みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

三国志の孔明は理性で、敵の感情を操っていた!?

 

f:id:mizue338:20180211220731j:plain

 

無料のGYAO動画「三国志 Three Kingdoms」を見ましたが、とても面白かったです。

 

とくに諸葛孔明の考え方や行動が興味深かったです。

 

孔明は、どんなときでも常に冷静沈着です。理性(理屈)で行動するのです。

 

逆に呉や魏の敵対勢力の武将は、感情的になり、孔明に負けてしまいます。

 

やはり「理性 VS 感情」の戦いの場合、感情は理性に敵わないのでしょうか?

 

無計画に感情で突っ走っても、理性の網にからめとられてしまいます。

 

まるで狩られる獲物と、それを狩る猟師のような関係みたいです。

 

 

感情は環境に振り回されるが、理性は環境をコントロールできる!

 

ひと口に感情といっても種類があります。苦悩、欲望、恐怖、怒り、有頂天(単純な喜び)などです。

 

これらの感情は、人間が生きていくために必要なものですが、使い方を誤ると、損をします。また、敵に利用されてしまい、敗北させられます。

 

逆に感情を正しく使えば利益があります。

 

f:id:mizue338:20180211220820j:plain

 

火や水は火事や水害を起こしますが、正しく使えば、暖房や飲料など生活の役に立ちます。それと同じです。

 

孔明は、自分の感情に振り回されず、理性で行動ができる強固な意思の持ち主とも言えましょう。

 

孔明の主君である劉備、その義弟の閑雲、趙飛は、感情で行動したことが原因で戦に負け、あるいは部下に殺害されています。

 

私自信、感情で仕事や買い物をして失敗したことが何度もあります。

 

やはり理性(理屈)が大事だ、と痛感しています。

 

でも、頭でわかっていても行動に移せないのが、とても悲しい・・・(´Д`。)

 

 

司馬慰 仲達の感情をコントロールした孔明

 

孔明の最大のライバルであった司馬慰 仲達は、孔明と似たタイプの人物でした。

 

冷静沈着で感情に流されず、理性で自己をコントロールできたのです。

 

それだけに孔明は、いかに仲達の理性の鎧(よろい)を壊して、感情的な行動をとらせるかに苦心しました。

 

つまり、理性と理性の戦いです。

 

三国志の物語では、理性で孔明は、仲達をうわまわっていました。孔明が仲達の感情をコントロールしていたのです。

 

f:id:mizue338:20180211220847j:plain

 

まず「空城計」で、孔明は仲達を追い払うことに成功します。

 

味方の兵が数百人しかいない小城に、仲達が数万の兵で攻めてきました。

 

まともに戦えば簡単に負けてしまうので、城の門を開き、孔明はその奥で琴を弾きます。ハッタリをかまして仲達の軍を追い払おうとしました。

 

結果、孔明の読みどおりに、ワナが仕掛けてあると恐れた仲達は、逃げてしまいました。

 

仲達は、自己の「恐れ」の感情に負けてしまったのです。孔明は危機状況でも「恐れ」の感情に振り回されず、「理性」でのり切ったのです。

 

その後、孔明は手紙やおとりのワナで、仲達の「怒り」と「」の感情を起こさせ、何度も戦いに勝ちます。

 

しかし結局、運に恵まれない孔明は、仲達を滅ぼす前に病気で陣没します。

 

あと、もう少し長く生きていれば、魏を倒して漢王朝を再興できたかもしれないのに、とても残念な結末でした(*´Д`)

 

 

ひとこと

 

ネットを見ていると、感情を揺さぶってくる広告がメチャクチャ多いですが、ある意味、こわいですね(゜◆゜;)

 

 

なぜ、織田信長は、お茶が好きだったのか?

 

f:id:mizue338:20180209225726j:plain

 

織田信長は、鷹狩りや能など多趣味でしたが、なかでもお茶が好きでした。

 

もちろん、ただ、お茶をガブガブ飲むということではなく、茶会を開くのが好きだったのです。

 

茶会は、小さな茶室(庵室)で、幾人かでお茶を飲むのですが、いったい茶会のどこに魅かれたのでしょうか?

 

酒宴のほうが楽しそうな気がしますが、茶会には信長が共感できる大きな魅力があったのです。

 

 

茶会は、原則、身分の上下が無かった

 

茶会では、茶室に入いるには、「にじり口」という小さな入り口から出入りします。

 

狭いので手をついて、かがんで入らないといけません。

 

にじり口が小さい理由は、日常と非日常の境界をわけるためです。

 

非日常なので、天下人でも、庶民でも、にじり口をくぐるときは、身分の上下が無くなる、との意味もこめられています。

 

普通、高貴な武士や貴族は、身分の上下を重視します。高貴な身分の者は、庶民と言葉をかわすのさえ嫌がります。

 

f:id:mizue338:20180209225900j:plain

 

しかし信長は、能力さえあれば、羽柴秀吉や明智光秀のような身分の低い者を好んで重臣にします。

 

逆に身分が高くても実力の無いものを冷遇します。

 

それだけではなく、当時の寺社や朝廷、幕府などの権威を否定した行為を重ねていました。

 

信長は、当時の身分制度や権威による弊害を、とても嫌っていたのです。

 

だから茶会、とくに、にじり口を「かがんで入る」という点を、信長は、たいへん気に入ったのかもしれません。

 

 

茶器の価値を利用した

 

身分や権威という価値を否定するような「にじり口」とは逆に、茶会は価値を創造する場でもありました。

 

茶道具のひとつである茶碗は、ただの土からつくられたものです。しかし、その茶碗が広大な領地に匹敵するぐらいの価値になります。

 

家来の恩賞(給料)を土地で払っていると、いつか足りなくなります。そこで信長は、恩賞を茶道具で払うようにしたのです。

 

茶会を頻繁に開くことにより、いろいろな茶道具の価値を高めることもできました。

 

f:id:mizue338:20180209225918j:plain

 

恩賞の茶道具をもらった武将は、たいへん喜んだそうです。信長も土地や金銀で恩賞を払わずにすむので、武将以上に大喜びでした。

 

土からできた茶碗が土地や金銀と同じような価値を持つなんて、便利でいいですね。

 

まるでビットコイン(仮想通貨)みたいです(・∩・)?

 

当時の土からできた茶碗と、現代の電子信号でできた仮想通貨は、なんか似ています。

 

現代風に言えば、「信用創造の産物」ということでしょうか?

 

 

ひとこと

 

信長が建てた安土桃山城は、まさに「信用創造のための城」と言えます。

 

桃山城が完成すると、入場料をとって民衆に見学させたのです。

 

それまでの通常の城と違い、桃山城は異次元の建築物でした。信長の権威を高めるための城とも言えます。

 

天下が目前に迫ってきた信長は、自分の権威を高めるため、ユニークな工夫を次々と創りまくっていたのです(●^□^●)

 

 

幕末、なぜ日本は開国して西洋の侵略を防げたのか?

