みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

なぜ、中国や韓国ドラマには奴婢が多いのか(*´д`)??

 

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韓国や中国の歴史ドラマを見ていると、やたらと奴婢(奴隷)が登場することに驚きます。

 

日本の歴史ドラマや映画、漫画で、奴婢が出てくるシーンを見たことがありません。

 

これはいったい、どうゆうことなのでしょうか。日本には、奴婢はいなかったのでしょうか?

 

ネットで「奴婢-ウィキペディア」を見たら、日本にも奴婢がいたことがわかりました。

 

でも、日本の奴婢は、中国や朝鮮と比べると、扱いが寛容だったようです。

 

江戸時代には、人身売買を犯すと死罪になり、公に奴婢は存在しなくなりました。

 

といっても江戸時代は、300前後の藩が独自に領地を支配していました。

 

なので「人身売買の禁止」が、すべて藩で実行されていたかどうかは、定かではありません。

 

少なくとも幕府の支配地では、実行されていたのでしょうね。

   

 

日本は奴婢の廃止が早かった

 

中国や朝鮮は、古代から異民族との争いが絶えません。戦で負けた側は、奴婢として扱われることが多かったのです。

 

遊牧民や狩猟騎馬民族は、異民族の奴婢を、家畜のように扱うことがありました。

 

捕虜を奴婢にするだけでなく、罪人や借金を払えない民も奴婢にしていました。

 

ところが、日本は島国のため、同じ日本の民族同士で争います。戦で敗者を奴婢にしたとしても、大陸の中国や朝鮮ほど、ひどい扱いにはならなかったようです。

 

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日本の律令制の時代(飛鳥、奈良、平安)、主人が勝手に奴婢を殺害すると、重い罪が科せられました。

 

また、日本では江戸幕府(1603~1868年)が人身売買(奴婢の)を禁じました。しかし、年貢上納(借金返済)のための娘の身売りは認められていました。

 

中国で実質的に奴婢が禁止されたのは、中華人民共和国(1949年~)の時代からです。朝鮮は日韓併合(1910~1945年)の前まで奴婢がいました。

 

日本人の記憶からほとんど消えてしますほど、日本は、奴婢の廃止が早かった、といえそうです。

 

だから、日本の歴史ドラマに奴婢が出ないのかもしれません。これは私が見た歴史ドラマの範囲での話しですが・・・・。

 

 

奴婢の解放に力を入れた信長

 

戦国時代の織田信長も奴婢の解放に力を入れました。

 

この時代、農民が兵士を兼ねていることが多かったのです。

 

しかし、それでは効率が悪いので、専業の兵士と農民をつくり、「兵農分離」しました。

 

そして、農業にたずさわる奴婢(農奴)を、小作人、あるいは本百姓にしたともいわれています。

 

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奴婢から開放された農民は、やりがいを感じ、一所懸命に農作業に励みました。

 

人から使われているのではなく、独立経営者になったのですから、頑張れたのです。

 

もちろん、その分、信長の年貢も増えたわけです。

 

江戸幕府は、士(武士)・農(農民)・工(町人や職人)・商(商人)・賤民(えた、ひにん)などの身分制度を定めました。

 

奴婢の存在は消えていましたが、信長の影響も受けていたのかもしれません。

 

 

ひとこと

 

西洋の奴隷制度は、東アジアより、かなり過酷だったようです。

 

日本人でよかった、と思います(●´∀`●)

 

 

ブログ記事を電子書籍化したい(´▽`;)

 

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他の方のブログを拝見していると、ブログ記事を電子書籍化している人がいます。

 

正直、うらやましいです(*゚0゚)

 

私も、ヘタウマ小説を電子書籍でAmazonに出版しましたが、続編が書けません。

 

ヘタウマ小説を書いたのが、はてなブログを始める前だったので、執筆に集中することができました。

 

でも、今は仕事の合い間にブログ記事を書いているので、そんな時間はありません。

 

そこで、ブログ記事を電子書籍化することを考えました。これなら一石二丁です。

  

 

カテゴリーの記事が20個で電子書籍化

 

記事の電子書籍化のため、私のブログは、下記のようにカテゴリーを少し細かくしました。

 

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この中で「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康 」、「剣豪」など、自分が興味があって、一つの文章として、まとめられそうなカテゴリーを電子書籍化したいと考えています。

 

また、来年のNHK大河ドラマは「西郷どん(せごどん)」ですので、「西郷隆盛」もカテゴリーに加えてみたいです。

 

カテゴリー内の記事が20個ぐらいになったら、電子書籍用に文章をリライト(修正)します。

 

なぜ、20記事なのかというと、私のブログは一記事1000文字余りです。20記事で約2万字になります。

 

AmazonのKindleでは、最低2万字のボリュームがあったほうが好ましい、とされています。

 

他には、100円ぐらいで販売するなら1万字でも大丈夫だ、という意見もあります。

 

私もできれば1万字ぐらいのほうが楽なのですが、最初は念のため、2万字を目指して頑張ります。

 

以前、AmazonのKindleで105円で買った本が5千文字ぐらいしかなく、ガッカリした経験があります。価格は安くても文字数が少なすぎると、読者から不満を持たれると思いました。

 

ちなみに、私が最初にAmazonに出版したヘタウマ小説「変人・信長の思考回路」は2万字弱で、112円(現時点)で販売しています。

  

 

複数冊の電子書籍出版のメリット

 

当たり前ですが、多く本を出せば、その分だけ売れます。

 

また、AmazonのKindleで、1冊につき90日に1回、5日間「無料キャンペーン」ができます。本の販売利益は0円ですが、無料で宣伝ができるのです。

 

「無料キャンペーン」で同じ著者の関連本も紹介されますので、他の電子書籍も売れるわけです。

 

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出版した電子書籍の数が多いほど「無料キャンペーン」の回数も増えます。無料で宣伝できる回数が増えるわけです。

 

でも、本を何冊も書くのは、なかなか大変なことです。ブログ記事を、うまく利用して挑戦してみます。

 

それと、記事タイトルだけでなく、カテゴリー名自体が検索されることを知りました。私が知らなかっただけかもしれませんが・・・・。

 

ある日、アニメのキャラクター名を検索したら、1ページ目の中間あたりで、そのブログの記事タイトルではなく、カテゴリー名で載っていました。

 

私は、カテゴリー名を適当につけていましたが、SEOを意識してカテゴリー名をつけることも、大事だと思いました。

 

 

ひとこと

 

電子書籍の表紙やレイアウトも大事です。

 

2冊目は、もっと体裁のいい書籍にしたいと思います(●^皿^●)

 

 

古代中国と日本の合従連衡(・∩・)?

