みずおのアレコレ話

健康と歴史の本の読書が好きです。仕事の合い間に小説も執筆中です。完成が楽しみです!

日本の漢字は、なぜ海外で人気があるのか(*´д`)??

 

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古代中国から発祥した「漢字」は、中国の周辺国にも広まり、いわゆる漢字文化圏を形成しました。

 

唐(とう、618年 - 907年)王朝の時代になると、周辺国は漢字から発展させた独自の文字を創ります。

 

そんな中で、朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)王朝は、漢字だけを使い続けました。

 

新羅語と唐語では、語順が違うので、かなり不便だったはずです(・・?)

 

唐語は、主語→動詞→目的語ですが、新羅語は、主語→目的語→動詞の順に話したり書いたりします。

 

つまり、

唐語は、私→愛する→あなた・・・・となります。

新羅語は、私→あなた→愛する・・・・となるわけです。

 

日本も漢字は使い続けました。日本語の語順は、新羅と同じで、唐とは異なります。

 

しかし新羅と違い、日本は、新たな文字を付け加え、語順を変えることなく、より便利に漢字を使用することに成功したのです。

 

 

平仮名と片仮名をつくった日本

 

唐の周辺国が漢字を変化させたり、あるいは漢字文化圏以外のアラビア文字などを取り入れたりしました。

 

ところが日本は、平仮名(ひらがな)片仮名(かたかな)をつくり、漢字はそのまま使いました。

 

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平仮名と片仮名を漢字と漢字の間に入れて、日本語の語順を変えることなく使えるようにしたのです。

 

現在、漢字を発明した中国では、漢字を簡略化した簡体字が使われています。お隣の韓国や北朝鮮では、記号のようなハングル文字が使用されています。

 

中国の簡体字は、日本の漢字とはかなり見た目が違っています。韓国のハングル文字は、まったく似ても似つきません。

 

簡体字やハングル文字は、漢字(文字)を使いやすくする機能面を追及したため、日本の漢字よりも美しさで負けている気がします(・・?)

 

 

平仮名と片仮名のおかげで漢字の美を残せた

 

ところが日本では、平仮名と片仮名が、漢字を使いやすくする機能面を補ってくれました。中国や韓国のように、漢字を極端に変形させる必要がなかったのです。

 

そして、古来からの漢字の持つ美しさを保つことができました。

 

その日本の漢字が外国人からは、クールでカッコイイ絵や記号に見えるとのことです。

  

アート感覚で漢字をファッションに取り入れたり、漢字をタトゥーにして、体に入れたりして楽しんでいるようです。

 

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ひとこと

 

日本は島国のため、母音が5個しかありません。韓国語は母音が21個もあります。

 

古代は、多少、母音の数は異なっていたのでしょうが、日本より朝鮮半島で使われる母音の方が多かったことは、ほぼ間違いありません。

 

日本が平仮名と片仮名という便利な文字を使えたのも、母音が少なかったおかげですね。

(●´∀`)

 

 

なぜ日本人は、頻繁に丁寧にお辞儀をするのか(*´д`)??

 

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日本人は、よくお辞儀をしますね。

 

海外から「日本のお辞儀文化は素晴らしい」と賞賛されています。日本人は礼儀正しくて、親切だ、という声もよく聞きます。

 

でも、日本にいると実感がわきません。礼儀正しくない人も少なからず存在するからです(私もかも?)。

 

ところが、旅行で香港に行って、日本に戻ったときは、日本人の礼儀正しさにホッとさせられました。

 

香港のコンビニで買い物をしても、店員さんはブスッとしている人が多かったです。

 

もちろん、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございます」みたいなことを、広東語でも英語でも言いません。黙ったままです。

 

香港の空港も愛想が悪かったです。案内窓口で何か問い合わせると、ふてくされ顔で応えられました。

 

おまけに英語で話すので、私はチンプンカンプンでした(´Д`;) 

 

銀行で両替したり店で買い物をしても、行員や店員がお辞儀をしているところを見ませんでした。

 

日本に戻ってコンビニで買い物をしたとき、店員さんから「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」と言われて、すごく嬉しかったです。

 

銀行や店では、時々、お辞儀をしてくれます。

 

日本は、いい国だな、と思いました。

 

でも、なんで日本人は礼儀正しく、お辞儀を熱心にするようになったのでしょうか?

 

 

中国や韓国の歴史ドラマでヒラメク?

 

「中国歴史ドラマ」や「韓国歴史ドラマ」を見ていたら、ヒラメキました。なぜ、同じ東アジア人なのに、日本人が最も頻繁に頭を下げて、お辞儀をするのかが少しわかりました。

 

両国の歴史ドラマにでてくる女性は、大きなカツラやカンムリを被っている人が多いのです。

 

とくに偉い人になるほどその傾向が強くなります。

 

あんなドでかいものを頭にのせていたら、日本人のような、深く頭を下げるお辞儀ができるわけがありません。落っこちてしまいます。

 

だから中国も韓国も、カツラやカンムリが落ちないように工夫されたお辞儀になったのです!・・・・といっても、これはあくまで私の勝手な想像です(*^~^*)

 

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それにしても、なぜ、中国や韓国ではあんなに大きなカツラやカンムリになったのでしょうか?

 

おそらく、身分を表すためではないでしょうか。皇后や王妃、皇族、王族、貴族など身分が高いほど被り物が大きくなっているようです。

 

偉くなると、さぞ、首も疲れそうです(。´-д-)

 

 

日本は湿度が高いから、頭を涼しくしたかったのか?

 

ご存知のとおり、日本は湿度が高いです。だから日本人は、昔から風呂が好きです。

 

また、江戸時代の日本の男性は、ほとんどが月代を剃っています。もともとは戦国時代、武士が鎧兜をかぶり続けると頭が蒸すので、それを防ぐために行われた習慣です。

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ところが戦の無い江戸時代になっても、この習慣は続きました。武士ではない町人や商人なども、このヘアースタイルをマネしたのです。

 

女性は月代を剃りませんが、中国や韓国に比べるとシンプルな髪型です。

 

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湿度の高い日本では、涼しげな髪型が好まれたようです。

 

 

お辞儀のしやすい髪型?