 

f:id:mizue338:20180119220759j:plain

 

幕末、日本が外国の植民地にならず、明治維新を成功させました。

 

東南アジアや東アジアの中で、唯一、日本だけが近代化を成し遂げたのです。

 

中華文明を誇る清や朝鮮も西洋から領土を蚕食、あるいは植民地化されました。鎖国が大きな原因と言われています。

 

ところが日本も、当初、圧倒的な西洋との軍事力の差を知りながら、なかなか開国することができませんでした。

 

もちろん、開国派の勢力もいましたが、鎖国派(攘夷派)から比較すると、僅かでした。

 

「攘夷だ!」という声が圧倒していたのです。

 

「攘夷」とは、「尊王攘夷」を略した言葉です。天皇を尊び、夷人(外国人)を攘(はら)うという意味です。

 

つまり西洋列強を、やっつけて追い払え、ということです。

 

幕府も攘夷派でした。しかし、当時の幕府は、西洋に武力で脅されて不平等な条約を結んでしまいました。

 

幕府が部分的に開国していましたが、朝廷や薩摩藩、長州藩などを中心として、攘夷派が圧倒的多数だったのです。

 

幕府の西洋列強に対する弱腰にも、不満が日本中に鬱積していました。

 

 

薩摩藩とイギリスの戦争で、開国へ向かった日本

 

当時、長州藩は西洋4カ国艦隊にボロクソに負けていたのにもかかわらず、熱狂的に攘夷をおこなっていました。

 

また、もともと薩摩藩も攘夷派でした。

 

朝廷も攘夷派なので、朝廷と薩摩藩は、西洋の脅しに屈して、弱体化した幕府を倒そうと画策していました。

 

しかし、薩摩藩は、ある日、突然、開国派になってしまったのです。

 

切っ掛けは、イギリスとの戦争で、西洋の軍事力の凄さを知ったからです。

 

f:id:mizue338:20180119220840j:plain

 

イギリスと講和に持ち込むことができましたが、薩摩藩の被害は甚大でした。

 

薩摩藩主の父で実権を握っていた島津久光の命(めい)により、薩摩藩は開国派となったのです。

 

そして、長州藩も開国派が実権を握り、薩摩藩と同盟します。薩長同盟(さっちょうどうめい)です。

 

薩摩藩と長州藩の二大勢力が中心となり、日本は開国の方向へ舵を切ることができたのです。

 

開国によって日本は、西洋の高度な武器やノウハウを輸入して、西洋列強に対抗できるようになりました。

 

 

人材と運に恵まれていた日本

 

日本を植民地、あるいはそれに近い状態にしようとして、西洋列強は、日本にやってきました。

 

しかし、武器やノウハウを日本に与えることによって、結局、それができなくなったのです。

 

ある意味、西洋列強は間が抜けているようですが、日本に優秀な人材がいたことと、運にも恵まれていたおかげ、とも言えます。

 

西郷隆盛や勝海舟による江戸城の無血開城や、マイナスの英雄といわれる将軍・徳川慶喜など多くの人材の活躍がありました。

 

f:id:mizue338:20180119220902j:plain

 

日本があまりにも早く倒幕をして、明治維新を成功させたので、西洋列強はなにもできなかったのです。

 

また、アメリカは国内で南北戦争が勃発して、日本にかまっていられなくなりました。

 

他の西洋列強もそれぞれ事情をかかえるようになり、遠い極東の日本に力が入れられなくなります。

 

幕末、日本は人材に恵まれていた、と言えましょう。

 

 

ひとこと

 

当時、日本が他のアジアの国と違うことに、西洋列強はとても驚いていたそうです。

 

変わった国だと思っていたらしいです(●^□^●)

 

 

超実践的な薩摩の薬丸自顕流!

 

f:id:mizue338:20180114232306j:plain

 

幕末の薩摩藩は、現在の鹿児島県あたりです。

 

活火山の桜島から降りそそぐ火山灰のため、土地は保水性が悪く痩せていて、稲作に適しません。

 

平安時代に薩摩の土地を与えられた島津氏の先祖は、低い米の収穫高にたいへん苦労します。

 

島津氏の家臣や領民を養うためには、北方の稲作に適した豊かな土地を得る必要がありました。

 

もちろん、そこには他の勢力がいます。戦って土地を奪い取るしかなかったのです。そのため、島津氏は自然に武力に力を入れるようになりました。

 

1万足らずの兵で20万の明の兵に勝利した朝鮮での戦など、島津氏には多くの武功があります。

 

幕末には、当時、世界最強といわれたイギリス軍にも負けません。

 

このように戦に強い薩摩が生まれたのは、厳しい環境のなかで生まれた「現実主義」のおかげだといわれています。

 

この「現実主義」の薩摩藩で生まれた剣術流派のひとつに「薬丸自顕流」があります。

 

「明治維新は薬丸流でたたきあげた」と言われるほど、幕末に大活躍した剣法です。また、幕府軍との戦いで実践的な強さが証明された剣術流派でもあります。

 

 

合理的に工夫された薬丸自顕流

 

薬丸自顕流の長所は、なんといってもシンプルな技と修行方法です。他流のような難しい技や練習は、ありません。

 

何本かの木の枝を束ねた横木を木刀で打ち続けるのが主な修行です。練習相手も、ほとんど必要ないので、好きな時間に修行ができます。

 

修行がやりやすいため、薬丸自顕流は薩摩の郷士に広まりました。

 

薩摩藩には上士と郷士がいましたが、上士は身分が高く郷士は身分が低かったのです。

 

そのため郷士は農業も兼業する武士でした。農業があるため、剣術道場に通う時間もありませんが、横木を木刀で、ただ打ちつける修行ならできました。

 

f:id:mizue338:20180114232340j:plain

 

しかも農作業で鍬を振るい、燃料として使う巻き割りで鍛えられています。薬丸自顕流の刀の振り方と同じような筋肉の使い方をしていたのです。

 

そのように鍛えあげられた鋼鉄のような筋肉から、ほぼ上段から振り下ろされる刀の破壊力は、想像を絶するものでした。

 

薬丸自顕流の剣士の攻撃を受けると、刀で受けても受けきれず、自分の刀の峰を自分の額にめり込ませてしまいます。あるいは刀ごと切られてしまいました。

 

京都の浪士を震え上がらせた新鮮組でさえ、薬丸自顕流をたいへん恐れていました。

 

 

斜めからに振る刀より、垂直に振る刀の方が強いのか?