 

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中国を初めて統一した(しん、紀元前778年 - 紀元前206年)は、戦国時代に周辺の六ヶ国(楚、韓、斉、魏、趙、燕)と戦いを繰り広げていました。

 

六ヶ国が同盟して、強国・秦に対抗しましたが、なかなか優勢に立つことができません。

 

この六ヶ国が同盟することを「合従(がっしょう)」と呼びました。

 

秦は、六ヶ国の合従を切り崩そうと、六国の間を対立させるように仕向けました。これを「連衡(れんこう)」といいます。

 

結局、合従は失敗に終わり、連衡が成功して、秦が中国を統一します。

 

 

 

なかなか足並みが揃わない合従(同盟)

 

ある時、六ヶ国の合従が効果をもたらして、秦に大打撃を与えます。

 

しかし、六ヶ国は互いに疑心暗鬼になり、漁夫の利を得ようと団結にヒビが入りました。

 

追い詰められた秦からの反撃で、自国の兵の損害をできるだけ少なくしたい、と逃げ腰になったのです。

 

真っ向から戦い、秦を滅亡させたとしても、他の五ヶ国から攻撃されては、自国が次に滅ぼされてしまいます。

 

これは秦の連衡の策が功を奏し、六ヶ国が互いに疑うようになったのです。

 

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具体的には論客を特定の国に向かわせ、秦との同盟のメリットを説いて、六ヶ国同盟(合従)から離反させます。

 

また、間者(かんじゃ、スパイ)を潜入させ、六ヶ国が互いに疑いたくなるような噂を広めます。

 

何を考えているかわからない他の五ヶ国と組むより、強国・秦と同盟(連衡)したほうが無難と思わせたのです。

 

秦は、分裂した六ヶ国を次々に撃破して、滅ぼしていきました。

 

 

日本では信長包囲網が似ている

 

中国と比べたら、日本は国の面積がとても狭いですが、「合従連衡」に似たようなことがありました。

 

その代表的なのが「織田信長の包囲網」です。

 

浅井や朝倉、武田、毛利、三好三人衆、雑賀衆、将軍・足利義昭、比叡山延暦寺、石山本願寺などが同盟して、織田信長に対抗したのです。

 

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実際には、第一次、第二次、第三次と包囲網の時期があり、敵対勢力も入れ替わっています。

 

しかし、古代中国・秦のように、「連衡」の策で包囲網(合従)を崩せたわけではありません。

 

信長は、「連衡」のようなことをやりましたが、あまり効果がなかったようです。

 

それよりも、日本で唯一、信長だけが構築した「兵農分離・楽市楽座」を基本とするシステムが功を奏し、「信長包囲網」は徐々に崩壊に向かっていきます。

 

また、「連衡」よりも、遠方の敵を味方にして、近隣の国を攻撃する「遠交近攻」の策が成功したようです。

 

 

ひとこと

 

最近、テレビのニュースや報道番組などで、現在の「合従連衡」が見れます。

 

どうゆう結果になるのか、たいへん気になります。

 

日本がよい方向にむかってくれると、いいですね(●^□^●)

 

 

猫は、砂漠からやってきた(*´д`)??

 

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ブログ記事の更新を5~6日も休むと、脳みそが「ブログお休みモード」になります。

 

更新するのが面倒くさい!・・・・という感じになってくるのです。

 

だから少し肩の力を抜き、日常のことも書きたいと思いました。

 

でも、私の日常生活はワンパターンです。仕事も法人がお客さんなので、ブログ向きではありません。

 

しかたがないので、私の家の裏でフンをする黒猫のことを書きます。

 

この夏は、家の後ろの窓を開けると、とても猫のフンが臭かったです。雨が多かったので、湿気が原因だと思いました。

 

どこからやってきたのか、近所の黒猫が家の裏で昼寝をしたり、用を足したりするのです。

 

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猫を追い払うため、薬局で猫を近づけなくする薬を買い、家の裏に散布しました。

 

また、黒猫を見つけると、家の壁を叩いて脅かしてやりました。

 

その甲斐あって、黒猫は、最近やってこなくなりました。めでたし、めでたし、です(⌒o⌒)

 

しかし、心配なことがあります。

 

猫がやってこないと鼠が増えてしまうのではないか、ということです。

 

だから、黒猫をイジメすぎたことに、少し不安を感じています。

 

 

 

猫は米と一緒に中東からやってきたのか?

 

現在では、家猫はどこにでもいますが、昔から日本にいたわけではありません。

 

エジプトやヨーロッパからつれてこられた、といわれています。

 

また、DNAの解析結果では、中東から猫がやってきた説もあります。

 

米英独等の国際チームによる2007年6月29日の『サイエンス』誌(電子版)への発表では、世界のイエネコ計979匹をサンプルとしたミトコンドリアDNAの解析結果により、イエネコの祖先は約13万1000年前(更新世末期〈アレレード期(英語版)〉)に中東の砂漠などに生息していた亜種リビアヤマネコであることが判明した。

 参照元:ネコ-ウィキペディア

 

そして、中東の砂漠からシルクロードを通り、中国や朝鮮を経由して日本へ猫がつれてこられた、とも考えらています。

 

なぜならば、米(稲)も中東から中国や朝鮮を経由して、日本へとわたってきたからで

す。

 

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つまり、鼠の被害を防ぐために、猫も米と一緒につれてこられたようです。

 

だから、猫は人間にとって、たいへん重要な動物なのです。少しくらいフンが臭いからと、イジメてはいけない、と思いました。

 

 

 

西方の農耕民が中国に定住して、遊牧民は北方に住んだ?

 

中国で最初に農耕を行った集団は、西方(中東あたり)からやってきた農耕民族といわれています。

 

このことは、様々な遺跡の調査によって確かめられています。

 

遺跡で見つかった種の化石の西瓜(すいか)や胡麻(ごま)は、アフリカが原産です。

 

そのほか西方から、わたってきた農産物や器などが、多数、発掘されているそうです。

 

一方、西方の遊牧民は、中国の北方に移り住んだといわれております。

 

もちろん、元から住んでいた民族と争ったり、同化したりして、より大きな集団を形成したことでしょう。

 

そして、遊牧民には馬と犬が必要でしたが、農耕民には猫が欠かせない存在だったのです。

 

現代でも鼠をとってくれる猫は、大事にして可愛がらないといけませんね(*゜▽゜)

 

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ひとこと

 

日常のことを書こうと思ったら、「猫と米の歴史」の話になってしまいました。

 

脳みそが「ブログ書くぞモード」になってきているのかも(●´∀`●)

 

 

織田信長は、変人で発達障害なのか?