 

島国の日本では、土地に定着して、同じ人と長く仕事や行事をすることが多いため、丁寧な応対を心がけるようになりました。

 

中国や朝鮮は、人の流動が激しく他国人との接触も多いため、日本ほどには丁寧な応対には、ならなかったようです。

 

お辞儀のしやすい髪型と丁寧な応対を心がけるため、日本人は自然と頻繁にお辞儀をするようになったのかもしれません。

 

 

ひとこと

 

この夏、忙しかったので、お風呂に入らないでシャワーだけで済ましていました。冷房の部屋で過ごすことも多かったです。

 

そのため体が冷え、腰が痛くなりました。腰が痛いとお辞儀するのはつらいですね。

 

そんなときは「ホカロン」です。ホカロンで腰を暖めれば、たちまち痛みが消えます。

 

仕事中、暑い日でも腰にホカロンを当て、お客さんにお辞儀をしていました。

( ●`▽´● )

 

 

ブログのタイトルを変えても、新着エントリーに載った(*^▽^*)

 

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昨日、はてなブログのタイトルを変えました。いろいろ問題がでるかと思ったのですが、そうでもないようです。

 

前回、ブログのタイトルを変えたときは、初めてのことなので、かなりとまどいました。

 

しかし、今回は「新着エントリー」にも久しぶりに載っており、問題がなかったようです。

 

まぁ、問題がでても元のブログタイトルに戻せばいいだけですから、気楽なもんです(・∀・)

 

 

「はてなサポート窓口」から回答があった

 

以前、「新着エントリー」に載らなくなったので、「はてなサポート窓口」に問い合わせをしました。

 

翌日に回答がきて、ブログタイトルや記事タイトルを変更しても、新着エントリーへの掲載には影響しない、とのこと。

 

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「はてなサポート窓口」の回答は間違いなかったんだと、今日、実感しました。

 

 

記事タイトルのつけ方が影響するのかも?

 

私は、半年あまりブログの更新を休んでいました。その間、はてなブログの仕組みも変化しているのかもしれません。

 

今年の2月27日までブログを更新していました。そのころは、新着エントリーに、頻繁に載っていた記憶があります。

 

今は、新着エントリーに載るには、いろいろ条件があるみたいですね。もちろん、その条件がどうなっているのかはわかりません。

 

でも、最近、新着エントリーに掲載されなかった記事のタイトルを見ると、少し過激な言葉が含まれていることに気づきました。

 

 

過激な言葉や同じような記事タイトルがダメなのか?

 

下記の記事は、新着エントリーに載りませんでした。「北朝鮮」「人を食べていた」という言葉が影響したのかもしれません。

 

www.mizue338.net

  www.mizue338.net

 

 「北朝鮮」は国名ですが、ミサイル騒動を起こしてばかりいるので、過激な感じがします。この記事は、記事タイトル冒頭に「北朝鮮」のキーワードを入れました。

 

「北朝鮮」の記事を書いたときは、他にもたくさん「北朝鮮」のブログ記事が人気や新着エントリーにありました。

 

同じようなタイトルの記事が増えるのを、はてなブログのシステムが嫌ったのかもしれません。

 

とくに記事タイトルの冒頭に「北朝鮮」のキーワードを入れた記事が多かったので、なおさら嫌われたのかも?

 

もちろん、本当のところはわかりませんが・・・・・。

 

 

 

ブログタイトルを変更のデメリット

 

いずれにしろ、ブログタイトルは何度も変更しない方がいいです。ブログに訪問された方を混乱させたり、検索の順位が下がるおそれもあります。

 

一ヶ月に何回もブログタイトルを変更して、検索順位がかなり下がった人もいたそうです。

 

私は一ヶ月に2回、ブログタイトルを変更しましたが、あまり検索順位が下がらないことを祈っております(´▽`;)

 

 

ひとこと

 

ブログタイトルを変更したら、忘れていけないことがあります。

 

ブログタイトルの変更は「ダッシュボード」の「基本設定」でブログ名を変えます。これは簡単ですね。

 

でも、ブックマークに表示されるブログ名の変更は、少しややっこしいです。下記の記事に、やり方を記してあります。

  

www.mizue338.net

 

また、Google サーチコンソールやGoogle アナリティクス、Google アドセンス、ASPの登録や変更も忘れないようにしましょう(●^□^●)

 

 

北朝鮮の金王朝は、いつまで続くのか(*´д`)??

 

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最近、北朝鮮のミサイル騒動が起きると、「またか」という感じがしてきます。

 

北朝鮮は、より騒ぎを大きくするため、手を変え品を変え煽っているみたいです。

 

ミサイルと核で威嚇して、先制攻撃を受けないための防衛手段といわれています。また、政権の求心力を高めるためのパフォーマンスも兼ねているようです。

 

威嚇を続けなければ、政権を維持できないのでしょうか。もし、威嚇をやめてしまうと、現状を保てなくなるのでしょうか(・・?)

 

いずれにしろ、金氏3代目・金正恩(キム・ジョンウン)は、政権を維持するための瀬戸際に常時、身を置いているといえるでしょう。

 

いったい、いつまで続くんでしょうかね?

 

 

世襲の権力者が何世代も続くのは難しい!

 

韓国歴史ドラマには、古代から近世までの王朝の興亡、権力の興亡の物語が多いです。

 

王朝が同じで、王様が世襲で続いていても、「権力」は長く続きません。

 

重臣や外戚、党派に権力を握られ、王様は操り人形になっていることもあります。

 

また、重臣の思いどおりにならない王様がその座から下ろされたり、ひそかに暗殺されたりすることも多々ありました。

 

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もちろん、王様が実権を握っていたこともありました。その一人が李氏朝鮮19代王・粛宗(スクジョン、1661年~1720年)です。

 

韓国歴史ドラマ「トンイ」や「チャン・ヒビン」にも登場する王様です。李氏朝鮮史上で、最強の王様ともいわれています。

 

朝廷の会議で粛宗が怒りをあらわにすると、重臣は顔も上げられずガタガタ震えていたとのこと。

 

重臣の猛烈な反発を退け、「大同法(だいどうほう)」という庶民のための税制改革も行いました。

 

これも王様・粛宗の権力が絶大だったことを物語っています。

 

 

王様・粛宗の死後、王権は弱まった!