 

幕末、桜田門で井伊直弼を護衛する幕府側の武士と、水戸藩と薩摩藩の武士が壮絶な切り合いをしました。

 

護衛する武士と襲撃する武士は、いずれも達人がそろっていました。達人といっても道場での達人であって、実践の経験がほとんどなかったのです。

 

初めて遭遇した実践での切りあいのため、極度に緊張して道場では使える高度な技も何もできません。

 

ただ斜めの袈裟切りをメチャクチャ繰り返す剣士がほとんどだったそうです。

 

そんななかで、薩摩藩士で、薬丸自顕流の達人・有村次左衛門は、高い上段(八相)から腰を低く落としながら切り落とす技で、何人もの護衛剣士を切りました。

 

f:id:mizue338:20180114232356j:plain

 

塚原卜伝の「一つの太刀」や、新陰流の「合撃打ち(がっしうち)」も、垂直に刀を打ち下ろす技といわれています。垂直に切り下ろす刀の威力が強力だからです。

 

薬丸自顕流は、高い八相から腰を低く落とすので、体重がのり威力が増します。

 

また、腰を低く落とすと、相手の体当たりや足への攻撃、鍔迫り合い(つばぜりあい)も防ぐことも容易いです。

 

本当に合理的に考え出された武術だと思います。

 


薬丸野太刀自顕流 薩摩藩最強の剣 Yakumaru Nodachi Jigen ryu

 

 

ひとこと

 

厳しい環境におかれると、無駄のない合理的な技術が高まるようですね(●^皿^●)

 

 

チンギス・ハンも仮想通貨のようなお金を使っていた???

 

f:id:mizue338:20180113215552j:plain

 

最近、仮想通貨のことばかり書くようになりました。

 

別に仮想通貨がそれほど好きなわけではありません。

 

まわりが「ビットコインだ。仮想通貨だ」と騒いでいるから、知らないうちに影響されたみたいです?

 

でも、人類の歴史は、通貨とともに発展した、とも言えます。

 

日本の縄文時代は、自給自足と物々交換をしていましたが、弥生時代から少しずつ米が通貨の役割をするようになります。

 

やがて金や銀、銅銭が通貨として利用され、経済活動が活発化して、生活が便利になります。

 

そして、デジタル暗号でつくられた仮想通貨が現われ、今後、どうなるのでしょうか?

 

 

モンゴル人はヒツジをお金にしていた?

 

大帝国を築いたチンギス・ハンのモンゴル国は、税金をヒツジで徴収していました。

ヒツジ100頭につき2頭が税金として、ハン(王)に収められていたのです。

 

つまり税金が2パーセントだったのです。ずいぶん安いですね。

 

でも、考えてみれば当時のモンゴル人は、ほとんど遊牧民です。公共施設や福祉で多額の金を使うこともなかったと考えられます。税金が2パーセントでも十分だったのでしょう。

 

ヒツジが通貨として利用されていたので、まさに「生きたお金」ですね。

 

f:id:mizue338:20180113215613j:plain

 

生きたヒツジの他にも、毛皮や干し肉、胡椒、鉄などの物々交換もありました。

 

ところが、チンギス・ハンがモンゴル高原を統一して、領土が拡大していくと、生きたヒツジや物々交換では、経済がまわらなくなります。

 

当然、金や銀、銅などを通貨として使うようになりました。

 

紙のお金である不換紙幣を発明した?

 

金や銀、銅などの通貨は量に限りがあります。とくに金は採掘できる量が少ないため、価値が高かったのです。現在も金は貴重品ですね。

 

だから、金を基準に貨幣はつくられていました。銀や銅の貨幣は金と交換できる単位で発行されていたのです。

 

しかし、金や銀、銅の貨幣は製造コストがかかり、重いため不便です。

 

そこで、モンゴル帝国が滅ぼした金国や宋国でつかわれていた「交鈔(こうしょう)」という紙幣を発行しました。

 

紙幣は、文字どおり、紙でつくられてお金です。しかし、金や銀と交換できることがモンゴル帝位国によって保障されています。これを「兌換紙幣」といいます。

 

しかし、中東やヨーロッパまで領土が広がると、交換できる金や銀の量が不足するようになりました。

 

f:id:mizue338:20180113215706j:plain

 

そこで考え出されたのが、「不換紙幣」です。金や銀と交換できない紙幣です。モンゴル帝位国の信用だけで発行された紙幣です。

 

この不換紙幣で、税金の支払いやあらゆる取引ができるようになりました。

 

当時の人々は、この不換紙幣を、現在の仮想通貨のような感じで利用していたかもしれません。

 

最初のころは、とても不安だったことでしょう(´Д`q汗)。

 

実際、モンゴル帝国が内乱などで不安定になると、たちまち不換紙幣の信用は落ち、紙くずとなりました。

 

ふたたび、金や銀を貨幣として使うか、金や銀との交換が保障された兌換紙幣が使われるようになったのです。

 

 

ひとこと

 

日本では1942年に不換紙幣が発行されました。しかし世界では、兌換紙幣が主流でした。

 

不換紙幣が世界の主流になったのは、1971年のニクソン・ショックあたりからだといわれています。

 

f:id:mizue338:20180113215725j:plain

 

それまで金との兌換(交換)が保障されたアメリカドルでしたが、金との兌換(交換)が廃止され、不換紙幣となったのです。

 

それからプラザ合意をへて、アジア通貨危機や日本のバブル崩壊など、大きな経済変動がありました。

 

ビットコインなどの仮想通貨も、なにかやらかしそうですね(●´∀`●)

 

 

幕末の米(こめ)経済終焉と仮想通貨(*´д`)??

 

f:id:mizue338:20180107214635j:plain

 

私は自営業なので会計事務所のお世話になっています。昨年の秋から自分でも多少処理ができるよう、会計の勉強に力を入れたため、ブログ更新を休んでいました。

 

会計ソフトや簿記の勉強が一段落したので、また記事を、時々、更新します。

 

その手始めに、NHK大河ドラマ「西郷どん」に少し関連することを書きました。

 

あたり前ですが、「西郷どん」の時代は幕末なので、刀を差し、ちょんまげ、着物姿の人がいます。欧米に遅れをとっていた日本が、近代化を成し遂げた大変革の時代でした。

 

また、古来から続いた「米の経済」が終焉し、本格的な「貨幣経済」が始まった時代ではないかと思いました(・・?)。

 

昨年は「仮想通貨元年」と騒がれたりしましたが、「西郷どん」の時代と今の時代が似通っている気もしました。

 

「世界の基軸通貨になる」とか「大暴落する」、「投資のマネーだ」、「決済や書類の電子ツールだ」、「そのうち規制が厳しくなる」とかいろいろいわれており、仮想通貨はこの先、どのようになるのでしょうか?

