

 

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これは負けた側である毛利輝元にとっても、好都合でした。家臣や家来に降伏することを納得させられるからです。

 

毛利軍は、三方を敵に囲まれ、強力な織田軍団との戦に兵力財政が限界にきていたのです。

 

だから天下を制す勢いの織田家に降伏したほうが生き残れる確立が高いと考えていました。

 

清水宗治の切腹は、降伏をしなければならない状況を、自軍にアピールするための最高の演出です。

 

これが切っ掛けで、毛利家は江戸末期まで続き、幕末、大活躍することができたのでした。

 

 

ひとこと

 

第二次世界大戦で、無差別爆撃や原爆が投下される前に降伏していれば、日本本土で、あれほど大きな犠牲者はでなかったでしょう。

 

ですから、徳川慶喜と毛利輝元のように、犠牲を最小減にするための上手い負け方は、優柔不断どころか、やはり賞賛されるべきことと言えそうです・

(●>∀<)!!!

 

 

織田信長は、明(中国)に侵攻するつもりだったのかヽ(#`Д´)ノ

 

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豊臣秀吉は、を攻めるための足掛かりとして、朝鮮半島で戦を繰りひろげました。

 

その結果、寸土の領地も得られず、多大な人命と戦費を失いました。

 

そもそも島国から大陸の明に攻め込むこと自体、無謀な行為です。それまでの秀吉らしくない、無計画な戦でした。

 

もし、織田信長が本能寺で亡くならず、天下統一をしたら、秀吉と同じように、明に侵攻したでしょうか?

 

おそらく攻めこまなかったのではないかと思います・・・・。

 

秀吉の大阪城が建つ前は、その土地に石山本願寺がありました。

 

信長は、石山本願寺に何年もかけ猛攻を加えました。その地域が天下を治めるためと、海外進出のために必要だったからです。

 

信長の計画していた海外進出とは、どんなものだったのでしょうか?

 

 

計画マニアだった信長

 

信長は周到に計画をねり、何年もかけて目標を達成するタイプの人間でした。

 

とても短気そうなイメージがある信長ですが、わずかな例外を除いて衝動的な行動は極力、避けました。

 

「孫子の兵法」でも、孫子は衝動的な行動を一番、嫌っています。理屈で考え抜いた行動を奨励しています。

 

まさに信長は、理屈で考え抜いた計画を実行して、領土を増やした見本のような戦国大名です。

 

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そして、美濃を獲るのに七年、石山本願寺を倒すのに五年の年月を費やしたのです。

 

美濃と石山本願寺の何百倍もありそうな、明の領土と城を攻めようとしたら、当然、七年や五年どころではありません。まったく見当がつきません。

 

それどころか失敗する確率のほうが高いと考えるのが、自然です。

 

だから信長は、明攻めなど眼中になかったはずです。

 

 

西洋の文明を輸入しようとしていた信長

 

古代から大阪城の付近の難波あたりに都がおかれ、朝鮮半島や中国大陸との貿易で利用されていました。

 

瀬戸内海ルートによる船での行き来がとても便利な地だったのです。

 

朝鮮や中国、国内勢力と敵対関係になると、海が近い平地のため、防御力の弱い、難波の付近をさけ、奈良盆地や大津などへ都を移したりしました。

 

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しかし戦国時代、鉄砲の出現によって、平地の砦や城でも防御力が強くなり、石山本願寺や秀吉の大阪城がたてられたのです。

 

信長は、その地に西洋文明を輸入するための、巨大で絢爛豪華な城を築こうとしていた可能性があります。

 

 

ひとこと

 

尾張一国の領主だったころの信長は、武田信玄にペコペコして、ご機嫌をとっていました。

 

同じようにスペインやポルトガルに対しても、キリスト教の教会を建ててあげたり、布教をゆるしたりして、ご機嫌をとっていました。

 

これは西洋文明をどんどん取り入れるためのご機嫌とりです。

 

そして、西洋に負けないぐらいの西洋文明が日本に根付いたとき、海外の領土を狙うつもりだったのでしょう。

 

武田氏を滅ぼしたのと同じように、最後はスペインやポルトガルが領有している東アジアの植民地を、信長は、すべて奪ってやろうと考えていたかもしれません。

(●`□´●)???