  

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織田信長は、発達障害だった、という噂があります。

 

発達障害の症状を簡単にあげると、落ち着きがない、衝動的な行動と発言、物事へのこだわりが強い、空気が読めない・・・・などがあります。

 

発達障害の代表的なものに、ADHD(注意欠陥・多動性障害)やAS(アスペルガー症候群)があります。

 

たしかに織田信長に関する本を読むと、発達障害にあてはまりそうな部分があります。

 

少年のころは学問が嫌いで、寺子屋から抜け出し、遊びに行くことが多かったのです。

 

町中で、握り飯を食べながら歩いたりします。衣服にも無頓着で、腰にヒョウタンやお菓子が入った袋をぶらさげていました。

 

また、人にあだ名をつけるのが大好きで、初対面の人にも平気でつけていました。

 

だから「うつけ」と人々から呼ばれ、アホだと思われていたのです。

 

そんな信長が、尾張半国の領主から天下の大半を制覇するとは、誰もが想像しませんでした。

 

 

 

天才に発達障害が多い

 

発達障害と噂されている有名人は多いです。また、発達障害といわれる人のなかには天才も少なくありません。

 

20世紀最大の科学者であるアイン・シュタインは、アスペルガー(AS)といわれています。

 

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彼は、5歳まで言葉を話すことができませんでした。

 

そして、学校の授業中、授業に集中できず、窓の外ばかり眺めていて、数学以外の成績は、とても悪かったといわれています。

 

「頭の回転がにぶく、内気で、何もできない」というような酷評が教師からされていました。

 

発明王のエジソンも、問題児でした。LD(学習障害)とADHD(注意欠陥・多動性障害)を患っていたといわれています。

 

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障害のおかげで、教師からは「腐れ脳みそ」と罵倒されたりします。そして、入学からわずか3ヶ月で学校から追い出されます。

 

勉強は、自宅で母親から教わることになりました。

 

しかし両者は後に、様々な発見・発明をして、人類に多大な貢献をします。

 

発達障害者は、脳に障害がある分、別の部分が非常に発達していることが多いそうです。

 

部分的超発達者なのかもしれません。

 

 

 

師の存在で天才に育つ

 

功績を残した発達障害者といわれる人には、の存在によって才能が開花した人もいます。

 

エジソンは、母親から学問を学んだことが有名です。

 

織田信長には、父親の信秀と、学問の師・沢彦宗恩(たくげん そうおん)の存在があります。

 

師の存在によって、発達障害の欠点が長所へと、転換されたのかもしれません。

 

 

ひとこと

 

Amazonのkindle(電子書籍)で、少年時代の信長の、変人の面と天才の面を描いた小説が少し売れました。

 

「文章は、とてもヘタクソだが、面白い!」というような評価も、頂きました。

 

Kindle unlimitedで0円です。

 

よろしければ、せひ、ご一読お願いいたします(^□^*)

 

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 「変人・信長の思考回路」

 

 

幕末、薩摩藩は、なぜイギリス軍に負けなかったのか(ー_ー?)

 

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19世紀、イギリスは大英帝国(だいえいていこく)と呼ばれ、植民地・海外領土を合わせると、世界最大領土をもつ超大国でした。

 

東アジアの大帝国・清は、そのイギリスに対抗できる軍事力がなく、あっさりと「アヘン戦争」で負けてしまいます。

 

負けた清は、多額の賠償金を払い、香港島を割譲しました。香港島はイギリスの植民地になったのです。

 

その世界最強の軍事力を持つイギリスに、日本の小さな地方政権でしかない薩摩藩が、「薩英戦争」で、負けるどころかイギリス軍を追い払ってしまったのです。

 

薩摩藩はイギリスの艦砲射撃により、鹿児島城下の約一割を焼かれ、軍事施設にも損害を受けました。

 

しかし、「ちっぽけな薩摩なんか、すぐ降伏してくるだろう」と油断していたイギリスは、予想外の損害を被ります。

 

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薩摩藩の放った砲弾がイギリス軍の旗艦ユーライアラスに命中したのです。艦長・司令や次官司令などの士官が戦死しました。

 

その後、イギリス軍は劣勢に立たされ、薩摩への攻撃を諦め、講和して横浜に逃げ帰ります。

 

この薩摩の戦勝に、世界中が驚きました。

 

当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」

 

参照元:薩英戦争-ウィキペディア

 

 

 

薩摩藩は海外と貿易して力をつけた

 

江戸時代、日本は鎖国をしていました。しかし薩摩は琉球(沖縄)を通じて、密貿易を行っていたのです。

 

薩摩藩の第11代藩主・島津 斉彬(しまづ なりあきら)のときには、西洋の工業技術を積極的に取り入れていました。

 

富国強兵のため、地雷・水雷、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設をしました。

 

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その他、ガラス・ガス灯の製造、水力発電や電信通信(モールス信号)が、薩摩藩内で実施されていたのです。

 

いずれも日本初ともいえる技術が実用化されていたのです。

 

薩摩藩以外の他藩や幕府は、ここまで熱心に西洋文明を取り入れてはいないようでした。

 

鎖国状態で戦のない平和な日本は、「井の中の蛙」になっていたようです。

 

 

 

競争の原理が働いた薩摩藩

 

密貿易で海外と交流していた薩摩藩は、日本国内では「鎖国」に近い状態でした。

 

幕府の隠密が薩摩の内情を探りに侵入すると、絶対に生きて戻れない、とまで言われていました。

 

密貿易や富国強兵のことも外部に知られないよう、徹底していたのです。

 

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これは幕府を「仮想敵国」と考えていたからです。

 

薩摩藩内では、武術鍛錬も他藩と比較にならないほど盛んでした。「薬丸自顕流」という超実践的な剣術流派を学ぶ人が多く、農民まで習っていました。

 

幕末、幕府との戦で、この薬丸自顕流が大活躍します。

 

薩摩藩は幕府を「敵」とすることで、競争の原理が働き、世界最強のイギリス軍にも負けない軍事力を持つことができたのかもしれません。

 

 

ひとこと

 

成長の糧として、敵(ライバル)の存在は、とても重要ですね(●´∀`○)

 

 

セブンイレブンと織田信長(*´д`)??