 

ところが粛宗の死後、党派のひとつ「老論(ノロン)派」が権力を握りました。

 

そして老論派が力を失うと、外戚である「安東金氏」、王様の父「興宣大院君」、妃の「閔妃」などの順で権力が移り、李氏朝鮮は衰退の一途をたどりました。

 

「権力」というものは、春のタンポポの種のように移ろいやすく、いつ消えてしまってもおかしくないものです。

 

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ミサイルを飛ばしたり軍事パレードをして、いかにも強そうに見せかけても、その影では、金王朝の権力崩壊の兆しがはじまっているかもしれません。

 

とにかく、あの超大型花火を飛ばすのは、早くやめてほしいですね(`Д´●)

 

 

ひとこと

 

朝鮮半島に興った代々の国は、その時代の中国大陸の皇帝に莫大な貢物をしていました。

 

現代では逆に、中国が北朝鮮に石油などさまざまな経済援助をしています。

 

だから貧しい北朝鮮が、あのようなパフォーマンスができるのです。

 

なんか昔の貢物の借りを、北朝鮮が中国から取り返しているみたいですね。

 

歴史のおもしろさを感じます( ●`▽´● )

 

 

中国歴史ドラマを見て驚いた!人を食べていた(´Д`驚)

 

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最近、無料動画配信のGYAOで、中国歴史ドラマを見ています。

 

韓国歴史ドラマと比べると、中国ドラマは、音楽や映像、物語の展開などでインパクトが弱い感じがします。

 

しかし、韓国ドラマのような、まわりくどさやワンパターンが少なく、なかなか楽しめます。

 

韓国は激辛の料理が多いですが、中国は甘い口あたりの料理が多いですね。ドラマも同じように、韓国は刺激が強く、中国はやわらかい印象を受けます。

 

ところが、中国歴史ドラマでは人間の肉を食べるシーンが時々あるので、驚きました。

 

 

人肉食は、古くからの習慣なのか?

 

敵や敵対する家臣の肉を食べたり、子供をさらってきて食べたり、自分の腕の肉を友人に食べさせたりと、人の肉を食べるシーンが比較的、多いです。

 

韓国や日本のドラマでは、「人を食べる」というシーンは見たことがないので、違和感を感じました。

 

これだけ多く放映されているということは、おそらく中国の視聴者は、人肉食のシーンに嫌悪感を抱く人が少ないのでしょうね。

 

このことは、人肉食の習慣が古代中国から存在していたことを物語っているようです。

 

 

多彩な中国料理や人肉食は、過酷な飢餓が原因だ!

 

中国は、古代から周辺他民族との戦、あるいは内乱が絶えませんでした。

 

戦になると、田畑が荒れ、食料不足になります。戦と飢餓で死ぬ人の数が半端ではなく、極端に人口が減ってしまうのです。

 

生きるためには、とにかく食べ物を探して、なんでも食べなければ生き残れません。

 

ですから、ゴキブリやネズミ、ヘビ、昆虫、人間など何でも食べるようになります。

 

「広東人は二足なら親以外、四足なら机と椅子以外、走るものなら自動車以外、泳ぐものなら潜水艦以外、空を飛ぶものなら飛行機以外なんでも食ってしまう」

出典:中華料理 - Wikipedia

 

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唐の時代まで、人肉が市場で売られていたり、人肉の料理方法が記された書物までありました。

 

儒家の始祖・孔子も、酢に漬けた人肉が好物だったのです。

 

私は、南方の島の原住民だけが人食い人種だった、と思っていましたが、間違いでした。

 

中華文明を誇る中国という大国が、過去、人食い大国でもあったわけです(°◇°;)

 

 

ひとこと

 

香港を旅行したとき、料理があまりにも美味しいので、驚きました。

 

日本の中華料理と違い、さっぱりしていて舌がとろけるような味わいでした。

 

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メニューも豊富でしたが、日本人には無理な動物の料理もありました。

 

しかし、ゴキブリの炒め物を恐る恐る食べたら、あまりに美味しくてビックリした日本人もいたそうです。

 

どんな素材でも美味しい料理にしてしまうのが、中華料理の真骨頂といえそうですね。

 

食欲の失せる料理もありますが、中華料理は大好きです♪(●^U^●)

 

 

北朝鮮の金正恩と韓国ドラマの朱蒙が似ている気がする?

 

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最近、週刊誌や夕刊紙で北朝鮮のミサイル攻撃の記事を、よく見かけます。

 

読んでみると、たいへんなことが書かれています。

 

韓国や日本は、多大な被害を受ける可能性があるとのこと。

 

でも、なんかピンときません。例年の夏よりも涼しくて過ごしやすい日本で、私はノンビリ過ごしています。

 

最近では、夜、コウロギの鳴き声が心地よいです。

 

 

金正恩はミサイルで、朱蒙は鉄が好き?

 

テレビニュースで、ミサイル発射をながめて喜んでいる金正恩(キム・ジョンウン)を見ていると、朱蒙(チュモン)を思い出します。

 

朱蒙は、紀元前37年ごろ高句麗を建国した人物です。

 

当時、中国は後漢王朝の時代でした。後漢は、の刀や槍、矢、鎧で周辺の小国を圧迫していました。

 

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ところが建国したばかりの高句麗には、鉄の武器がありません。青銅の刀や槍、矢、鎧、あるいは皮の鎧しかありません。

 

当然、武器のテクノロジーの差で、高句麗は後漢に戦で敵いません。後漢に滅ぼされかけていました。

 

そこで朱蒙は、後漢に負けないよう鉄の武器の開発・製造に熱中したのです。

 

鉄の刀や槍、矢などの武器の質が上がるたびに、朱蒙は自ずから強度を試し、その成果に満足していました。

 

これは、韓国歴史ドラマの中の朱蒙のことです。正確な史実ではありません。

 

 

鉄で後漢を防ぎ、ミサイルでアメリカと交渉か?

 

古代の高句麗の領土は、現在の北朝鮮の国土と重なります。北朝鮮の平壌(ピョンヤン)には、高句麗の王都がありました。

 

高句麗は、鉄の武器や戦略が功を奏し、後漢から独立を勝ち取ることができました。

 

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一方、北朝鮮はミサイル(核)によって、このままの体制を維持できるのでしょうか。

 

このまま何もなく終わるのか、それともとんでもないことが起こるのか、予測がつきません。

 

 

古代から朝鮮半島の国々は、国土防衛の戦が主だった

 

朝鮮半島を統一されてから、新羅や高麗は敵国の領土を部分的に奪ったことはあっても、一国を滅ぼし領土としたことはありません。

 

防御力の強い半島のなかにとじこもって、国土の防衛に力を入れていました。しかし、他国から蹂躙され、征服されることが何度もありました。

 

その末裔の北朝鮮が、本気で他国を攻撃することは、ちょっと考えられません?