 

 

中国の四大発明が、日本に薩摩芋をプレゼントした???

 

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19世紀、近代化が遅れた中国(清)は、欧米列強に領土を蚕食され、苦難の連続でした。

 

しかし、古代中国の四大発明である羅針盤 · 火薬 · 紙 · 印刷が西方に伝わり、西洋文明の発展に大きく貢献したことは間違いありません。

 

そのひとつがアメリカ新大陸の発見です。15世紀、コロンブスがインドと間違えて、現在の中南米に上陸しました。

 

また、イモ類やトウモロコシ、唐辛子などの食べ物の発見も見逃せません。

 

とくにイモ類は、稲と違い、砂地や山地でも育てられるので、世界中の多くの人々を飢餓から救いました。

 

日本でも薩摩藩に、そのイモが伝わり、薩摩芋となりました。

 

桜島火山があるため、砂地が多い薩摩藩では稲の収穫が少ないです。

 

それを補って、薩摩の人々を食料不足から救ったのが薩摩芋でした。

 

 

中国四大発明のおかげで、新大陸を発見してイモが見つけられた

 

中国四大発明は、世界の文明を発展させるために貢献した偉大な功績、と言われています。

 

まず、羅針盤がなければ遠洋を航海することは不可能です。羅針盤と星座の観測で、遠洋でも船の位置が確認できるようになりました。

 

紙 · 印刷がなければ、知識や技術を切磋琢磨させたり、発展させることはできません。紙 · 印刷のおかげで、地球が球体であることが広く知られ、研究がさかんになりました。

 

西の方向へむかえば、当時、貴重品である胡椒の輸出国インドへ到達できる、という理論が構築され、西方への航海がおこなわれました。

 

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当時、スペインからインドへの航海は、東廻りより西廻りのほうが近い、と考えられていたのです。

 

新大陸には先住民族がいましたが、銃(火薬)のおかげで簡単に征服することができたのです。

 

スペインの兵士150人あまりに対して、先住民族は数万人といわれています。

 

しかし、スペインの銃と騎兵の攻撃の前には無力に等しく、またたくまに占領されてしまいました。

 

そしてスペインは、イモ類やトウモロコシ、唐辛子などの食料を自国にもちこみ、後に世界中に広めたのでした。

 

これらの功績は、中国四大発明である羅針盤 · 火薬(銃) · 紙 · 印刷のおかげだ、とも言えます。

 

日本人が薩摩芋を食べられるのも、四大発明のおかげですね(゚∇^*)

 

 

中国は、なぜ四大発明を発展させることができなかったのか

 

中国四大発明がなければ、18世紀、イギリスの産業革命も、ありえなかったかもしれません。

 

逆に中国は、自国が生み出した四大発明を発展させることができず、近代化した欧米列強にやられてしまいます。

 

中国は皇帝を中心とする政権の力が強く、民衆を統制しすぎたため、発明を発展させる土壌が失われました。

 

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ところが西洋は、ある意味で、政権の統制が緩やかな国が多く、庶民の間からいいろいろなアイデアや発明が生まれました。

 

また、西洋は複雑な地形のため、小国に分かれ、常に他国との争いが絶えません。

 

そのため他国との切磋琢磨がさかんになり、文明を発展させることができたのです。

 

それが19世紀、西洋と中国の大きな差となってしまいました。

 

 

ひとこと

 

薩摩藩にやってきたサツマイモは、その後、対馬をとおして朝鮮にも伝わり、多くの人を飢饉から救いました。

 

岩だらけの島である対馬でも、よく育つサツマイモは、対馬で「孝行芋(コーコイモ)」とよばれていました。対馬の農民に孝行する芋、という意味とのこと。

 

朝鮮では「孝行芋」がなまって「コグマ」とよばれました。

 

中国四大発明は、イモで食糧不足の克服にも、貢献したわけですね(●^U^●)

  

 

孫子の兵法は、2,500年前につくられたのに、なぜ今も人気なのか?