 

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世の中には革新的な経営者は、たくさんいます。ソフトバンクの孫正義氏や三木谷 浩史氏などが有名ですね。

 

でも、一番、身近に感じるのは、セブンイレブンを創業した鈴木敏文氏です。

 

なぜならば、私はセブンイレブンで、よく買い物をするからです。マンガの立ち読みもします。

 

弁当やお茶、ビール、ATM、公共料金の支払いなど、本当、よく利用します。

 

とくに、トイレが我慢できないときにコンビニを見つけると、神様に出会ったような気持ちになります\(^ ^)/

 

もし、日本にコンビニがなかったら、日常生活はもっと不便だったことでしょう。24時間営業で近所にあるコンビニは、ありがたい存在です。

 

そして、日本のコンビニ業界を牽引する、セブンイレブン創業時の話が、とても興味深いです。

 

 

仕組みをつくるのに苦労した

 

セブンイレブンは、1974年に東京の江東区豊洲に1号店をオープンさせました。

 

しかし、同社初のコンビニを出店すると、問題が発生します。

 

商品を納入するために、1日に数十台の配送車が店にきます。店員さんは納品業務で忙しくなり、店の前には配送車が何台も停車します。

 

スーパーと違い、コンビニは店舗面積が狭いので、倉庫がほとんどありません。

 

小スペースのため、卸元からロット単位ではなく、小単位で配送してもらう必要がありました。そして品揃えのために、いくつかのメーカーの商品を取り扱わないといけません。

 

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そのため、配送車が何台も納品にきてしまうのです。

 

それを改善するため、卸元と交渉して、いくつかのメーカー品も一緒に配送するよう説得しました。最初は抵抗されましたが、最後には応じてくれたのです。

 

卸元が小分け配送に応じたのは、セブンイレブンがドミナント戦略を実行したからです。

 

ドミナント戦略とは、特定の地域に集中して出店させていくことです。当初は東京の江東区内だけに出店しました。

 

これによって、配送効率がよくなり、小分け配送が可能となったのです。

 

このほかPOSを使用しての販売データー管理など、革新的な仕組みをつくりあげていきます。

 

表面には見えない優れたシステムによって、コンビニが運営されているわけですね。

 

 

織田信長も仕組をつくるのに苦労した

 

織田信長は、尾張の小さな大名であったころ、「兵農分離」「楽市楽座」の仕組みをつくります。

 

当時、戦になると農民が徴兵されていました。なので、農繁期は戦は行われず、農閑散期に行われていました。

 

「兵農分離」することで、農民ではない専業の兵士を組織することが可能になりました。

 

信長の専業兵士は、農繁期に敵国を攻められるようになります。農作業で忙しい敵国は、たまったものではありませんでした。

 

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その他、様々に「兵農分離」の利点が発揮され、信長は領土を拡大していきます。

 

そして、農作業をやらない専業兵士を養うために、「楽市楽座」で資金を稼ぎました。

 

この時代、商売をするときに「座」という組織に入っていないと、許可されません。勝手に商売をすると、袋叩きにされたり、命さえ奪われます。

 

「座」の主である寺社から信長は、その特権を奪い、誰でも自由に商売ができるようにしました。

 

そこからの税が信長の収入となり、専業兵士を養うための財源となったのです。

 

仕組みをつくる途上、大きな困難があった「兵農分離」と「楽市楽座」ですが、この二つ基本政策が両輪のように生かされ、他の戦国大名を圧倒します。

 

 

ひとこと

 

人々が思いつかないようなことを考え、実行し結果を出す点で、セブンイレブンの創業者と織田信長が似ている気がしました。

 

両者とも、とても便利なものを創るのが得意ですね(●´▽`●)

 

 

秀吉は信長を「気配り」でコントロールした(^◇^)

 

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家臣にとって、生殺与奪の力を持った権力者ほど恐ろしいものはありません。虎と一緒にいるようなものです。

 

「狡兎死して走狗烹らる」は、古代中国・越の范蠡(はんれい)が残した言葉です。

 

兎(うさぎ)がいなくなれば、猟犬も必要がなくなるので、猟犬は釜で煮られて食べられてしまう・・・・という意味です。

 

権力者が、必要がなくなった家臣を殺害したり、追放する、ということですね。粛清(しゅくせい)と言われたりもします。

 

この言葉に当てはまる権力者のなかで、とくに有名なのが漢王朝を興した劉邦です。

 

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漢の三傑である韓信(かんしん)をはじめ、従兄弟の盧綰(ろわん)、彭越(ほうえつ)、英布(えいふ)など多くの功臣が犠牲になりました。

 

逆に相国の蕭何(しょう か)は、高い身分を保ったまま、劉邦のもとで粛清されることもなく、生涯を終えます。

 

過去、日本でも、このような粛清は、たくさんありました。

 

織田信長が天下統一に近づいたころには、家臣の佐久間信盛や林秀貞が追放されました。

 

もし、信長が本能寺の変で横死しなかったならば、粛清された家臣は多大な数になったかもしれません。

 

そんな中で、サル顔の羽柴秀吉は、漢の蕭何と同じように、権力者の逆鱗をうまく避け大活躍しました。

 

 

信長の性格を理解していた秀吉

 

信長は独裁者でした。家臣は、信長を恐れ敬い、仕えていました。

 

古参で勇猛な柴田勝家でさえ、信長の前では、ただの従順な家臣でしかありません。

 

ところが秀吉は、信長の性格をこまめに分析して、まるで刃(やいば)の上を歩くような危険なことも、平気でやってのけました。

 

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「気配りの達人」である秀吉は、信長の性格を深く理解することができたからです。

 

信長に対する秀吉の仕え方は、他の家臣とは別次元です。まるで信長を、うまくコントロールしていたようにみえます。

 

 

軍令違反をしても許された秀吉

 

秀吉は、通常なら死罪や蟄居になるような命令違反を犯したことがあります。

 

加賀平定のため、秀吉が与力(よりき)として、柴田勝家の配下になったときでした。

 

勝家とケンカ別れした秀吉は、信長の許可を貰わず、勝手に引き上げてしまいます。軍令違反は、切腹を免れない重罪です。

 

しかし、秀吉は、「信長が自分を殺すわけがない」という自信がありました。

 

居城の長浜城に戻ると、城内に役者を呼んで芝居見物したり、ドンチャン騒ぎをしました。役者やまわりの人間に金銭を惜しげもなくばら撒いたのです。

 

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それを使者から聞いた信長は、「あの猿めが」と苦笑いして、秀吉を許します。

 

主君から疑われたり、命を奪われそうになると、謀反(むほん)を起こす者もいます。

 

だから秀吉は、ドンチャン騒して金をばら撒くことにより、謀反の意思がないことを、信長にアピールしたのです。

 

また、松永弾正が反旗を翻したり、中国の毛利家が必死の抵抗を続けています。そんなときに、秀吉のような優秀な将を失うわけにはいきません。

 

信長の性格と、取り巻く戦況を計算して、秀吉はうまく復帰することに成功したのです。

 