 

 

ひとこと

 

金日成(キム・イルソン)と金正日(キム・ジョンイル)は、金正恩の祖父と父です。

 

意外なことに、映画・男はつらいよ「フーテンの寅さん」のファンだったそうです。

 

金日成は日本からの議員訪朝団との懇親会の席などで、寅さんのテキ屋叩き売りを物まねで演じて場を笑わせた。また、「日本を訪問することがあったら必ず柴又にいく」と周囲に話していた

出典:男はつらいよ - Wikipedia

 

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金正恩が「寅さん」の物まねをしている夢を見そうだ(´Д`;)

 

 

iphoneのバッテリー交換が自分でもできた!

 

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最近は、自分でiphone(アイホン)を修理する人も増えているようです。私もその一人になりました。

 

先週、iphoneのバッテリー交換に成功したのです!

 

自分で本当にできるのか心配だったのですが、なんとか無事にできました。

 

ヒヤヒヤしましたが、すごく嬉しかったです。

 

 

自分で行う修理は費用は安いが、リスクがある!

 

私は過去2回、修理店でiphone(iphone5)を修理しました。1回目はバッテリーの交換で、2回目はドックコネクタ(Dock connector)の交換です。それぞれ別の店で修理しました。

 

修理店では、バッテリーもドックコネクタも修理費は、八千円ぐらいだったような記憶があります。

 

しかし、Amazonで購入した「交換用バッテリー完全工具セット」は、1,500円です。圧倒的に安いです。交換用のバッテリーもついています。

 

バッテリーは、もちろん電池のことですが、ドックコネクタとは、iphoneを外部機器に接続する端子(差込口)のことです。

 

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専用USBケーブルをiphoneのドックコネクタに差込んで、充電やデーター通信ができます。

 

私はパソコンも自分で部品交換をしたことがありますので、iphoneの修理も簡単だ、と思い、挑戦したのです。

 

ところが、ある意味でパソコンより、かなり難しいです。

 

それはネジが超小さいからです。この極小ネジ(ボトムスクリュー)には、ハラハラさせられました。

 

iphone本体の下にある星形の2本の極小ネジ(星形ネジ)です。ドックコネクタの両側にあります。

 

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まず、超小さいのでネジ山を潰しそうです。そして、ドライバーで星形ネジを回している間に誤って、星形ネジを無くしそうです。

 

実際、外すときに星形ネジが飛んでいってしまいました。でも、必死になって探したら、奇跡的に見つかりました。

 

予備の星形ネジがないので、本当に助かりました。

 

星形ネジを締めるときもネジ山を潰さないか心配でしたが、無事に終わりました。

 

 

予備の星形ネジや補修用の道具あると心強い

 

予備の星形ネジと、ネジ山を潰したときの道具があると、安心して交換修理ができると思いました。

 

ネジ山を潰したときの道具は、ネットに安いものが紹介されています。

 

しかし、星形ネジは、意外に価格が高いと思いました。2本で600円以上もします。

 

それでも修理店と比較すれば安いですね。簡単な修理なら自分で行うのも悪くはないです。

 

 

ひとこと

 

私は、ebayで、ときどき安い商品を見つけて購入しています。星形ネジも探してみます。

 

まず、星形ネジの英語名が不明なので、そこからやってみます。

 

iphoneのジャンク品の部品を使うことも考えましたが、パソコンと違って、かなり価格が高いのであきらめました(´Д`。)

 

「フーテンの寅さん」は、不思議な映画だ?

 

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昨日、ブログ記事で「特上うな重」のことを書いたら、映画の男はつらいよ「フーテンの寅さん」を思い出しました。

 

主人公の寅さんの故郷である葛飾区柴又、帝釈天の門前商店街は、うなぎ料理でも有名だからです。

 

私も子供のころから両親につれられて、何度も柴又でうなぎを食べました。すごく美味しかったことを覚えています。

 

草団子もメチャクチャ好きでした。

 

 

奈良時代にも、「寅さん」と「さくら」が柴又に住んでいた?

 

奈良時代、柴又のあたりに「刀良(とら)」「佐久良賣(さくらめ)」が住んでいた戸籍簿が、奈良の正倉院で発見されたことは、有名な話です。

 

また、寅さんに似た埴輪も葛飾区の柴又八幡神社境内の古墳から発見されています。

 

映画「男はつらいよ」山田洋次監督は、そのことを知らずに「寅さん」と「さくら」というキャラクターをつくったとのことです。

 

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まったくの偶然であり、山田監督自身も不思議な思いを抱いたそうです。

 

「・・・・略・・・・はるか昔、万葉の時代に生きていたトラさんという強烈な個性の持ち主が寅さんを主人公にした映画を作らせたのかも知れませんね。もしかして!」(寅さん記念館展示)

 引用元:古代武蔵学事始め・「寅さん」と「さくら」 - 奈良時代にもいた? 

 

 上記の山田監督のコメントは、今年の春、私が「寅さん記念館」に行ったときも、その記念館で見ました。

  

男はつらいよ「フーテンの寅さん」がつくられた経緯は、偶然と偶然がやたらと重ねあってできた映画という感じです。

 

一見、偶然に見えることでも、なんか不思議な因縁があるみたいですね?

 

 

フーテンの寅さんみたいに旅をしていた奈良時代の男性?