 

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「孫子の兵法」は、紀元前500年前に著された中国の古典です。古代中国で戦争に勝つための方法が書かれています。

 

大昔の戦争ノウハウですが、現在でも著名人や企業、軍事テキストとして、世界的に活用されています。

 

中国の古代につくられたノウハウが現代でも通用するのは、「方法論」ではなく「原則論」が中心に構成されているからだと言われています。

 

孫子の兵法と並び称される「呉子の兵法書」がありますが、こちらは方法論が多いため、現代の戦争や企業経営に応用しにくいと評されています。

 

孫子の兵法とは、時代がいくら変わっても、絶対に変わらない普遍的な「原則論」と言えましょう。

 

しかし、なぜ中国で失われることなく、この優れた兵法書が現代まで伝わることができたのでしょうか?

 

また、同じような書物が、中東や西洋、他の地域に存在しなかったのでしょうか?

 

 

中華文明が優れた古典を現代まで伝えた

 

中国は、「中国4千年の歴史」と言われるとおり、たいへん歴史が古く、すぐれた文明を築いた国です。

 

戦闘力に優れた北方の騎馬民族に支配されたことはありますが、文明まで破壊されたことはほとんどありません。

 

逆に、文明で劣る騎馬民族の王朝は、中華文明を尊重しました。そのため騎馬民族王朝は、漢民族化することが多かったのです。

 

騎馬民族は、中国の広大な領土を支配しましたが、文明・文化では中華文明に支配されたと言えましょう。

 

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中東や西洋のような一神教の国々は、比較的、征服した国をことごとく破壊することが多いです。

 

キリスト教の国とイスラム教の国が、敵対国を征服したときは、徹底しています。同じ宗教でも宗派間での激しい争いも絶えませんでした。

 

当然、文明や文化の破壊もおこなわれました。

 

ところが中国大陸では、中華文明のある程度の破壊はあったものの、大きく損なわれることもなく受け継がれたのでした。

 

孫子の兵法だけでなく、儒教などの宋学なども受け継がれていきました。

 

 

抽象的な原則論は、わかりにくい

 

優れた兵法書であり経営書といわれている「孫子」ですが、重宝された時期や忘れ去られたこともありました。

 

「孫子」は原則論が中心なので、抽象的で理解しにくいからだと言われています。ただ表面的に読んでみると、あたり前のことばかり書かれている印象を受けます。

 

日本では、日露戦争のときは「孫子」がよく読まれ、太平洋戦争のときは「孫子」が軽視されたと言われています。

 

ベトナム戦争のときアメリカは、「孫子」を無視したような力攻めの結果、南ベトナム軍に勝つことができませんでした。

 

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逆に南ベトナム軍は、「孫子の兵法」を研究して、アメリカ軍を追い払うことに成功したそうです。

 

過去の戦争の勝敗は、「孫子の兵法」から原因をある程度、分析することができるため、現代では軍事テキストとして、「孫子」が読まれています。

 

また、戦争以外の分野でも、世界中で重宝されている書物でもあります(o゚▽゚)

 

 

ひとこと

 

孫子の有名な一説で、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」があります。

 

この「彼」とは、もともとを意味していました。

 

現代では、経営や競技のライバル、新規事業、初対面の人、新たな恋人など、いろいろなものに置き換えられて解説している書籍が増えてきました。

 

孫子は、より具体的でわかりやすくなってきたようです(●^□^●)