 

備前の宇喜多直家を勝手に許した秀吉

  

備前を攻め、大名の宇喜多直家を殺害するように、秀吉は信長から命じられていました。

 

しかし、これも信長に許可を貰わず、勝手に許してしまします。

 

信長は激怒しますが、またもや秀吉のあの手この手を尽くした計略によって、信長は許してしまうのです。

 

そして、宇喜多家の兵一万をそっくり味方にできた秀吉は、毛利氏を降伏寸前まで追い込むことに成功します。

 

 

「気配り」で信長をコントロールした

 

このように信長が秀吉を許してしまうのは、秀吉の実力と信用のおかげでもありますが、それだけではありません。

 

秀吉の信長への「気配り」が、半端ではなかったからです。

 

軍師の竹中半兵衛とも相談して、より信長から気に入られるために、綿密な作戦をたてました。

 

信長の四男を養子にしたり、「日本の領土は上様(信長)に返して、唐天竺までのために攻めにいきます」とか大法螺を吹きます。

 

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信長の子を養子にすることで、秀吉の領土は信長の子が相続することになります。つまり信長の子に、領土が戻ってくるわけです。

 

「唐天竺」まで攻めに行くという大法螺も、将来、起こりうる粛清の危険から免れるためのものです。

 

戦で忙しい最中でも、総大将である秀吉自信が信長のもとへ出向き、報告しました。これは謀反を疑われないためと、ご機嫌をとるための「気配り」です。

 

しかし、本能寺の変で信長が地上から消えると、この「気配り」が天下統一のために使われたのでした。

 

 

ひとこと

 

織田信長は、すばらしい人ですが、この人の下で働くのはイヤです。

 

秀吉の下で働きたいですね(●^U^●)

 

 

19世紀、中国は西洋に、なぜ負けたのか(*´д`)??

 

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羅針盤、火薬、紙、印刷は、中国の四大発明と呼ばれています。

 

古代、この四大発明は東洋だけでなく、西洋にまで伝わりました。

 

東アジアの中国の周辺国は、中国を師の国として、文化・文明を学びました。もちろん、日本も含まれます。

 

ところが19世紀、中国(清)は、欧米の列強に領土を蚕食(さんしょく)されます。

 

あれほど中華文明を誇った中国が、なぜ、19世紀に西洋に手も足もでない状況に陥ったのでしょうか?

 

 

競争原理が活発でなかった中国

 

17世紀ごろまでは、中国と西洋の間で、工業技術に大きな差はなかったといわれています。

 

しかし、徐々に中国と西洋の差がひらいてきます。その主な原因は、競争原理の活性化の差でした。

 

つまり、中国は国内での工業や様々な技術の競争が活発でなかったため、発展が停滞したのです。

 

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一方、西洋は、中国より狭い面積の地域で、いくつもの国がしのぎを削り、競争が活発になりました。

 

数十カ国(現在50カ国)から成る西洋は、当時、国と国との争いが絶えません。

 

すると、敵国に勝つために、工業や科学をはじめ、様々な文明の技術が発達しました。

 

要するに西洋の国同士で、切磋琢磨して文明を成長させることができたのです。

 

ところが中国(清)は、切磋琢磨できるライバル(敵国)がいなかったのです。

 

ライバルがいないため、「中華文明は偉大だ!」とか、「中国は世界の中心だ!」と過大な自信を抱き続けてしまったのです。

 

その結果、19世紀、中国の清帝国は、西洋文明の前に歯が立たず、滅亡します。

 

 

中国と西洋の差を生んだ原因とは?

 

中国は西洋(ヨーロッパ)より、広い領土でありながら、統一王朝が支配していた時代が長く続きました。

 

中国が一つの国として成立できた理由は様々ありますが、比較的、平地が多かったことが挙げられます。

 

平地は攻めやすく守りにくいので、一つの国として、まとまりやすいのです。

 

逆に国と国が山岳地帯で隔てられていると、攻めにくく守りやすいので、いくつかの国の並存が可能になります。西洋がそうですね。

 

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また、中国の北方の草原や森林地帯には、騎馬民族が住んでおり、常に中国を侵犯していました。

 

中国は、いくつかの王朝に分裂している時代でも、北方の騎馬民族に対抗するために、ふたたび統一王朝として、一つの国にまとまることがあったのです。

 

統一王朝として、まとまることは良いことですが、競争原理が不活発になりがちです。

 

官僚化した中国の大帝国では、民間の技術者が努力して創り上げたものや発明を、ないがしろにする傾向がありました。

 

そうなると、中国内でライバルが互いに技術の切磋琢磨する環境が、乏しくなります。

 

ところが西洋では、敵国に勝つために、ときには懸賞金までかけて、工業や様々な技術の向上に力をいれたのです。

 

民間の技術者が、先を争って技術を競い合う環境が整い、近代テクノロジーが発展していきました。

 

そして、18世紀には、イギリスで産業革命が始まります。

 

この差が19世紀の敗者と勝者となって、現われたのでした。

 

 

ひとこと

 

当時の西洋は、中国北方・騎馬民族のような敵が存在しなかったことも、一国に統一しなかった原因かもしれません(*゚∀゚)

 

 

転職の苦い経験を生かした豊臣秀吉(*´д`)??

 

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もし、日本一の転職成功者を選ぶとしたら、誰でしょうか?とくに基準があるわけではないので、とても難しいです。

 

でも、戦国時代は、豊臣秀吉が日本一の転職成功者、と言っても過言ではないでしょう。

 

なにしろ農民から天下人になったのですから、まぎれもない日本一です。

 

それでも秀吉は、すんなりと転職を成功させたわけではありません。

 

何回か奉公先(就職先)を点々としました。

 

しかし、転職先で味わった苦い体験を生かし、織田信長の家臣として秀吉は、最大限に力を発揮して、やがて天下人になったのです。

 

 

織田ではなく、今川を選んだ

 

秀吉は、尾張・中村の百姓の子として生まれました。

 

ところが秀吉は、農作業が大嫌いでした。また、義父の竹阿弥と仲が悪く、ある日、突然、家を飛び出してしまったのです。

 

「俺も、いつか出世してやる!」という野心を抱きながら、武家へ仕えることを考えました。

 

高い年貢を武士から搾り取られる百姓は、まっぴらだったのです。

 

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最初、地元・尾張の武家へ奉公しようと考えましたが、やめました。

 

尾張は、守護代の織田家や家老の織田家などが互いに争い、とても不安定な状態だったからです。

 

また、織田の苗字が多く、いったい、どの織田同士が味方で、どの織田同士が敵なのか、とてもわかりにくかったのです。

 