 

奈良時代、柴又に住んでいた「刀良(とら)」と「佐久良賣(さくらめ)」は、行基や鑑真和上とほぼ同時代の人のようです。

 

奈良時代の律令制度は、庶民にとっては最悪の法律であり、過重な税負担を押しつけていました。

 

租・調・庸という税がありました。

 

租は米ですが、奈良の都まで農民が自分で届けなければなりません。柴又から奈良までは、たいへんな距離です。

 

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フーテンの寅さんのように電車やバスに乗っていけるわけではありません。

 

また、男子は都で労役に就いたり、防人という兵士として働く義務もありました。命を落とす者も少なくありませんでした。

 

防人は、柴又も含まれる東国の関東あたりからの徴兵が多かったのです。

 

そして、庶民の生活はたいへん苦しく、逃亡者や勝手にになって税を逃れる人も大勢いたのです。

 

行基は、それらの民衆を助けるために働きました。鑑真和上は、税逃れの私度僧を防ぐために仏教の戒律を定めました。

 

 

映画「寅さん」と同じような別れのシーンが古代にもあったかも

 

そんな厳しい状況の日本で、世界に誇るべき古典「万葉集」という天皇、貴族、庶民、防人まで至る和歌集が詠まれていました。

 

万葉集の防人の歌の中に、妹のことを詠んでいるものがあります。この時代の妹とは、「いも」と読み、妹だけでなく妻や姉、恋人のことでもあります。

 

私にとって、映画「フーテンの寅さん」の中で印象深く、好きなシーンが、

「お兄ちゃん、行っちゃうの、行かないで・・・・」

の「さくら」が「寅さん」を見送るところです。

 

古代の柴又あたりでも、同じように妹(女性)が兄(男性)を見送るシーンがあったのではないかと、想像を巡らしてしまいました。

 

 

ひとこと

 

今年の春、休日に柴又に遊びに行ったとき、すごい人だかりで驚きました。

 

バスガイドが旗を持って大勢の人を案内していました。観光地としても有名なようです。

 

また、今年3月、柴又駅前に「さくら像」が建てられました。以前がらある「寅さん像」を見送る位置にあります。

 

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「さくら像」よりも「寅さん像」と一緒に記念写真を撮る人が多かったです。

 

でも、私は「さくら」が好きなので、

「見送り、ごくろうさん」

と、やさしく「さくら像」の肩をなぜてやりました●^U^●)

 

ブログの更新を、ぼちぼち再開します!?

 

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半年ほどブログを休んでいましたが、また、少しずつ更新するつもりです。

 

私(みずえ)は、主に健康について記事を書いていましたが、途中で書くネタに困り、健康以外のことも書くようになりました。

 

実際には、私のパートナー(男性)にも書いてもらいました。とくに歴史記事の大部分はパートナーがほとんど書いたり、ネタをもらって私が書く、という感じでした。

 

そのほか、はてなブックマークやカスタマイズなども手伝ってもらいました。

 

仕事や諸事情により、あまりブログに取り組めなくなったので、ブログをやめようとも思ったりもしました。

 

でも、せっかく132記事も書いたのだから、ここでやめるのは、もったいないと思いました。

 

それでパートナーをメインにして、続けることにしました。

 

タイトルは、いままでどおり「みずえのアレコレ話」にするつもりでしたが、仕事に関することも書きたい、というパートナーの要望から、「みずおのアレコレ話」に変えました。

 

なにせ仕事がガテン系のため、タイトルを変えないと違和感(?)がでてしまいます。

 

「みずお」がメインで私はアシスタントですが、今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

ブログ132記事を書いて一番印象に残ったこと?

 

「純ココア」に関する記事がページのトップに表示されたときには驚きました。

 

超有名な食品メーカーM社や大手ネットショップのA社、R社を抜いてページのトップに表示されたのです。

 

これは初めての体験でした。このようなことは、実際にやってみないとわからないですね。

 

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しばらくの間は、表示順位は上下していたものの、常に5位以内に入っていました。

 

しかし、ブログ記事の更新を半年も休んだせいでしょうか。現在では、2ページ目の下の方に表示されています。

 

A8.net経由で楽天の純ココアのアフリィのリンクも貼ってありますが、クリックも多かったです。それでも手数料は、わずかですが・・・・。

 

いずれにしろ、面白いブログ体験でした。

 

 

歴史記事より健康の記事の方が、PVが多いみたいだ?

 

カテゴリー別の記事の割合は、健康が67記事で歴史が37記事、その他28記事です。

 

細かくみたわけではないのですが、健康に関する記事が一番、PVを稼いでいるみたいです。そして、長期にわたって閲覧があるようです。

 

これは健康に関する悩みや関心が高いからかもしれません。ほかにもいろいろ原因があるのでしょうが、今後、ブログ記事を書きながら調べてみたいと思います。

 

歴史も上杉謙信や新撰組、織田信長など有名な人物や組織をタイトルに入れると、閲覧が増えるようです。

 

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とくにテレビで放映された歴史人物を、すぐに記事にするとPVが伸びました。来年は、西郷隆盛を主人公にしたNHK大河物語が放映されますので、楽しみです。

 

西郷隆盛は、とにかく奥の深い人物です。まわりの人物や時代背景も、たいへん興味深く、いろいろな記事が書けそうです。

 

来年は、大河ドラマから目が話せなくなりそうです。

 

 

ひとこと

 

半年もの間、ブログ記事の更新を休んでいましたが、Googleアドセンスのほうは、わずかですが、お金を稼いでくれました。

 

半年のブログ休憩中にGoogleアドセンスが数千円の収益を出してくれました。

 

お小遣い程度ですが、特上うな重が食べれる金額です。そう考えるとうれしくなってきます。

 

毎月、特上うな重が食べれるよう頑張ります\(^○^)/

 

  

高杉晋作は、信長と逆のことをやって成功した?

 

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幕末の高杉晋作は、戦国時代の織田信長とのことを行い、成功させました。

 

織田信長は、当時、農民でもあった武士の農作業をやめさせ、専業武士にしました。「兵農分離政策」です。

 

これによって、本格的な訓練ができ、自在に操れる最強の軍ができたのです。

 

高杉晋作は逆に、農民や庶民、武士などが混成した部隊「奇兵隊」を創設しました。

 

もちろん、本業も兼ねた兵士の軍です。「兵農・庶・武結合政策」ともいえそうです。

 

信長とは正反対のことを晋作は行い、成功させたのです。

 

 

信長の専業武士は強かった

 

戦国時代、兵農分離による本格的な専業武士を備えていたのは、信長がだけです。専業武士の利点を活用して、信長は他の戦国大名を圧倒したのです。

 

敵国が農作業に忙しい時期でも、専業武士には農作業はありません。農作業中の敵を攻撃することができます。

 

戦が本職ですから、緊急の場合でも集結して軍を編成するのも容易です。敵からの奇襲、あるいは奇襲攻めを行う場合でも迅速に動けます。

 

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また、長槍鉄砲で編成した集団戦法を、普段から訓練することができ、戦場で効果的な攻撃が可能になります。

 

農民兵にはない機動力や組織力を最大限に発揮して、圧倒的な強さを発揮したのです。

 

農民と武士を分離することで、大きな攻撃力が確保できました。

 

 

幕末、武士は貴族化していた?