 

でも、やはり興味があるので、私は、いくつかの仮想通貨販売所(取引所)に登録をしました。お小遣いも稼ぎたいです。

 

 

幕末、米(こめ)経済で武士は困窮していた

 

加賀100万石や伊達60万石とかいわれていたように、江戸時代は米(こめ)経済が主流でした。武士の給料も米で払っていたのです。

 

江戸時代初期までは米の経済で問題はなかったのですが、だんだん、おかしくなってきました。

 

徳川幕府が日本を治めてから戦のない平和な時代が続きました。農民は農作業に専念できるようになったため、米の生産量が増えていきます。

 

一方、鉱山の開発が盛んになり、銅銭の寛永通寶が発行されるようになりました。これによって貨幣による取引も活発になったのです。

 

f:id:mizue338:20180107214705j:plain

 

米の生産量は増えたおかげで、米の価値が下がります。米で給料をもらっていた武士は、貧しくなり、傘張りのアルバイトに手を染める侍(さむらい)もいました。

 

家臣の武士だけではありません。大名も商人から借金をしたりして、困窮していました。

 

江戸時代の後半は、米(こめ)経済の欠点により、国の体制時代がガタガタになりかけていたのでした。

 

 

鎖国のため貨幣経済が発達しなかった?

 

江戸幕府は、このような日本の経済状況に手をこまねいて見ていたわけではありません。米経済から貨幣経済への移行に取り組んだりもしました。

 

しかし、鎖国のおかげで、工業や貿易も未発達な日本では、完全な貨幣経済は無理でした。

 

貨幣の価値を下げて米の価値を上げよう、という試みも行われました。金の量を減らした小判を大量に発行して、貨幣の価値を下げようとしたのです。つまりインフレにしようとしたわけです。

 

f:id:mizue338:20171011211753j:plain

 

また、先物取引で米の価格を上げようともしました。

 

しかし、狙いどおりに米の価値は上がりません。ちなみに先物取引は、日本で生まれた商取引です。

 

米と貨幣が混在した経済体制が、やがて江戸幕府を崩壊へと導きます。

 

「西郷どん」の西郷隆盛は、この、くたびれた江戸幕府を倒すことによって、新しい日本をつくった大功労者ですね(^0^)。

 

 

ひとこと

 

 

過去、明治の貨幣経済の始まり、戦後の不換紙幣(金や銀と交換できない紙幣)の発行などにより、大きな経済変動がありました。

 

f:id:mizue338:20180107214806j:plain

 

仮想通貨の未来は、いったいどのようになるのか、とても興味深いです(●´▽`●)

 

 

中国の文明とモノマネ文化

 

f:id:mizue338:20171017222020j:plain

 

中国のモノマネ文化は有名になりすぎて、いまではニュースでも、滅多にお目にかかれません。

 

以前、ディズニーや日本メーカーのパクリをニュースで見たときは、よく恥ずかしくないものだと感心しました(゚Д゚;)

 

中国は、言わずと知れた中華思想の国です。孔子の儒教が生まれた「礼節の国」でもありました。

 

まさか、あんなセコイことをする国になるとは思いませんでした。

 

日本にとって「師の国」でもあった中国は、どこへいってしまったのでしょうか?

 

 

モノマネされる側だった

 

世界四大文明は大河の流域から起こっています。

 

なぜ、大河の流域から文明が発達するのでしょうか。それは河川を利用して、各地域や様々な国から人が集うからです。そして交易がおこなわれます。

 

交易をとおして、様々な文化文明が触発し合い、互いに切磋琢磨します。文明の競争が生まれて、発展していくことができるのです。

 

f:id:mizue338:20171017222054j:plain

 

後に、陸の交易路(シルクロード)や海の交易路も盛んになりました。

 

中国の四大発明である印刷、火薬、紙、羅針盤も、陸と海の交易路から世界に伝わったのです。

 

もちろん、日本、朝鮮を含めた中国周辺国も、中国文明から大きな恩恵を受けました。

 

ある意味、中国はもともと、モノマネする側ではなく、モノマネされる側だったのです。

 

ところが、いつのまにかモノマネ国となってしまいました。

 

 

独裁的な中央集権国家が原因なのか?

 

広大な中国は他民族国家です。中国内で言語も多種ありました。周辺の国とは陸続きです。このため古代から中国は、内乱や異民族との争いが絶えません。

 

だから、国を統治するためには、強い中央集権国家が不可欠です。

 

しかし、強力な独裁的中央集権下の官僚支配は、しばしば腐敗堕落の巣と化しました。官僚への賄賂が横行します。

 

そうなると、四大発明をしたころの中国は影をひそめ、文明の切磋琢磨ではなく、官僚へ取り入るための競争が盛んになります。

 

f:id:mizue338:20171017222120j:plain

 

いくら優れた技術があっても、官僚のご機嫌をとらなければ、認められません。

 

努力よりも要領が重視されるようになったのです。

 

商品がモノマネで低品質でも、要領よく売ってしまえばいいんだ、という風潮が形勢されたのかもしれません。

 

 

ひとこと

 

ひところまで日本で、中国人観光客の爆買いが盛んでした。爆買の原因は、それだけ中国国内の商品が低品質なことが理由の一つです。

 

今でこそ日本の商品は高品質で、「Made in japan(メイドインジャパン)」は海外で大人気です。

 

しかし、昭和30年代ごろの日本の製品は低品質とみなされ、海外で人気がなかったそうです。

 

だから、いつか中国も「Made in China(メイドインチャイナ)」と、もてはやされる時代がくるかもしれません(●>v<●)

 

 

本能寺の変の後、なぜ秀吉は滅亡しなかったのか?

 

f:id:mizue338:20171015221025j:plain

 

本能寺で織田信長が横死した後、羽柴秀吉は瞬く間に天下人まで駆け上がった印象を受けます。

 

でも、「本能寺の変」直後の状況をみると、秀吉が滅亡しなかったのが不思議なくらいです。

 

本能寺の変の知らせを聞いたとき、秀吉は備中(岡山県西部)で毛利の大軍と対峙していました。

 

このとき、秀吉の軍は、宇喜多勢1万を含め合計約3万です。毛利は約4万の大軍で陣を張っていました。

 

信長の死を知ったならば、兵力で勝る毛利は、猛然と秀吉軍に襲いかかるはずです。

 

また、信長の死が広まれば兵士の逃亡が相次ぎ、軍は崩壊します。農民も土寇(どこう)と化し、秀吉に襲いかかるはずです。

 

まさに、秀吉の命は風前の灯・・・・となるところでしたが(゚□゚;)

 

 

広範な情報網を敷いていたのか?

 

秀吉は運に恵まれた、とも言えます。しかし、秀吉が信長から学んだ「情報戦略」も見逃せません。

 

秀吉は、独自の緻密な情報網を敷いていたのではないでしょうか。

 

戦国時代、一人の人間が持っていた手紙を信用することは、ありえません。敵が放ったワナであることも多いからです。

 

秀吉は、京都に潜伏させていた間者からも、信長の死を知らされた可能性があります。

 

f:id:mizue338:20171015221210j:plain

 

主君の側に間者を潜ませることは、あらぬ疑いをかけられるので、公(おおやけ)にはできません。

 

だから、光秀が毛利に送った密使が間違えて秀吉の陣に入った、ということにしたのかもしれません。

 

そうでなければ、あのような思い切った決断をくだすのは難しいでしょう。

 

 

軍の崩壊を防ぐ策が功を奏した!