これでは、せっかく奉公しても争いに巻き込まれて、命を失うおそれがあります。

 

そこで秀吉は、尾張の織田氏より、比較的、国内が安定してみえる隣国の今川家で働くことにしました。

 

 

古参の同僚に、イジメられた秀吉

 

今川氏の家臣・松下加部兵衛に、秀吉は仕えました。

 

野心家の秀吉は、猛烈に仕事に打ち込みます。その甲斐あって、主人の松下加部兵衛に気に入られ、重要な役を任されるまでになりました。

 

ところが、まわりの古参の同僚達は、面白くありません。秀吉の出世を妬んだ同僚達は、秀吉をイジメまくります。

 

秀吉は反発しますが、同僚達のイジメイヤがらせはエスカレートするばかりです。

 

家中が揉めるので、松下加部兵衛は悩みました。家中の争いを抑えるため、仕方なく加部兵衛は、秀吉を解雇します。

 

失業した秀吉は、針売りなどをして、生活費を得ながら、新しい奉公先を探しました。

 

 

織田信長に仕えた秀吉は、”気配り人間”になった

 

その後、織田信長に秀吉は仕えることができました。

 

尾張の織田家の中でも、織田信長は「うつけ」と呼ばれ、評判は最悪でした。普通なら、そんなところに奉公するはずがありません。

 

しかし、秀吉は信長の英邁さを見抜き、周囲の反対を押し切って、家臣となりました。

 

そして、松下加部兵衛に仕えたときの失敗を繰り返さないために、秀吉は同僚や先輩に、たいへん気を配ります。

 

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同僚や先輩だけではありません。主君の信長はもちろんのこと、周囲のどんな人にも気を配る「気配り人間」になりました。

 

言葉を変えるならば、人の嫌がることはやらないようにして、人の喜ぶことを行うようにしたのです。

 

しかし、戦になると、敵に対しては逆になります。

 

敵の喜ぶことはやらないようにして、敵の嫌がることを行うようにしたのです。

 

運にも恵まれましたが、徹底した気配りや機転が功を奏し、秀吉は、やがて天下を掴むことができました。

 

つまり、日本一の転職成功者となったのです。

 

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ひとこと

 

人の心を理解して、行動することが大事、ということですね(´‐秀吉‐`)

 

 

曹操の活躍は、日本の文化にも影響を与えた!?

 

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三国志といえば、蜀の諸葛孔明と劉備玄徳が主人公のような感じです。

 

そして悪役が曹操ですね。

 

しかし、歴史に与えた影響から見たら、曹操は悪役どころか英雄です。

 

そして、その影響は、中国だけではなく、時代を経て古代の日本にも及んだのです。

 

後漢が衰退していたころ、曹操は、蜀や呉と戦うため、兵力の増強の策を考えます。

 

その策は、それまでの古代中国のどの王朝も、あまり積極的にやらなかったことですが・・・・?

 

 

曹操は、騎馬民族を配下にした

 

なんと曹操は、中国北方の騎馬民族を、積極的に自軍に加えたのです。

 

秦の始皇帝が建設した万里の長城は、中国北方の騎馬民族の侵入を防ぐためのものです。

 

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中国の王朝は、北方の騎馬民族の略奪に、いつも頭を悩ませてしました。

 

しかし、後漢が衰退して天下が乱れると、中国北方の袁紹(えん しょう)や董卓(とう たく)が、北方の騎馬民族とともに、勢力を増大させます。

 

当初、曹操は、敵対勢力の側の騎馬民族と戦いましたが、みごと勝利することができました。

 

そして、騎馬民族の強さや有用性を見抜いた曹操は、その後、積極的に騎馬民族を配下に置いたのです。

 

蜀や呉も、曹操のマネをして近くの異民族を、配下に加えました。

 

 

漢民族から騎馬民族(異民族)の王朝へ!

 

蜀、呉、魏の三国時代は、魏の皇位を簒奪した(しん、265年 - 420年)によって、統一されます。

 

しかし、曹操が多くの騎馬民族を配下にしたため、その影響は後々まで続き、晋は、漢民族と異民族が混在した王朝になりました。

 

ところが、290年に晋の武帝が無くなると、王室の紛争が発生します。

 

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反乱を起こした諸王は、兵力の不足を補うため、匈奴、鮮卑、氏、羌、羯の五つの異民族を配下に引き入れます。

 

そして、この五つの異民族と漢民族が混在して争う、五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)がやってきます。

 

その後、南北朝時代をへて、ふたたび統一王朝が出現します。

 

 

隋と唐は、鮮卑族(異民族)の王朝だ!

 

日本史の教科書にもでてくる(ずい、581年 - 618年)と(とう、618年 - 907年)は、鮮卑族の興した王朝です。日本の飛鳥、奈良、平安時代にあたります。

 

漢民族は、鮮卑族を野蛮人と蔑んでいましたが、鮮卑族が建てた隋と唐の時代に、科挙律令制度が整備されました。

 

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その先進的な制度が功を奏して、唐王朝は領土拡大とともに文化も発展させます。

 

なかでも唐の9代皇帝・玄宗(げんそう)の時代、「開元の治」と謳われた、唐の絶頂期が訪れます。

 

 

日本は、隋と唐から文化を学んだ

 

日本は、隋と唐から科挙や律令制度を取り入れました。儒教や仏教も学び、飛鳥文化、白鳳文化、天平文化が花開きました。

 

曹操が異民族の兵士を率いたことが発端となって、漢民族と騎馬民族の混在文化が

数百年後、日本にも取り入れられたわけです。

 

奈良や京都にいくと、その面影を感じさせてくれます(^_^)

 

 

ひとこと

 

こうゆう因果関係を考えると切りがありませんが、興味が尽きないで~す♪

(●´▽`●)

 

 

三国志の戦わない戦い方が面白い?

 

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最近、無料動画の「三国志」を見ました。面白かったです。

 

漫画やドラマ、人形劇で三国志は何度も見ているのですが、飽きないです。

 

喫茶店や床屋、コンビニでも三国志に関する漫画や書籍が多いので、なんとなく読んでしまいます。

 

 

孔明と司馬懿の戦いが好き!