 

戦国時代が終わり江戸時代になると、戦のない平和な時代が続きました。

 

戦国時代と違い、武士の身分が確立され、農作業を兼業する武士はいなくなりました(郷士を除く)。そして、武士は貴族化して、戦う能力も徐々に失われていきました。

 

幕末、外国からの驚異が強まってきます。戦を経験していない武士階級は、旧態依然の制度に固守して改革に熱心でありません。

 

そんな状況を危惧していた人物がおりました。長州藩の吉田松陰です。

 

藩内で松下村塾という私塾を開いていた松陰は、『西洋歩兵論』など外国からの侵略を防ぐ方法について講義していたのです。

 

旧態依然とした戦国時代からの戦い方では、西洋の進んだ武器や戦法に敵いません。西洋と同じ水準まで日本も高めなければならない、ということを熱っぽく講義していました。

 

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その影響を受けた塾生の高杉晋作は、後に「奇兵隊」を創設したのです。農民や庶民を中心とした戦闘部隊です。奇兵隊では、鉄砲や大砲を使用した集団戦法を重視しました。

 

高貴な身分に安住していた武士階級と違い、庶民からなる奇兵隊の士気は高まります。農民や町民でも手柄をたてれば出世できるため、訓練も一所懸命にやり抜きました。

 

西洋式の訓練を受けた奇兵隊は、当時、最新の武器であるミニエー銃やスナイドル銃を扱って、大いに戦果を上げました。

 

そして、他の官軍とともに幕府軍を打ち破り、明治維新で大活躍したのです。

 

 

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ひとこと

 

明治政府が開かれると「徴兵制度」ができました。国民が兵役を担う義務を負うという制度です。

 

「奇兵隊」は志願制でしたが、一般人から兵を募る点で、近代的軍隊の先駆けといえるかもしれませんね(●^U^●)

 

アマゾンの配達が過酷!サービス精神が旺盛な日本?

 

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私もアマゾンでよく買い物をしますので、最近、ニュースでみかけるアマゾンの過酷過ぎる配送の実態が気になります。

 

たしかに注文して当日や翌日に商品が届くのは、たいへんありがたいです。でも、ニュースやドキュメントで配送員の方の苦労を知り、少し驚きました。

 

時々、夜の8時過ぎになって荷物が届くことがありました。「遅いな!」と口には出しませんでしたが、不満なこともありました。

 

配達員の方の過酷の現状を知ってからは、そんな不満を持つのが悪いような気がしてきました。

 

よく考えれば不思議なことです。なんでそんなに急いで商品を届けてもらう必要があるのでしょうか。

 

商品が2日か3日後に届いても、私の人生に大して影響はしません。

 

 

昔の配送は、サービスが悪かった

 

私の両親や祖父母の時代は、現在では考えられないくらい配送のサービスが悪かったのです。

 

大和運輸が「宅配便」のサービスを始める前は、郵便小包鉄道小荷物ぐらいしかありません。

 

荷物を送るときは、郵便局まで行って発送を申し込みます。荷物を受けとるときも、郵便局や駅まで行かなければなりません。

 

すごい面倒くさいですね!

 

配達日数もかかります。果物など生の食品類ですと、かなり痛んでいることもあったそうです。

 

この時代は、荷物の客側が過酷な状況にあったようです。

 

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ところが1976年1月20日、大和運輸(クロネコヤマト)の「宅配便」のサービスの出現によって、徐々に改善されていきました。

 

後に「宅配便」の運送会社も増え、競争の原理により、配送日数が短縮されサービスが向上していきます。

 

そしてネット通販全盛の現在、アマゾンの「お急ぎ便」ような超スピードの配送サービスまで現われました。

 

 

サービス精神が旺盛な日本

 

外国人が日本に訪れると、サービスの良さに驚くそうです。日本に住んでいると当たり前と思うことが、海外ではそうではないみたいです。

 

なぜ、日本はサービス精神が旺盛なのでしょうか。これはやはり島国であることが原因と考えられます。

 

島国なので、古来から同じ相手と商売をすることが多いです。すると信用を得ることが大事になります。信用があれば長くお客さんがついてくれるからです。

 

逆に信用を失えば、商売が成り立たなくなります。

 

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ライバルに負けないように信用を得るため、サービス精神が旺盛になったといわれています。

 

一方で古来から中国など大陸では、人の移動が激しいです。だから、島国の日本ほど信用を得るためのサービスに対して、熱心ではないようです。

 

日本では、サービスを受ける側は快適で、サービスを提供する側は過酷という場合が多いようです。

 

 

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ひとこと

 

「宅配便」の仕事が過酷になる原因のひとつに、再配達の多さがあります。

 

あるドキュメントを見たら、宅配ボックスを増やしたり、コンビニを利用したりといろいろ検討がされています。

 

戸建ての家に、後から宅配ボックスを設置するのは難しいみたいです。

 

でも、ドローンを使って物干し場に荷物を届けるのはどうでしょうか。ダメかな?

 

(●^皿^●)

 

島津斉彬は、西郷隆盛と大久保利通の師だった!?

 

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西郷隆盛と大久保利通は、明治維新の元勲であり、長州の木戸孝允とともに「維新の三傑」と称される英傑です。

 

薩摩藩の第11代藩主である島津斉彬は、その二人の主君であり師でもあります。

 

島津斉彬は、あまり有名ではありませんが、頭が二つある、といわれたほど聡明な人物です。

 

幕末、斉彬は、日本で初めての蒸気船・雲行丸(うんこうまる)を建造しました。

 

その他、溶鉱炉・反射炉の建設、水雷・地雷・ガス灯・ガラスなどを製造しました。西洋の工業技術を積極的に取り入れていたのです。

 

後にイギリスの海軍が薩摩を攻めたとき、これを薩摩藩は見事に撃退しています。

 

当時、世界最強といわれたイギリス海軍を敗退させるほど、薩摩藩の工業技術とともに兵器の水準も高かったのです。

 

富国強兵に尽力した島津斉彬の功績ともいえるでしょう。

 

そして、西郷隆盛と大久保利通という維新で活躍した弟子も育てたのです。

 