 

秀吉は、高松城の城主・清水宗治を湖面の船上で自害させます。秀吉や毛利の数万の兵が見ていました。

 

数万人の前で切腹したのは、日本史上で唯一、清水宗治だけでしょう。

 

当初、毛利は、清水宗治の切腹に反対でした。毛利の支配する5カ国割譲を条件で、秀吉との講和を切望していたのです。

 

しかし秀吉は、5カ国割譲を3カ国割譲にゆるめて、清水宗治の切腹を承諾させました。

 

このとき、秀吉にとって、2カ国よりも清水宗治の切腹の方が何倍も重要だったのです。清水宗治が切腹することで、秀吉軍の勝利が明確に配下の兵に伝わるからです。

 

f:id:mizue338:20171015221123j:plain

 

清水宗治の切腹によって、撤退ではなく「光秀討滅」の出陣であることを、全軍にアピールできます。

 

そして講和の成立後、本能寺で信長が光秀に殺されたことを、秀吉は配下の兵に公表します。信長の仇討ちのため、京へ向かう軍令を出しました。

 

さらに、信長の仇である光秀を滅ぼしたら、足軽は組頭に、組頭は大将に、大将は諸侯になれる、と秀吉は大声で全軍に訴えかけます。

 

軍の士気は一気に高まります。誰もが逃亡など考えもせず、出世を夢見て一丸となって、京へ向かったのでした。

 

秀吉の演出とタイミングの良さは抜群です(`▽´)

 

参考:備中高松城の戦い-ウィキペディア

 

  

ひとこと

 

本能寺の変の後、神戸にいた丹羽長秀と織田信孝の軍は、瞬く間に崩壊しました。2万の兵が3千ほどに減ってしまったのです。

 

神戸は京都に近いため、信長の死がすぐに全軍に知られたため、といわれています。

 

しかし、京都に情報網を敷いておけば、兵より早く知ることができたはずです。そして、「仇討ち」を大儀名分に掲げ、軍の崩壊を防げたかもしれません。

 

両者は情報戦については、秀吉のように上手くなかったようですね。

(●^U^●)

 

 

戦国時代、上杉謙信は織田信長をメチャクチャ助けていた!

 

f:id:mizue338:20171014220629j:plain

 

織田信長が美濃の斉藤氏を滅ぼして、100万石の大名になったとき、隣国の信濃は、武田信玄に支配されていました。

 

当時、戦国時代最大の大名といわれていた武田信玄は、最強の戦国武将でもありました。

 

もし、信長が信玄と戦えば、ほとんど勝ち目がありません。信玄の兵は、一人で三人の敵を倒せる、といわれるほど強かったからです。

 

逆に、信長の尾張兵は、弱いことで有名でした。戦で少しでも不利になると、逃げだす臆病者が多かったのです。

 

だから信長は、信玄にやたらとゴマをすります。贈り物を届けたり、自分の養女を信玄の息子に嫁がせます。

 

弱肉強食の戦国時代は、ゴマをすったからと安心できるわけではありません。ゴマすりは、単なる時間稼ぎといえましょう。

 

ところが、信長に幸運が舞い込みます。それは上杉謙信という化け物みたいに強い戦国大名が、武田信玄と戦い続けたからです。

 

信玄は信長の領土を狙う余裕がなくなりました。上杉謙信に常に脅かされるようになったからです。

 

 

謙信は天下に野心がなく、関東の平定を目指していた

 

関東管領である上杉謙信は、関東を平定することに熱心で、天下をとる野望がありません。

 

なので、関東の大勢力・北条氏とも戦い続けました。これも信長に幸いしました。

 

謙信に常に領土を踏みにじられていた北条氏は、信長の同盟者・徳川家康を攻撃する余裕がありません。

 

謙信、あるいは信玄から領土を守るのが精一杯でした。

 

f:id:mizue338:20171014220705j:plain

 

上杉謙信が武田氏と北条氏の大勢力を抑えてくれたおかげで、信長は西へ領土を拡大していくことができたのです。

 

まるで信長のために、上杉謙信は戦っていたような気さえしてきます。

 

後に、武田氏や上杉氏、北条氏が信長や秀吉に敵対しましたが、時すでに遅く、天下の大半を制した上方の兵に打ち負かされます。

  

 

信長と正反対の上杉謙信

 

上杉謙信の戦い方は、織田信長と対照的です。

 

信長は戦術では謙信に劣り、戦略で勝っていた。信長は恥も外聞も気にしないが、謙信は気にした。信長はウソが言えたが、謙信は正直だった・・・・などといわれています。

 

信長は、天下とりのために合理的な戦いをしましたが、謙信はのために戦うことが多く、合理的とはいえない面があったのです。

 

f:id:mizue338:20171014220841j:plain

 

謙信は、雪の降らない季節に出兵して、関東の大半を支配しますが、雪が降る前に本拠地の越後に帰ります。

 

謙信が去った後、北条氏が謙信の支配地を奪い返します。北信濃でも、謙信が去った後、武田信玄が領地を奪い返しています。

 

また、謙信が自ずから兵を率いて、あちこち出兵します。

 

謙信の兵の強さ、戦の頻度の割りには、領土を拡大できなかったようです。

 

これとは逆に信長は、骨折損になるような戦は極力避け、着実に領土が拡大できるよう戦った、といえましょう。

 

 

ひとこと

 

織田信長にとって上杉謙信は、ある時期まで「敵の敵は友」の典型でした。

( ●^д^●)

 

なぜ、武士が生まれたのか?

 

f:id:mizue338:20171013215319j:plain

 

日本には、弥生時代から戦う兵士が存在しました。しかし、武士が生まれたのは、平安時代ごろからです。

 

そもそも兵士と武士の違いとは、何なのでしょうか。どちらも同じような感じがします。

 

まずが違いますが、「兵」と「武」にどんな違いがあるのでしょうか?

 

兵士は、軍隊に属して敵と戦う者のことです。

 

武士も敵と戦う点では同じですが、主に反乱を収めるために戦うという説があります。

 

「武」は、「戈(力、ほこ)」と「止」を組み合わせた合意文字です。

 

「戈」とは、長棒の先にピッケル状の穂先がついた武器です。古代中国で使われていました。

 

武器である「戈」の中に「止」という文字が入って、争いを止める、という意味があるといわれています。

 

他にもいろいろな説がありますが、「兵士」と区別するためにつけられた呼び方であることは間違いありません。

 

兵士は身分の低い者が多かったので、天皇の子孫など身分の高い者が戦をする場合、「兵士」とか「兵」とか呼ぶわけにはいかず、「武士」と呼んだのかもしれません。

 

また、孔子が編纂した注釈書の一つと伝えられる「春秋左氏伝」の「戈を止める」から「武」の文字を解釈して、権威付けしたとも考えられます(^_^)

 

 

平氏と源氏が武士の始まりだった?