 

三国志のなかでも諸葛亮孔明(しょかつ こうめい)と司馬懿仲達(しばい ちゅうたつ)の戦いが面白いです。

 

まるでゲームのような駆け引きを繰り広げ、最終的に仲達が率いる魏軍が勝ちます。

 

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勝ちはしましたが、引き分けに近いような勝ち方です。孔明の死によって蜀軍が退却したからです。弓や槍を交えての勝利ではありません。

 

でも、勝ちは勝ちです。この勝利によって、魏は2度と蜀に脅かされることはなくなりました。

 

その後、魏から皇位を簒奪したによって、中国は統一されます。

 

 

戦わない戦いをした仲達

 

仲達は、孔明からも恐れられるほど、すぐれた将です。しかし、実力は孔明の方が上でした。

 

孔明から何度も敗北させられた仲達は、陣に閉じこもって戦わなくなります。戦わないことが、勝利するための最高の作戦だ、と考えたのです。

 

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まともに孔明と戦えば勝ち目はありませんが、戦わなければ負けません。

 

しかし、勝利も得られないはずですが・・・・?

 

 

食料の輸送に困っていた蜀

 

蜀軍は、遠くて険しい蜀の都(成都)から食料を輸送するのに苦労していました。

 

逆に魏軍は都(洛陽)から近く、食料に不足していません。持久戦になれば、魏が圧倒的に有利です。

 

孔明の挑発にものらず、仲達はじっと我慢していましたが、「臆病者だ!」と部下から不満の声が溢れました。

 

しかし、皇帝・曹丕からの厳命というかたちにして、部下をなだめ、決して出陣しません。

 

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孔明の死によって、結果として勝利しますが、食料不足で蜀軍が困っていたことは間違いありません。

 

孔明が亡くならなくても、蜀軍の不利は否めません。

 

 

戦うふりで敵をおびき出した仲達

 

蜀軍が撤退した後、 遼東の地で公孫淵(こうそん えん)が、15万の兵で、反乱を起こしました。

 

魏の皇帝の命令で、仲達は、わずか4万の兵で、遼東の鎮圧に向かいます。

 

15万の兵で守りを固めた城を、3分の一以下の兵で攻めて、勝てるはずがありません。

 

しかし仲達は、敵対した孔明から学んだ戦法で、公孫淵の軍を城の外に誘き出し、これに勝利します。

 

戦のはじめのころは、本格的に戦かわず、陽動作戦や偽の敗走で公孫淵の軍を城外に出させたことが功を奏したのです。

 

司馬懿仲達は、着実で効率のよい戦い方が得意だったようです(*^-^)

 

 

ひとこと

 

ネットの世界は広告だらけですね。

 

良い広告も多いですが、よく知らないでクリックして、損した、ということもあります。

 

私がそうでした。

 

そういうときは、うまく誘導されて、ワナにかかったような気分になります。

 

仲達のように用心深く、慎重に行動しようと思います(´Д`q汗)

   

 

桐生の日本人初9秒台とアフリカの人類!?

 

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昨日、まさか日本人から10秒の壁を破る選手が現われるとは思いませんでした。

 

あまり陸上には興味のない私ですが、同じ日本人が黒人選手並みに9秒台の記録をだしてくれ、とても嬉しかったです。

 

しかも桐生祥秀選手は、両親が日本人なので、なおさら嬉しかったです。

 

なぜならば、父がガーナ人のサニブラウン・ハキームか、あるいは、父がジャマイカ人のケンブリッジ飛鳥のどちらかが、日本人初の9秒台を出す、と思っていたからです。

 

身体能力が優れている外国人の血を受けている両者と桐生では、圧倒的に桐生が不利と思っていました。

 

それをくつがえしての日本人初の9秒98は、本当に素晴らしいです!

 

 

なぜ黒人選手は走るのが速いのか

 

ほとんどの黒人選手の先祖は、アフリカに住んでいました。

 

そして、あの広大な草原を狩のために、走りまわっていたのです。自然、走る身体能力が発達します。

 

そのDNA(遺伝子)を受け継いだ黒人選手が速いのは当然です。

 

 

欧米人や東洋人は、走る能力が退化した

 

人類の起源はアフリカといわれています。なので、欧米人や東洋人の祖先もアフリカということになります。

 

アフリカから出た人類は、地球上のあらゆる大陸に向かって移動。住みやすい地域を見つけると、そこに定着しました。

 

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その過程で馬やラクダに乗って移動したり、農耕や遊牧を行うようになりました。

 

狩猟の場合でも、馬に乗って行うことが多くなります。

 

そんな環境の中で、走る身体能力が、アフリカの人類よりも退化した、と考えられます。

 

 

人類の体毛が少ないのは、長く歩行するため

 

普段は気にも留めないのですが、人間の体は体毛が少ないです。人間以外の陸上哺乳類は、ほとんどが体中、体毛で覆われています。

 

これは、人間が長距離を歩行できるようになるために、進化したからです。

 

体毛がないため、汗がかけます。によって効率よく体を冷やすことができ、長距離を歩行することが可能になったのです。

 

それによって、野生動物を狩ることが、より効率よくできるようになりました。

 

 

持久力で野生動物よりも優れていた人類

 

アフリカの人類は、狩猟で主な食料を得ていました。

 

しかし、アフリカは広大な草原が多いです。人類がまともに野生動物を追いかけても、追いつくはずがありません。

 

人類最速の男・ウサイン・ボルトが、時速37~38kmで走るといわれています。

 

アフリカに住む、バッファローが50km、トムソンガゼルが65km、キリンが51km、ダチョウが70kmの速度で走ります。

 

いくら頑張って走っても、人類はとても野生動物に追いつけないのです。

 

しかし、体毛でおおわれている野生動物は汗がかけません。それにアフリカは気温がとても高いです。

 

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野生動物は、口でゼィゼィ息を吐いても、体温はなかなか下がりません。

 

だから、人類に長時間、追いかけられると、野生動物はやがて体力を消耗して、早く走れなくなります。

 

また、アフリカの草原では、身を隠すところも少ないです。

 

ところが、人類は汗がかけるので、長距離を歩いたり、走ったりしても元気です。

 

ノロノロしている野生動物を仕留めて、食料にすることができたのです。

 

体毛の少ない人間の体は、ある意味、狩猟のために進化した結果、ともいえそうです。

 

でも、私は狩りなどしたことはありません。釣りはありますが(^―^)

 

 

ひとこと

 

9秒台の記録は、ほとんど黒人選手で占められています。

 

アフリカから最も離れた国の日本人が、9秒台を記録したことは、繰り返しますが、実に素晴らしいです\(^ ^)/

 

 

中国・王朝(秦)の滅亡と北朝鮮(*´д`)??

 

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北朝鮮の核とミサイルの騒ぎが収まりません。いつまで続くのでしょうか?