 

西郷隆盛はカリスマ性と統率力があった

   

西郷隆盛は、たいへん人間的な魅力にあふれて人物で、カリスマ性がありました。

 

薩長連合や江戸無血開城など、西郷の統率力がなけれ成し得なかったといわれています。

 

江戸へ進軍中、官軍の駐留する駿府を訪れた山岡鉄舟と会談して、江戸無血開城を受け入れました。

 

降伏の条件で、山岡鉄舟から強い要求があり、官軍内でも激しく意見が分かれました。しかし、最後には西郷が官軍の意見をまとめ、鉄舟の要求を受け入れたのです。

 

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また、軍事の天才と称される大村益次郎を、官軍全体の司令官に任命したのは西郷でした。

 

大村益次郎は、誰に対しても遠慮がなく、たいへん無礼な言葉を吐く癖がありました。気性の激しい薩摩の将校に対しても、その態度は変わらず、恨みを買っていました。

 

「大村を司令官にするな!」との意見も多かったのです。

 

しかし、西郷が大村の軍事的才能の必要性を説き、官軍司令官として大村を認めさせました。

 

官軍内で意見が割れても、西郷の統率力によって一致団結することができたのです。

 

西郷のカリスマ性は偉大でした。

 

 

大久保利通は近代国家の基礎を築いた

 

幕末のころ、イギリスでは産業革命によって経済が発展していました。しかし、経済を市場原理に任せていたため、製品の粗悪品や偽物が出回ったり、詐欺などが横行していました。

 

それを反面教師にしたドイツは、経済を市場原理に任せるのではなく、国家が任命した官僚が管理する体制を整えていたのです。

 

近代国家を目指す日本にとって、ドイツの官僚主導体制を取り入れるべきだと大久保利通は考え、実行しました。

 

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また、武士の身分制度があっては、近代国家の構築は不可能と考え、武士身分を剥奪させ、徴兵制を導入しました。

 

この新制度に不満を持つ武士の反乱が相次ぎました。西南戦争では西郷が反乱軍の大将となり、大久保は盟友の命を奪うことになりました。

 

後に紀尾井坂で大久保は、不平士族6名によって暗殺されます。

 

西郷隆盛と大久保利通は、ともに日本の近代化のために戦ったのですが、いまでも西郷は人気があり、大久保は人気がありません。

 

でも、いつの時代も嫌われ役いないと、組織や国は良い方向にすすみませんね。

 

 

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ひとこと

 

西郷隆盛と大久保利通の陽と陰のキャラクターによって、薩摩藩は維新で大きな力を発揮したといえるでしょう。

 

また、その二人の弟子を育てた島津斉彬の功績も偉大ですね(●´I`●)

 

朝鮮半島では、古代から国を守るのに苦労していた?

 

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島国である日本は、古代から他国の侵略を受けず、独立を保つことができました。四方が海なので攻められにくかったのです。

 

ところが隣の朝鮮半島は、大陸と陸続きです。中国にも近いです。それでも中国の王朝から、ほとんど征服されることもなく、独立を保ってきました。

 

もちろん、日本のような完全な独立ではなく、中国王朝の属国の時代が多くを占めています。

 

大陸と陸続の朝鮮半島は、中国王朝を中心とした周辺国の影響を強く受けてきました。

 

 

中国が弱くなると朝鮮半島は強くなる

 

中国が朝鮮半島に領土を広げたのは、前漢王朝の武帝のころです。おそらく武帝の時代に朝鮮半島の西北部を領土にしたのが、最初で最後のようです。

 

武帝の時代以外は、朝鮮半島の国を属国として扱い、間接統治が主でした。

 

後漢王朝の時代になり国力が衰えると、周辺の国が勝手気儘になり、領土を広げるようになりました。

 

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中国東北部方面の高句麗が、半島にある後漢王朝の領土を削りとるようになります。後に半島に百済が興り、後漢王朝の勢力は半島から駆逐されました。

 

つまり、中国が内紛や分裂で力が弱くなると、半島にある国は強くなり、中国が統一王朝になると、半島にある国は弱くなるということです。

 

中国の統一王朝で力の強いときは、属国という立場で半島国は独立を保ちました。

 

 

朝鮮半島に進出した目的とは?

 

別の見方をすると、朝鮮半島は、領土にしたくなるほどの魅力がなかったともいえます。鉱物資源や農産物など他国が欲しがるほどではなかったのかもしれません。

 

豊臣秀吉が朝鮮を攻めたときの目的は、明へ攻め込むための道を借りるためでした。朝鮮の国そのものに魅力を感じたわけではありません。

 

明治から昭和にかけて日本が朝鮮を併合したのも、列強と呼ばれる国々からの驚異から守るためだとか。

 

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もし、朝鮮半島が列強の領土になってしまったら、次に隣国の日本が狙われます。列強に侵略される前に、日本の防衛のために併合したといわれています。

 

その後、第二次世界大戦で日本は降伏して、朝鮮の統治権を失いました。朝鮮半島は、韓国(大韓民国)と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の二国に分かれました。

 

近代から現代にかけて、朝鮮半島をとりまく環境は大きく変化したようです。

 

 

ひとこと

 

モンゴルが高麗を攻めたときは、高麗は約40年間にわたり抵抗しました。江華島に高麗の首都を移し、反抗しました。

 

遊牧騎馬民族のモンゴル軍は、海が苦手でした。それに対して、半島の国である高麗は、海戦が得意でした。

 

モンゴルと交戦中の高麗は、国王や文臣ではなく、武臣が権力を掌握していた武臣政権の時代でした。そのため主戦論が強く約40年間も戦い続けたのです。

 

その時代を描いたドラマ「武神」が見ごたえあります。普段は大人しくて真面目な主人公のキム・ジュンが怒ったときの迫力がすごいです。

 

モンゴル軍にも怯まない、勇猛な高麗の武人が描かれています(●^U^●)

 

 

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奴婢から最高権力に地位まで昇りつめたキム・ジュンをとおして、モンゴルと高麗の攻防が見ものです!

 

 

大友宗麟と信長の宗教への考え方の違いとは?