 

天皇の一族である皇族から臣籍降下(しんせきこうか)した平氏源氏の中には、武士となった一族がいます。

 

桓武平氏と清和源氏です。この両氏は、反乱を鎮圧するために、坂東(関東)に下りました。しかし役目が終わった後も、坂東の地に居座る者もいました。

 

f:id:mizue338:20171013215410j:plain

 

それらの武士団が国衙や荘園領主と結びついて、領地を増やし坂東で地盤を固めたのでした。平将門や、平清盛の祖先でもある平貞盛が有名です。

 

地元の農民も配下に入れて、坂東の武士団は次第に勢力を増していきます。

 

都の貴族は、武士は戦などの汚れ仕事をする集団として、見下していました。後に武士から政権が奪われるとは、夢にも思っていなかったのです。

 

 

農民も武士になった?

 

次第に、平氏と源氏の配下以外にも、武装していた農民も武士と呼ばれるようになりました。

 

武装した農民の中には、勝手に平氏や源氏の子孫であると自称する者が現われます。正確な戸籍簿のない時代でしたから、言ったもん勝ちでした。

 

つまり農民と武士を兼ねる者が増えていったのです。この武士たちは、都の貴族などに年貢を納めていました。

 

しかし、自分達が命がけで土地を守り、汗水たらして収穫した米を、貴族など権力者の言われるままに、年貢として払うことへの不満が高まっていきました。

 

f:id:mizue338:20171013215436j:plain

 

その不満の高まりが、貴族が日本を支配する時代から、武士が支配する時代へと向かわせたのです。それが鎌倉幕府(1185年頃-1333年)の始まりです。

 

鎌倉幕府の滅亡後、室町幕府(1338年-1573年)、江戸幕府(1603年-1867年)が開かれ、明治維新まで武士の時代が続きました。

 

江戸時代は身分制度が整い、農民と武士を兼ねる者は、原則、いなくなりました。でも、「郷士」といわれる農民と武士を兼ねる身分も存在していたのです。

 

この郷士の中から幕末、明治維新で活躍した人材が多くあらわれました。

 

 

ひとこと

 

お隣の朝鮮半島では、高麗時代に武臣政権(1170年-1270年)という武人が支配する時代がありました。

 

ちょうど日本の武士政権・鎌倉幕府と同じような時代です。

 

日本のように武士(軍人)が支配する政権が長期に続いた国は、世界の中でも珍しいそうです。

 

そのせいなのか、日本の武士は、海外から人気がありますね(●^д^●)

 

 

織田信長は、宣伝マンだった!

 

f:id:mizue338:20171011211440j:plain

 

戦国時代に広告代理店はありませんが、戦国大名は誰でも宣伝マンのような仕事に熱心でした。

 

ある意味、兵の数よりも重要だったのです。

 

兵の数が少なくても、宣伝(情報戦)が上手ければ、兵をより多く集めることができ、戦に勝利できます。

 

逆に、宣伝が下手だと、兵が多くても裏切ったり、逃亡したりします。

 

とくに接戦の場合、宣伝力の差で戦の勝敗を決めることもあったのです。

 

織田信長は、この宣伝マンとしての能力も、他の戦国大名を圧倒していました。

 

 

民衆の口コミを最大限に利用した信長

 

戦国時代は、現代のようにテレビや新聞、インターネットもありません。宣伝媒体は、人間の口から口に伝えられる口コミでした。

 

この口コミを最大限に利用する仕組みを、信長は作りました。

 

つまり、民衆を味方につけ、信長に有利な口コミが起こる仕組みをつくったのです。

 

ちょっとAmazonのレビューに似ているかもしれません。レビューが商品の売れ行きを大きく左右させますね。

 

戦国時代は、口コミが戦国大名の評価を左右させたのです。(`∇´)

 

民衆を味方につけた方法が、孫子兵法にも載ってない画期的なものでした。もちろん、他の戦国大名は実践するどころか、考えもしなかったでしょう。

 

それは、敵地の民衆から略奪を行わないことです。敵地の民衆から食料を徴収する場合、必ず金を払っていたのです。

 

f:id:mizue338:20171011211753j:plain

 

戦国時代は、敵地の民衆から食料を略奪することが当たり前でした。それどころか、女性は辱められ、男性は奴婢にされたりしました。

 

だから戦がはじまると、村人は山に逃げたりします。そして、敵国の兵には、たいへん強い恨みを抱きます。

 

当然、敵国に関する口コミは、悪い評判しか出てきません。

 

信長は、これとは逆のことを行ったのです。

 

敵国の民衆は、信長の兵がやってきても、安心できるため、好意を抱きます。信長の兵に関する口コミも好意的になります。

 

その良好な口コミ媒体に信長は、「信長は、戦で勝利した!」という噂を盛んに流します。

 

すると、その信長の勝利の(流言)に魅かれ、多くの味方する勢力や兵が集まってくるのです。

 

戦をするなら誰でも勝ちそうな側に、味方したがります。

 

信長の噂を流す方法は、人間の心理を上手く利用した口コミ媒体宣伝といえましょう。

 

 

敗北の噂を恐れた信長

 

民衆を味方につけたとはいえ、ウソの噂はなるべく避けました。ウソがバレルと逆効果になるからです。

 

だから、不利になるような噂が流れないよう、信長は極力注意しました。

 

勝利した戦でも、無理な深追いは避けました。深追いして逆襲されると、勝利ではなく、引き分けか、最悪の場合、尾ひれがついて敗北の噂が流れてしまうからです。

 

f:id:mizue338:20171011211826j:plain

 

城攻めで敵が頑強に抵抗して、勝利が見込めないとき、無理やり「講和(引く訳)」に持ち込んだこともあります。

 

信長包囲網(敵対勢力が包囲)のとき、四方を敵に囲まれた信長は、一箇所に長く留まると不利です。といって、下手に兵を撤退させると、「信長が敗北した!」との噂が流れる恐れがあります。あの手この手で「講和」して、敗北の噂を防いだのです。

 

巧みな宣伝活動によって、信長は、他の戦国大名より有利に戦をすすめることができたのでした。

 

 

ひとこと

 

信長の愛弟子である羽柴秀吉も、宣伝(情報戦)がメチャクチャ上手かったです。

 

信長の息子や他の家臣は、秀吉に遠く及びませんでした。

 

秀吉は宣伝が上手かったから、天下がとれたのかもしれません。

(●´I`●)

 

 

維新後、ドイツをモデルにした日本(´△`)

 

f:id:mizue338:20171010224837j:plain

 

明治維新後、日本は新たな国家を築くために模索していました。

 

西洋の近代化に追いつくため、使節団を欧米に派遣しました。岩倉具視を正使とした岩倉使節団(明治4年~明治6年、1871年~1873年)です。

 

アメリカやイギリス、フランスなど視察しましたが、あまりにも日本との文明の差が大きいことに、愕然としました。

 