 

でも、永遠にこの騒動が続くわけがありません。必ず終わりがやってきます。

 

ホント、早く終わってほしいですね(´Д`;)

 

 

北朝鮮は共産主義なのに世襲制

 

北朝鮮は共産主義を掲げているのに、世襲制です。昔の王朝と同じ制度です。

 

現代、先進国で世襲制の国などありません(たぶん?)。これは、世襲制が国家の体制として不適切、あるいは遅れた体制であることを物語っています。

 

世襲制でない国が、世襲制の国に勝利してきた歴史が、そのことを証明しています。

 

ところが「核」によって、その構図がくずれてしまいました。現代では、核保有国への攻撃は、反撃された場合、極めて危険です。

 

それをいいことに北朝鮮は、やりたい放題です(`O´*)

 

しかし、世襲制で独裁、貧困、食糧難、過酷な刑罰、脱北者など、北朝鮮は内部崩壊の危険性をはらんでいる可能性も否めません。

 

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また、過去の中国や朝鮮の王朝が崩壊した原因も、世襲制や体制の欠陥によるところから始まっています。

 

現在の北朝鮮とも重なる部分もあるので、過去の王朝の崩壊劇は、なかなか興味深いです。

 

 

秦帝国は、なぜ短命たったのか?

 

秦(しん、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国初の統一王朝です。

 

秦は中国を統一して、秦朝(紀元前221年 - 紀元前206年)を興しました。秦王の政は、王から皇帝と名を改めます。

 

最初の皇帝なので、始皇帝と諡号(しごう)されました。

 

しかし、わずか15年で滅亡します。滅亡の原因は、いくつかありますが、とくに世襲の失敗が際立っています。

 

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始皇帝は、後継者の皇太子を、自分が逝去する間際まで公表しませんでした。

 

病気が重くなり、死期を悟った始皇帝は、始皇帝の長子・扶蘇を後継者とする遺詔(ゆいしょう)を残しました。

 

しかし始皇帝の死後、その遺詔は守られません。側近である趙高の策略よって、末子の胡亥が、二世皇帝に擁立されて、即位しました。

 

二世皇帝は、趙高の操り人形となり、秦朝の国家体制は乱れ、その結果、15年の短命王朝となったのです。

 

 

権力の分裂を恐れ、皇太子の擁立が遅れた

 

皇太子を早めに決めておけば、よかったのではないか、と思いがちです。

 

しかし、早い時期に皇太子を擁立すると、権力が分裂する恐れがあります。

 

皇太子は、当然、皇帝よりも歳が若いので、長く生きます。重臣は、現在の皇帝が亡くなった後のことを心配して、皇太子に近づくようになります。

 

皇太子が幼い場合は、母親の皇后に近づくことが多いです。

 

すると場合によっては皇后を含めた、その外戚が力を持ち、皇帝の権力が衰える可能性があります。

 

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実際、中国を統一する以前の秦国にも、王様の重臣や外戚が実権を握った前例があります。

 

それを心配した始皇帝は、死ぬ寸前まで皇太子を公表しなかったのです。

 

また、側近で宦官の趙高を、あまりにも信用しすぎたのも、失敗の一因といえましょう。

 

その後の王朝では、この始皇帝の失敗を教訓としました。

 

皇帝の崩御の寸前に公表していない場合でも、皇太子を記した文書を、複数の側近や重臣に内密に渡したりしていたのです。

 

 

ひとこと

 

北朝鮮は金正恩で3代目ですが、4代目はどうなるのでしょうかね(*´д`)??

 

 

古本屋で"願いが叶う"本を買った(*゚▽゚*)

 

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読書の秋がやってきました。古本屋(BOOKOFF)で、安い古本を何冊か買ってきました。

 

本といえば古本も含めてAmazonが便利で安く、品数も豊富です。でも、立ち読みができないのが難点です。

 

気軽にブラッと行けて、パラパラ立ち読みして買う100円の古本は、好きです。

 

定価で販売されている本を、100円で買ったときは得した気分になります。また、その逆もあります。

 

100円の古本は、定価1冊の本の価格で、10冊~15冊ぐらい買えてしまいます。

 

古本屋での本探しは、なかなか楽しいです。

 

 

紙に書いて願いを叶える本を買った

 

非常識な成功法則新装版 お金と自由をもたらす8つの習慣 [ 神田昌典 ]

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感想(2件)

 神田昌典著「非常識な成功法則」100円(税込108円)で買いました。

 

Amazonで1円で販売されていますが、配送料が257円なので、「100円」はとても安いです。

 

この本は、数年前、定価で買って読んだことがあります。興味深い内容だったのですが、読んだ後、捨ててしまいました。

 

書いてあることが、とてもやってられない、と思ったからです。

 

紙に書けば願いが叶う、ということが強調されていました。正直、信じられませんでした。

 

そんなことで願いが叶うなら、誰も苦労はしない、と反感さえ覚えました。

 

しかしその後、有名人の成功体験を何冊か読むと、紙に願いを書いて成功した、とあるのです。

 

「あの本の内容は正しかったんだ」と考え直しました。でも、ふたたび、その本は買いませんでした。

 

ところが先月、古本屋の100円コーナーに、その「非常識な成功法則」があったので、購入したわけです。

 

その本の教えどおり、一応、紙に願いを書いて、壁に貼っています。でも、人に見られると、はずかしいですね(*´∀`*)

 

 

言葉で願いを叶える本も買った  

 

変な人の書いたツイてる話 Part2/斉藤一人【1000円以上送料無料】

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感想(0件)

 また、紙に書くのではなく、言葉で願いを叶える本も買いました。

 

斉藤一人著「変な人が書いたツイでる話」という本です。

 

斉藤一人さんの本は、数年前にも本屋で立ち読みしましたが、購入しませんでした。宗教家みたいな感じがして、あまり興味が持てなかったのです。

 

ところがある日、仕事関係の人と話していたら、斉藤一人さんの話が出ました。

 

話によると、斉藤一人さんは宗教家ではなく、事業家だったのです。驚いたことに、10年連続長者番付トップ10入りしているのです。

 

それから私は、斉藤一人さんに興味を持ち、本も何冊か買いました。

 

何冊かの斉藤一人さんを読み、印象にの残った点は、ネガティブな言葉は言わず、ポジティブなな言葉を使おう、というところです。

 

(なるほど!)

と思いました。

 

でも、実際、ネガティブな言葉を言わないようにすることは、簡単そうで難しいことがわかりました。

 

たまたま道で友人に会うと、知らないうちに愚痴をこぼしている自分に気がつくことがあります。

 

愚痴やネガティブな言葉を言わせないようにする、音声を認識するiPhoneアプリでもあるといいですね(*゚▽゚*)

 

 

ひとこと

 

いくら本を読んでも、その内容を実践するのは、メチャクチャ難しい!

ゞ(´Д`q汗)+・.