 

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戦国時代、大友宗麟は九州の大半を制した戦国大名です。勇猛で知られる島津氏も、ある時期まで大友氏に敵いませんでした。

 

大友宗麟と織田信長の共通点は、両者ともキリスト教の宣教師を大事にして、西洋の進んだ技術を積極的に取り入れたところです。

 

しかし、宗教に対する基本的な考えには、大きな違いがありました。その違いが宗麟と信長の運命にも現われてくるのです。

 

 

仏教寺院を破壊した宗麟

 

大友宗麟は、キリスト教に対する信仰心が厚かったのかどうかは不明ですが、洗礼まで受けました。洗礼を受けた後の「耳川の戦い」で大敗します。

 

耳川の戦いは、大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)で激戦をくりひろげた戦です。

 

この大敗の後、大友宗麟の勢力は急速に衰退していきます。後に臼杵城に籠城して、滅亡寸前になりますが、豊臣秀長の軍によって救われます。

 

大敗の原因はいろいろあります。足利義昭の工作による毛利や龍造寺氏、長宗我部氏、薩摩氏の包囲網の影響ともいわれています。

 

また、大勢の大友家臣団が離反という説があります。

 

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家臣団の離反の原因の一つがキリスト教をめぐる対立です。日本に古来がら存在する仏教を信仰する家臣が、キリスト教を大切にして仏教を見限った宗麟に反発したのです。

 

主君の宗麟が、領内のキリスト教の布教を許し、神社仏閣の徹底的な破壊を行っています。寺院の破壊だけでなく、経典や仏像の破壊までしました。

 

仏教の僧にあるまじき贅沢や退廃を嫌っての破壊行為でもありますが、これには多くの家臣が憤慨したのです。

 

結果として、多数の家臣団の離反を招き、大友氏が衰退する大きな原因となったのです。

 

 

信長は、どの宗教の存在も認めていた

 

領土拡大のため、仕方なく石山本願寺門徒や延暦寺の僧兵と戦いましたが、信長は宗教そのものを否定したわけではありません。

 

権力に口出しさえしなければ、どの宗教も認めていました。強制的に特定の宗教の信仰を強制したり、その逆もしません。

 

民衆から信教の自由を奪う権力者は、民衆から支持されないと、信長は考えていたようです。

 

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合理的に事を進める信長は、そんな非効率なことはしません。もちろん、家臣に対してもです。

 

むしろ、民衆が安心して自由に信仰ができる世を目指してしたのかもしれません。

 

 

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ひとこと

 

追い詰められた大友宗麟は、後に信長の助けを求めるようになります。

 

このとき信長は、日本の中央部の大半を支配していました。片や宗麟は、限りなく滅亡に近い状態でした。

 

権力で信仰の自由を奪った宗麟と、奪わなかった信長との差が大きく開いてしまったようですね。

 

(●^U^●)

 

毛利輝元は、関が原の戦いで「無能」だったのか?

 

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関が原の戦で毛利輝元は戦わず敗れました。大阪城に3万ほどの兵を温存したまま、関が原には侵攻せず、むざむざ負けたのです。

 

毛利輝元が3万の兵を率いて関が原へ出陣すれば、西軍が勝っていたといわれています。

 

そのため輝元は「無能」のレッテルが貼られたことで有名です。

 

しかし、本当に「無能」だったのでしょうか。見方を変えれば、当時の難しい状況の中で、最善の選択をしたともいえます。

 

その証拠に毛利家は幕末まで存続して、多くの倒幕の志士を生みます。明治維新後には、日本初の総理大臣である伊藤博文まで輩出したのです。

 

関が原の戦いで、輝元の的確な決断がなければ、後の明治維新の成功もなかったかもしれません。

 

 

祖父の家訓を守った毛利輝元

 

関が原の戦の当時、毛利家は約120万石の広大な領地がありました。もともとは安芸(広島県西部)の小さな国人領主で、大内氏と尼子氏に圧迫されていました。

 

しかし、輝元の祖父である毛利元就の代で、大内氏と尼子氏を滅ぼし、中国の覇者となりました。支配する領地も200万石(150万石の説もあり)ちかくになります。

 

元就が中国を制覇したときは、すでに日本各地に大勢力が天下とりに向かってしのぎを削っていました。

 

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広大な領地を持つ毛利家ですが、元就は天下を望みませんでした。

 

それまでの苦難に満ちた経験から、天下争奪戦に毛利家が参加したら、滅亡する可能性が極めて高い、と判断したのです。

 

だから、元就は、自分の息子や孫にも天下を望んではならない、と強く戒めました。

 

天下を制覇しそうな大勢力と手を組み、毛利家を存続させることを何よりも優先させたのです。

 

そのため、「領地が半分、あるいはさらに半分になっても、安芸の小領主だったころよりも大きい領地が残る。それで満足しろ」とまで元就は言いました。

 

輝元は、その祖父の教えを忠実に守り、毛利家を存続させることに成功したのです。

 

 

生き残りをかけた毛利輝元

 

関が原で、輝元の甥である吉川広家は、家康の味方になりました。総大将の輝元は、大阪城で動かずいたのです。

 

この行動は、西軍か東軍のどちらかが勝利しても、勝った側の下で、なんとか毛利家を存続させるための苦肉の策です。

 

事実、紆余曲折の跡、毛利家は大幅に領地を削られましたが、約38万石の大名として周防国と長門国(山口県)で家を保つことができたのです。

 

もし、仮に輝元が3万の兵を率いて関が原の戦に参加し、西軍が勝利したらその後はいったいどうなっていたでしょうか。おそらく日本全体が乱世に逆戻りしたはずです。

 

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家康の息子である徳川秀忠は、関が原の戦に間に合わず、約3万の兵を温存しています。関東の江戸城には家康の次男、結城秀康が控えています。

 

日本各地には、伊達政宗や島津義久のような野心家が少なくありません。

 

最も恐ろしいのが、当時、九州の大半をほぼ制圧した黒田官兵衛です。豊臣秀吉も恐れた怪物のような官兵衛が、漁夫の利を虎視眈々と狙っているのです。

 

この状況下で天下争奪の乱戦に参加するのは、たいへんなリスクが伴います。

 

やはり、おじいさんの言いつけを守った輝元の判断は、正しかったようです。

 

 

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ひとこと

 

もし、毛利輝元が、はっきりと東軍に味方していたら、どうなっていたでしょうか。

 

味方でも家康は、毛利家120万石の大領をそのままにはしておかなかったはずです。

 

いずれにしろ領土が削られることは、間違いないなかったでしょうね(●^□^●)