当時の日本は、燃料は薪、明かりはロウソク、通信は飛脚、陸の交通は馬か人力、船は帆船でした。

 

ところが西洋は、燃料は石油・石炭、明かりは電気・ガス、通信は電気通信、陸の交通は鉄道、船は蒸気船です。

 

圧倒的な差がありました。

 

その産業の担い手は、国営だけでなく民間企業も多数占めていました。民間企業が自由に競争して、産業・経済を活性化させていたのです。

 

日本の使節団の誰もが、いきなり西洋をマネするのは不可能だ、と考えました。

 

いったい、西洋のどの国をモデルとしたらいいのか、悩みました。

 

 

日本と似ていたドイツ

 

ところがドイツを訪れたとき、希望の光がみえました。ドイツは、日本と共通する部分があったからです。

 

1871年、約300の領邦(半自立の国)から成るドイツが統一されました。国内のゴタゴタで忙しかったドイツは、他の西洋の国より産業が遅れていました。

 

遅れを取り戻すため、主に国営で産業を発展させようよとしてたのです。産業を管理するのは、国の官僚です。

 

f:id:mizue338:20171010225135j:plain

 

産業革命を成功させたイギリスは、民間企業による市場経済に力を入れていました。しかし、まがい物商品や詐欺が横行していました。

 

ドイツは、混乱を防ぐため、国の官僚に産業や市場を管理させたのです。

 

日本の使節団の中でも、大久保利通がドイツから学ぶことに熱心でした。

 

 

国営企業をつくった

 

使節団の帰国後、民営の企業もできましたが、徐々に政府所有の国有企業を発足させていきました。

 

電電公社(現NTTグループ)や国鉄(現JR東日本・西日本)、日本郵政公社(現日本本郵政グループ)などが有名ですね。

 

産業以外にも、医学や軍事について、日本はドイツから学びました。

 

いくつもの国有企業ができましたが、現在では、その多くが民営化されました。国有化企業の欠点を無くすためと、市場を活性化するために行なわれた、といわれています。

 

f:id:mizue338:20171010225604j:plain

 

ある国有企業はコスト意識に欠け、赤字を膨らませました。ライバルがいないため、サービスや料金面で顧客満足が得られない国有企業もありました。民営化によって、それが改善されるようになつたのです。

 

いずれにしろ、武士階級の封建制度から脱却して、近代化を目指す岩倉使節団の決断は正しかった、といえましょう(^_^)

 

 

ひとこと

 

使節団が帰国後、国営企業をつくり、役人を採用するとの考えを公にしたら、元武士階級の不満が高まりました。

 

萩の乱や佐賀の乱、西南戦争が起こった一因にもなったようです(o゜ー゜o)??

 

 

内閣という漢語は、明(中国)がつくった(´∀`me)??

 

f:id:mizue338:20171009220035j:plain

 

明日、10月10日に衆議院選挙が公示されます。テレビや新聞を見ていると、なんか、メチャクチャな選挙になりそうです。

 

9月28日に衆議院が解散されましたが、それと同時に衆議院議員は、全員クビになりました。現在、日本に衆議院議員が存在しないのです。

 

そんなときに北朝鮮からミサイルが飛んできたり、災害が起きても大丈夫なのか、と疑問がわきます。

 

でも、昨日、テレビを見ていたら、池上彰がそのことを解説していました。衆議院が解散しても、「内閣」は存在しているので、通常どおりの対応ができるとのこと。

 

「内閣」って便利なものだな、と、ちょっと感心しました。

 

この「内閣」という漢語は、日本ではなく、中国の明王朝がつくったのです。

 

 

明の洪武帝は権力を集中させた

 

明(みん、1368年 - 1644年)は、洪武帝(朱元璋)が建国した中国の王朝です。

 

この洪武帝は、たいへんな勉強家でした。過去の中国の王朝が滅亡した原因を、徹底的に調べたのです。

 

調べてみると、王朝滅亡の原因には、あるパターンがあることを発見します。

 

それは「権力」の流動性です。

 

f:id:mizue338:20171009220129j:plain

 

「権力」とは、何かの切っ掛けで、宦官や軍人、重臣、役人、皇后、皇帝の母親などに、握られてしまうことがあるのです。

 

日本では、将軍の乳母やお犬さまにも権力がありましたね(・・?)

 

つまり、皇帝から「権力」が奪われたり、弱まったときに王朝が弱体化して滅亡へ向かう、ということです。

 

それを防ぐために洪武帝は、家臣や軍人に極力、権限を与えないようにしました。皇帝にだけ権力が集中するようにしたのです。

 

 

内閣は皇帝の補助

 

では、なぜ「内閣」をつくったのでしょうか。権力を皇帝に集中させるための補助として、つくられたのです。

 

広大な明帝国を、皇帝一人で取り仕切るの無理です。

 

そこで皇帝の実務を補佐する「内閣」をつくりました。皇帝の秘書や顧問みたいな役で、権限はありません。また、持たせないようにしました。

 

f:id:mizue338:20171009220206j:plain

 

秦王朝は、取次ぎ役の宦官が権限を握ったことが、滅亡の一因になりました。

 

隋・唐は、軍人に権限を与え過ぎて、謀反を起こされ、滅亡します。

 

逆には、隋・唐を反面教師として、軍人の権限を低くして、文官の地位を上げました。それによって、宋の軍事力は弱体化して、異民族に圧迫され、滅亡しました。

 

だから洪武帝は、それら過去の王朝の二の舞にならないよう、権力を皇帝に集中させたのです。

 

しかし、明王朝第五代皇帝のころから「内閣」が次第に権力を持つようになりました。

 

権力を皇帝に集中させる、という洪武帝の努力も空しく、過去の王朝と同じように、明王朝は滅亡への道にすすんだのです。

 

 

ひとこと

 

豊臣秀吉が朝鮮を攻め、明が援軍を送ったことも、明王朝滅亡の一因です。

 

明の「内閣」はガタガタになっていたのでしょうね( ?´_ゝ`)

 

 

なぜ、江戸幕府は鎖国をしたのか(・・?)

 

f:id:mizue338:20171008214835j:plain

 

江戸時代、江戸幕府は、オランダを除いて西洋の国々と鎖国をしました。長崎に出島を設置して、そこでオランダだけと貿易を行ったのです。

 

東アジアでは、琉球(沖縄)と対馬藩をとおして、明(中国)、李氏朝鮮(朝鮮半島)と貿易を続けていました。

 

でも、戦国時代には、スペインポルトガルとも、盛んに交流があったのです。

 

なぜ、西洋は、スペインやポルトガルを排除して、オランダ一国だけの鎖国体制になったのでしょうか?

 

鎖国など行わないで、西洋と積極的に貿易を続けていれば、日本でも優れた産業が発展したはずですが・・・・?

 

 

豊臣秀吉がバテレン追放例を出した

 

織田信長は、ポルトガルのバテレン(神父)と良好な関係にありました。豊臣秀吉も信長の政策を継承して、キリスト教の布教を容認していました。

 

しかし、天正15年(天正15年)に、豊臣秀吉はバテレン追放令を発します。

 

秀吉が九州を平定した後、長崎がイエスズ会の領地になっていることを知ったのです。

 

また、ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として、ポルトガルに連れて帰っていた事実も知りました。

 

その他、様々な理由で、バテレン追放令が出されたのです。

 

1.キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。

2.キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため。

3.ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。

4.秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。

  参照元:バテレン追放令-ウィキペディア

  

f:id:mizue338:20171008214922j:plain

 

また、秀吉は、ポルトガルやスペインが東アジアの国々を植民地化するために、キリスト教の布教を足掛かりにしていたことを知ります。

 

キリスト教の布教を容認していれば、やがて本願寺一向一揆のような巨大な武力集団ができることを、恐れました。

 

江戸時代になっても「島原の乱」など、キリスト教徒による大規模な反乱が起きます。反乱後、江戸幕府では、キリスト教の禁止令を強化しました。

 

そして、キリスト教の布教に力を入れるスペインやポルトガルの来航を禁じます。キリスト教圏である西洋の国々の中で、貿易に力を入れるオランダのみ来航を許可したのでした。

 

もちろん、キリスト教の布教禁止を条件に、オランダと貿易を行いました。

 

 

織田信長なら鎖国したか?

 

戦国時代、織田信長は西洋の学問や技術に、たいへん興味をもっていました。キリスト教を保護して、教会もつくらせました。信長の領内で、布教も許可しています。

 

宣教師が献上した地球儀や時計、世界地図、黒人などに、信長は夢中になります。

 

信長は「西洋かぶれ」になった、といっていいかもしれません。南蛮の帽子やマントを好んで着用します。

 

常に新しいものを求めてやまない信長は、日本国内平定後、西洋と積極的に貿易を行う考えを持っていた、という見方がされています。

 

f:id:mizue338:20171008215004j:plain

 

それは、豊臣秀吉と徳川家康の支配体制と比較すると、推測ができます。

 

信長は、天下の大半を支配したころから、敵対勢力に対する方針を変えたのです。以前は、戦で負けた敵を、信長の傘下に入れることがありましたが、それをやめて、取り潰すようになりました。

 

敵から奪った領土は、家来に支配させ、直轄地を増やそうとしたのです。

 

これは、各地域にいる権力者が支配する封建制度とは違う、中央集権制を目指していたため、ともいわれています。

 

中央の政権が日本全国を治められる、強固な国家体制を目指していたものと考えられます。

 

たとえキリスト教を足掛かりに西洋が、日本を植民地にしようとしても、つけ入る隙を与えない体制です。

 

豊臣秀吉と徳川家康の天下では、各大名や各藩が半独立国として存在していました。

 

これでは、西洋がその半独立国を足掛かりにして、豊臣政権や江戸幕府を切り崩する恐れがあります。

 

江戸幕府は、やもえず鎖国した、といえましょう(・∀・。)

 

 

ひとこと

 

鎖国のおかげで、日本人は江戸文化を開花させた、といわれています。

 

日本独自に、算術や工芸技術、文化が発達しました。

 

幕末の開国後、これが西洋文明を吸収するための下地になった、と考えられています。

(●´▽`●)

 

 

iPhone5からiPhone8に替えて、月額料金が下がった(*´д`)??

 

f:id:mizue338:20171007213750j:plain

 

今朝、眼科検診の帰り、携帯ショップの呼び込みのお姉さんから、声をかけられ、iPhone8をすすめられました。

 

私はiPhone5を、もう5年も使っています。最近、あちこち故障が多いので、話を聞きました。

 

「ただし、今より料金が下がるなら考える!」との条件つきで、お店のカウンターに座ったのです。

 

結局、iPhone8を購入しました。カウンターのお姉さんの口がうまかったのもありますが、月々の料金が下がり、サポート面でも納得できたからです。

 

iPhone8なんか高価だから、いらない!・・・・と思っていましたが、話は聞いてみるものだな、と思いました。

 

 

iPhone5で5年間、余計な料金を払っていた

 

お店のお姉さんに、現在の契約内容を調べてもらいました。すると、無駄が多かったことがわかりました。

 

私のiPhone5の契約は、7GBのデーター通信サービスに入っていました。しかし、実際、私は毎月、0.8GBぐらいしか使っていなかったので、えらい無駄です。

 

内臓メモリは64GBなのですが、2GBしか使っていません。無駄だらけです。

 

その他、デザリングやお留守番など、使用していないサービスにも入っていました。

 

f:id:mizue338:20171007213813j:plain

 

これらの無駄なサービスをやめて、iPhone8を分割払いで購入すると、月額約1,000円も安くなるのです。

 

しかも最初の一年間は、特別な値引きがあるんだとかで、月額合計で約2,000円も料金が安くなるとのこと。

 

また、さらにプラスアルファがありました。この料金に保険も含まれているのです。現在、使っているiPhone5に、保険は付けていませんでした。

 

これなら故障したときも安心です。

 

 

修理店や自分で修理するのは、もうイヤだ!

 

私のiPhone5は、過去3回、故障しました。2回は近所のiPhone修理店で直しました。

 

1回目と2回目のiPhone修理店は、それぞれ別の店です。どちらも、二度と行きたくない修理店です。

 

1回目の修理店の対応が悪かったので、2回目は別の修理店に行ったのですが、そこも、ひどい店でした。

 

もちろん、これは、たまたま私が行った2つのiPhone修理店での話です。運が悪かっただけかもしれません。

 

メーカー修理にはないメリットを提供する評判の良いiPhone修理店も、たくさんあるといわれています。

 

 www.mizue338.net

 

  3回目はバッテリーが故障したので、自分で修理しました。ネットで修理セットを購入しました。

 

しかし、バッテリーを交換するだけの単純作業なのですが、ネジが小さいので、とてもやりずらかったです。ネジを無くしそうです。

 

予備のネジを買おうと思いましたが、ネジにしては高価なので、やめました。

  www.mizue338.net

  

今回、保険に加入したことで、これらの心配から開放されそうです。

 

故障した場合は、最寄のApple正規サービスプロバイダーに持ち込むことができます。

 

すぐに修理ができない場合でも、携帯ショップで代替機を貸してもらうことができます。そこのショップの説明では、代替機はAndroidとのこと。

 

私の仕事の内容からして、一時的ならAndroidを使用しても支障はない、と判断しました。

 

iPhoneのアプリもある程度、Androidでも使えるそうです。

 

月額料金が節約できて、故障の不安からも開放された気分になりました(^○^)

 

 

ひとこと

 

いいことばかり書きましたが、今朝、iPhone8を購入したばかりなので、これからのことはわかりません。

 

何か気づいたことがありましたら、報告したいと思います(●^U^●)